久しぶりに書く。
かれこれ1か月以上も道場に行っていないので空手稽古は薄い。とは言え、ここ1週間の昼トレはマアマア中身があるし、週に1回弱は会社の稽古場でサンドバッグを蹴っている。
今日も約1時間で2分12,3ラウンドはやってきた。
本日の課題は「重力」。「沖縄武道空手の極意」には、重力を利用して技を出すのが空手とある。確かに昔、野稽古で足場の悪い所でやる技は地を蹴って腰を素早く回して破壊力をつけることはできにくかったであろう。どんな足場でも丹田に重心を置き自分の体重を乗せた突き蹴りを相手に対してすることが破壊力を生んだはずだ。
先日の極真松井派の世界大会でこのことを確認した。
信じられますか!! 173センチ88Kの小兵のロシア選手が、107Kの前回王者、ブラジルのテイシェイラを破って優勝してしまった。彼、ニコラシビリは前年の日本選手権を制しているから強いのは強いんだが、まさかこれ程とは。
どんだけ攻撃を受けてもこたえない肉体、再々延長でもスタミナが切れずが強さのベースだが、彼の突き技で特徴的なことを発見した。それは速く突きつつも相手に体重をかけるということ、と言うのが分かりやすい表現だろうが、極端な言い方をすると自重で前につんのめるその力を突きにすべて乗せること。これが巨体の相手に対しても下がらない驚異的なことを可としている。また「重力」を利用して「不安定」の中の「安定」で動いている訳だ。これも「古伝」の本で述べられていること。
今度サンドバッグ稽古するときは、重力利用の突きを試さねば、と思い本日サンドバッグ相手にやってきた次第。突きに体重を乗せ突き切ることが必要。押し突きではダメ。前に倒れる力を突きにすべて託しているので、突いた後はその倒れる力を出し切った一時の平衡すなわち安定を得るべきである。押し突きは押したまま不安定のままであるし、そんな押し突きならば重い相手には押し負けて終わり。前に倒れる力を突きの破壊力に変えなければならない。まだまだ押し突きになり、突きにすべての体重を乗せ、それを破壊力として一瞬で放つことはできない。まあ、そんなに簡単なことではないだろう。
「不安定の」中の「安定」とはかくの如くと思う。古伝空手は「居つく」ことをダメとする。今の型で、一つ一つ技をピシッと決めて静止すること自体が「居つき」であり、イカンと言う。常に動き、触れなばと言うか、相手と接触した時に一瞬の力を伝える。その伝え方が重力ということ。
ニコラシビリの組手がそうであった。回転の速い全ての突き技、蹴り技さえも自分の体重を乗せ相手を突きぬける破壊力を感じたし、そうであるから技をかけた後安定し、また不安定つまり自重を重力にのせ攻撃を重ねられるのである。
2011年11月17日木曜日
2011年10月14日金曜日
トレーニングから国家論の入口へ
今日は久しぶりにタバコを吸わずに、昼休みのトレーニングに直行した。まあOKだね。久しぶりでもあり、ハードなトレーニングをすると嫌になりそうなので、ある程度余裕を持ってなるべく楽しむように楽しめるようにと、緩めのトレーニングを行った。武道家の心持とは程遠いが色々自分に言い聞かせてやらねばならない年であることだから情状酌量であるとしよう。うーむ、そう考える時点で既に武道家ではないが・・・。
メニューは、V字腹筋50回、懸垂2種、バタフライ3セット、レッグエクステンション3セット、ダンベルのショルダープレス2セットだからまあまあだ。スクワットは辛いので避ける。これがバツイチ。もっともハードにやっている時には間隔をあけなかったから、柔軟も5分できたが、本日は時間切れ。久しぶりの20分の昼トレだった。
禁煙が続いたのは本日12時間。ついつい帰り道にコンビニでタバコを買ってしまい、今吸っている。明日のトレーニングや如何に。
・・・・・
日本の劇場型政治がまだまだ続いている。ヤイノヤイノと騒ぎながら気がつかないほどに長い時間の中の衰退が始まっている。バブル崩壊の後始末に20年。その間、阪神大震災や先日の東日本大震災が起きた。災害は一過的であり、復興に努めれば何とか回復が可能だと思う。国力の減退として最も警戒すべきは人口の減少と教育の迷いである。
人口が減れば国内市場は縮小するし、社会保障の重圧は若い世代にのしかかる。若者が多くない国は年寄りの保守路線にはまり未来へのチャレンジは小さくなっていく。国力は増大すべきとの観点からはいいことは一つもない。未来を大胆に描くべき若者達なんだが、現在の彼等は「消費する人々」である。ハングリー精神は昔に比べてはるかに少なく、本来は渇望から何かを生む熱情が出るのだが、それは薄く、恵まれた環境で与えられたサービスを消費している。日本が豊かになったからである。
我が国の問題を挙げろと言われればいくらでも上げられるが、世界の中で相対的に見れば日本は豊かである。その環境下なんだろうね、世界平和に貢献すべきの思想を培うべき教育がなっていない。未来への飢餓感――現在がそこそこであるのはよしとして――を持して若者の志を作るべき教育・・・・ハアーとため息が出る。
いつからハングリーでなくなり夢を語れない国民になったのであろうか。現在において責任を負うべきなのは若者達ではない。我々いい年をしたオヤジ達だ。野田総理は実はまだまだ若いんだよね、総理としては。その彼が若々しい総理として国家の夢を語れずに、マスコミにたたかれるからとしてメッセージが非常に慎重である。まあそれは彼のキャラクターであり、故に総理となれたのかもしれないが、それでいいのであろうか?
いいわけはない。
オヤジ達よ、まず夢を語ろう。失言を捉えて批評を加え嘲笑する時代と国家は病的だぞ。
メニューは、V字腹筋50回、懸垂2種、バタフライ3セット、レッグエクステンション3セット、ダンベルのショルダープレス2セットだからまあまあだ。スクワットは辛いので避ける。これがバツイチ。もっともハードにやっている時には間隔をあけなかったから、柔軟も5分できたが、本日は時間切れ。久しぶりの20分の昼トレだった。
禁煙が続いたのは本日12時間。ついつい帰り道にコンビニでタバコを買ってしまい、今吸っている。明日のトレーニングや如何に。
・・・・・
日本の劇場型政治がまだまだ続いている。ヤイノヤイノと騒ぎながら気がつかないほどに長い時間の中の衰退が始まっている。バブル崩壊の後始末に20年。その間、阪神大震災や先日の東日本大震災が起きた。災害は一過的であり、復興に努めれば何とか回復が可能だと思う。国力の減退として最も警戒すべきは人口の減少と教育の迷いである。
人口が減れば国内市場は縮小するし、社会保障の重圧は若い世代にのしかかる。若者が多くない国は年寄りの保守路線にはまり未来へのチャレンジは小さくなっていく。国力は増大すべきとの観点からはいいことは一つもない。未来を大胆に描くべき若者達なんだが、現在の彼等は「消費する人々」である。ハングリー精神は昔に比べてはるかに少なく、本来は渇望から何かを生む熱情が出るのだが、それは薄く、恵まれた環境で与えられたサービスを消費している。日本が豊かになったからである。
我が国の問題を挙げろと言われればいくらでも上げられるが、世界の中で相対的に見れば日本は豊かである。その環境下なんだろうね、世界平和に貢献すべきの思想を培うべき教育がなっていない。未来への飢餓感――現在がそこそこであるのはよしとして――を持して若者の志を作るべき教育・・・・ハアーとため息が出る。
いつからハングリーでなくなり夢を語れない国民になったのであろうか。現在において責任を負うべきなのは若者達ではない。我々いい年をしたオヤジ達だ。野田総理は実はまだまだ若いんだよね、総理としては。その彼が若々しい総理として国家の夢を語れずに、マスコミにたたかれるからとしてメッセージが非常に慎重である。まあそれは彼のキャラクターであり、故に総理となれたのかもしれないが、それでいいのであろうか?
いいわけはない。
オヤジ達よ、まず夢を語ろう。失言を捉えて批評を加え嘲笑する時代と国家は病的だぞ。
2011年10月12日水曜日
最近稽古をやっていない
負の連鎖とまでは行かないが、空手に関して停滞の時期に入ってしばらく経つ。と、難しく言うが、つまりは2カ月程度まともに稽古していないということ。
まずタバコをまたもや吸い出したのがイカン。昼休みに入るとまずタバコを吸いに行き、チェーンスモーク。その内、昼トレをする時間がなくなり、かつてはほぼ毎日やっていたのが最近はせず。従って毎日鍛えていることの自信の裏うちが崩れ、休みの日に稽古に行くのに気が進まなくなり、ここ2カ月ばかりほとんど行かず、と相成っている。
健康の為、身体を鍛える為に稽古に行けばいいものを、普段きちんと鍛えてなければ、どうも行く気が無くなってしまう。道場にて鍛えればよいのだろうが、黒帯の小生としては、道場稽古は日常のトレーニングの結果を確認する場であり、また技を見せる場であり、指導する場である。普段のトレーニングをやっていないとそれをする気が起こらなくなってしまう。まったく本末転倒の変な話だ。行って稽古すればまだまだ未熟であることを自覚し、明日からがんばろうと日常トレーニングに戻っていく。それが今までの常であり、それをポジティブループとすれば、現在はそうではなく、停滞のループ。
タバコを止めねばならん。空手にかける情熱も薄くなってきたのであろうか。気持ちはまだまだあるとして先日も「何の為の空手か」を書いていたが、実行に繋がっていない。今日は「やれやれ」でこの文を閉じる。まあ、普段述べている内容の武道家たり得ない、普通人のこの頃である。
まずタバコをまたもや吸い出したのがイカン。昼休みに入るとまずタバコを吸いに行き、チェーンスモーク。その内、昼トレをする時間がなくなり、かつてはほぼ毎日やっていたのが最近はせず。従って毎日鍛えていることの自信の裏うちが崩れ、休みの日に稽古に行くのに気が進まなくなり、ここ2カ月ばかりほとんど行かず、と相成っている。
健康の為、身体を鍛える為に稽古に行けばいいものを、普段きちんと鍛えてなければ、どうも行く気が無くなってしまう。道場にて鍛えればよいのだろうが、黒帯の小生としては、道場稽古は日常のトレーニングの結果を確認する場であり、また技を見せる場であり、指導する場である。普段のトレーニングをやっていないとそれをする気が起こらなくなってしまう。まったく本末転倒の変な話だ。行って稽古すればまだまだ未熟であることを自覚し、明日からがんばろうと日常トレーニングに戻っていく。それが今までの常であり、それをポジティブループとすれば、現在はそうではなく、停滞のループ。
タバコを止めねばならん。空手にかける情熱も薄くなってきたのであろうか。気持ちはまだまだあるとして先日も「何の為の空手か」を書いていたが、実行に繋がっていない。今日は「やれやれ」でこの文を閉じる。まあ、普段述べている内容の武道家たり得ない、普通人のこの頃である。
2011年10月11日火曜日
試合の思い出、学んだこと
今から30年も前の春、ある地域の大学個人選手権の試合に臨んでいた。結構大きな大会であり、その前年にベスト16迄行ったので、4回生として最後のチャンス故、少なくとも前年以上の成績を残すべきであるが、不思議に大会が近づいてもそんなプレッシャーはなかった。
3回戦、4回戦と勝ち進むにつれ、「そうだ去年よりは少なくとも上に行かねば」と思った。幸いにしてベスト16を勝ち、ベスト4迄行った。
不思議ではある。勝ち進んでベスト16の試合が近くなった時にようやくそう思った。その前は「無心」。試合の2カ月ばかり前から、最後の大舞台にかける気持ちは非常に強かったんだが、優勝しようとか、去年よりもいい成績を残そうだとか言う感覚は皆無だった。
1ヶ月くらい前からは寝床に入って寝るまでの間、まあ寝ているから目を閉じているんだが、意識が無くなるまで闘いのシミュレーションをやっていた。寝ながら何度もビクッとして身体を強張らせたもんだ。シミュレーションしてやられる時だ。だいたい自分の想像の世界で闘っているのに、何でわざわざやられなければならないのか?ただ、その時はそういうことが毎回あった。
街を歩くと、すれ違う人々に想像の中で技をかけた。「今は突きの一発で倒せた」とか「間合いが合わなかったので、この蹴りでは倒せないな」とか。物騒この上もない。俺の顔つきは一体どんなだったろうかと思う。すれ違う人にガンをつけていた訳ではない。なるべく普通の顔でいたと思うが、殺気は体内に満ちていた。
試合の2カ月弱前に、自主稽古で自分の技を鏡に映してチェックしていると、「一歩出て前蹴り」、左前のレギュラーの構えから後ろの右足を素早く前に送って左足で前蹴りをするという技が、我ながらやけに速くできることを知った。そこでこれを主戦にしようと決めた。皆でやる定常の稽古以外に、自分のペースで技の形をレヴューする自主稽古をよくしたものであるが、そこではよく発見があった。
それまでは182センチの上背とリーチを活かして、上段突きを主戦にしていた。寸止めの試合はほとんど突きでポイントをとるものであり、蹴りを極め技にする試合運びは一般的に少なく、自分もたいていそうであった。蹴りでポイントとったことはそれまではあまりないと思う。
しかし意外と「一歩出て前蹴り」が速い。瞬時にできるぞ、と。
またしかしであるが、なんぼ速いと言っても、一歩の歩を送っている間はかなり無防備である。一歩歩を進める技は蹴りは無論突きにしても非常に思い切りがいるし、移動の間にカウンターを喰らうとそれはまずほとんど寸止めでは無く当たる。こっちが大きく間合いを詰めているので当然と言えば当然だ。だから技を出す方にしても覚悟と思い切りがいるものだ。
結果的には逡巡せず出すこの技で勝ち上がった。半歩出れば天国、半歩退けば地獄とよく言っていたもんだが、その間合いコントロールがやけにうまくいった。気力が満ちていたからだと思う。妙な証左になるんだが、ベスト4に勝ち残った時に俺はやったぞ的な達成感を感じてしまい、それからの試合は全く駄目だった。準決勝、3位決定戦、相手も非常に強かったこともあるが、逡巡せず特攻精神みたいなもんで前蹴りをすることができなくなり、相手にきっちりカウンターを極められた。
あれは「気」の勝負であった。勝ってベスト4まで進んだことに満足してしまい、以後「気」が拡散してしまった。チャンピオンに成るまで気の抜けない伝統校の選手と、小生のようにベスト4に入れば大変よくやったと思ってしまう者の違いだ。小生は若く、スポーツ選手であったが武道家ではなかったとも言える。闘いに臨めば生死の狭間で勝って生きることを求めるのが武道家である。負けて死ぬのも武道家である。闘う前に満ち足りているならばお話にはならない。
それまでの「気」はよかった。試合の日は目覚ましが鳴る前の早朝、眼を覚ました。眠くもない。こんなことは人生の中、何度もない。小学生の頃、楽しみでしょうがなかった遠足に行く日の朝のようだ。起きて全く眠くなく、既に頭がきれいに冴えていた。京都の某体育館に集合時間の前に着き、近くの喫茶店でモーニングサービスをゆったりと食した。集合時間が過ぎたがまだそのまま。やがて既に体育館の前にて稽古を始めていた我が校の部員の輪に加わるのだが、遅刻して反省やら謝りやらの思いは不思議な程一切なく、完全なるマイペース。もともと間に合わそうとすればできたのであるが、無心の時間のようなものを喫茶店でおくっていた訳だ。無心が続き、ゆっくりと着替え準備体操をして、既にメニューが進んでいる稽古に加わった。稽古を始めると集中力が加わり、そして試合が始まった。
不思議ではなく当たり前なんだろうが、順調に勝ち進んだ試合の中身は一切覚えていない。難敵と相対し負けそうになった試合の方は覚えている。ベスト16で先手をとった後無造作に出した蹴りをさばかれて技ありをとられたこと。その後相手に攻め込まれて思わず出した上段突きが極まり、やっとこさ勝ったこと。ベスト8に相対した190センチの巨漢に先手をとれた上段突き、その後相手も強いのでアレヨと言う間に攻め込まれて取られた上段突き、負けるかもしれなかった中で無心かつ思い切りよく一歩進めての前蹴りが、自分ではさして極まったつもりがないんだが、タイミングと形がよかったのであろう、審判がとってくれ勝利してしまったこと。
準決勝。相手がかなり間合いを詰めてきた。それまでは遠い間合いから一気に歩を進めての前蹴りが面白いように極まっていたが、あの近い間合いでは使いようがない。それどころか上段の逆突きが届きそうな程の近さだ。上段の逆突きをする瞬間、相手のカウンターの中段が極まった。2本目も極められたのだが、どういう技だったかは記憶が不確かだ。確か有利に立った相手に攻め込まれて、あえなく技有り2本の一本負けだった。3位決定戦。一歩出て前蹴りへ行く途中にカウンターの中段でまず技有りをとられた。2本目は攻防の中でまたもや中段を極められたと思う。これもあっさりと一本負け。後に読んだ「月刊空手道」の記事では、「すごい勝ち方をする選手だったが、準決勝以降は萎縮したのであろうか・・・」となっていた。すごい勝ち方と言うのは、ほとんどの極め技が蹴りであった為に派手に見えたのであろう。準決勝以降は上に記したように、あっさりと早々と一本負けを喫した。ベスト4に残った時に天井を見上げて、俺はよくやった的な満足をしてしまったから「気」も出ないわな。既に闘いに執着した勝負をする感覚ではなくなっていた。相手が強かったというのもあるが、それにしてもあっけなかった。
この試合で学んだ大きなことは、チャンピオンを目指さなければ既に勝負に負けていると言うことだ。
と、認識したんだが、それ以降、大学の選手を引退するまでに小生は多く負けた。その大会以前に負けた回数よりも多く負けてしまった。その大会までは高い身長を活かして懐を深くする後屈立ちに近い形で構えていたが、全日本学生選手権の東西対抗選手としてただ一度、強化練習があった時に、体重を後ろにかけ過ぎであることを注意された。前屈立ちに近い形で構えれば、後ろ脚が既に床をキックする態勢になっており、飛び込んで突きをするのに有利であると指導され、やってみたら確かにその通りだったので以降その構えに変えたんだが、それがまったくよくなかった。元々小生の反応は早くないのであろう。飛び込みのスピードやカウンターには有利なその構えは、小生には合っていなかった。相手の攻撃を懐の深さで受けながら攻防の中で技をかけるか、マイペースで相手の警戒の中、その予想以上に遠間から思い切りよく歩を進めて極める試合運びで好成績を出していたんだが、それを捨ててしまった。技術的な指導を受けることもないくらい学内では強くなっており、OB先輩からの技の指導はほとんどなかったので逆に、その選別された選手用の強化練習を指導する人をやけに偉く感じて、素直に聞いてしまったのが敗因だ。指導は受けても自分の頭で全体的にもっと考えねばならなかったが、まあ当時は無理だったろうね。その指導後の前屈立ちの構えからは、確かにその当時の小生の課題であった速い出足ができるような気がしたもんね。半歩を速く出る構えであった。それまでの小生の勝ちパターンは、半歩を速く出られないので、思い切りよく一歩を進めてより遠間から攻撃することだった。
まあ繰り返しになるが、指導を疑問なく受けるのではなく、受けるのは素直に受けるのだが、自分の頭で熟考することが大切だ。それが前向きに指導を受けることでもある。
うーん、今日はタラタラと思い出を書きながら来た。まとめねばどうもイカンような。
3回戦、4回戦と勝ち進むにつれ、「そうだ去年よりは少なくとも上に行かねば」と思った。幸いにしてベスト16を勝ち、ベスト4迄行った。
不思議ではある。勝ち進んでベスト16の試合が近くなった時にようやくそう思った。その前は「無心」。試合の2カ月ばかり前から、最後の大舞台にかける気持ちは非常に強かったんだが、優勝しようとか、去年よりもいい成績を残そうだとか言う感覚は皆無だった。
1ヶ月くらい前からは寝床に入って寝るまでの間、まあ寝ているから目を閉じているんだが、意識が無くなるまで闘いのシミュレーションをやっていた。寝ながら何度もビクッとして身体を強張らせたもんだ。シミュレーションしてやられる時だ。だいたい自分の想像の世界で闘っているのに、何でわざわざやられなければならないのか?ただ、その時はそういうことが毎回あった。
街を歩くと、すれ違う人々に想像の中で技をかけた。「今は突きの一発で倒せた」とか「間合いが合わなかったので、この蹴りでは倒せないな」とか。物騒この上もない。俺の顔つきは一体どんなだったろうかと思う。すれ違う人にガンをつけていた訳ではない。なるべく普通の顔でいたと思うが、殺気は体内に満ちていた。
試合の2カ月弱前に、自主稽古で自分の技を鏡に映してチェックしていると、「一歩出て前蹴り」、左前のレギュラーの構えから後ろの右足を素早く前に送って左足で前蹴りをするという技が、我ながらやけに速くできることを知った。そこでこれを主戦にしようと決めた。皆でやる定常の稽古以外に、自分のペースで技の形をレヴューする自主稽古をよくしたものであるが、そこではよく発見があった。
それまでは182センチの上背とリーチを活かして、上段突きを主戦にしていた。寸止めの試合はほとんど突きでポイントをとるものであり、蹴りを極め技にする試合運びは一般的に少なく、自分もたいていそうであった。蹴りでポイントとったことはそれまではあまりないと思う。
しかし意外と「一歩出て前蹴り」が速い。瞬時にできるぞ、と。
またしかしであるが、なんぼ速いと言っても、一歩の歩を送っている間はかなり無防備である。一歩歩を進める技は蹴りは無論突きにしても非常に思い切りがいるし、移動の間にカウンターを喰らうとそれはまずほとんど寸止めでは無く当たる。こっちが大きく間合いを詰めているので当然と言えば当然だ。だから技を出す方にしても覚悟と思い切りがいるものだ。
結果的には逡巡せず出すこの技で勝ち上がった。半歩出れば天国、半歩退けば地獄とよく言っていたもんだが、その間合いコントロールがやけにうまくいった。気力が満ちていたからだと思う。妙な証左になるんだが、ベスト4に勝ち残った時に俺はやったぞ的な達成感を感じてしまい、それからの試合は全く駄目だった。準決勝、3位決定戦、相手も非常に強かったこともあるが、逡巡せず特攻精神みたいなもんで前蹴りをすることができなくなり、相手にきっちりカウンターを極められた。
あれは「気」の勝負であった。勝ってベスト4まで進んだことに満足してしまい、以後「気」が拡散してしまった。チャンピオンに成るまで気の抜けない伝統校の選手と、小生のようにベスト4に入れば大変よくやったと思ってしまう者の違いだ。小生は若く、スポーツ選手であったが武道家ではなかったとも言える。闘いに臨めば生死の狭間で勝って生きることを求めるのが武道家である。負けて死ぬのも武道家である。闘う前に満ち足りているならばお話にはならない。
それまでの「気」はよかった。試合の日は目覚ましが鳴る前の早朝、眼を覚ました。眠くもない。こんなことは人生の中、何度もない。小学生の頃、楽しみでしょうがなかった遠足に行く日の朝のようだ。起きて全く眠くなく、既に頭がきれいに冴えていた。京都の某体育館に集合時間の前に着き、近くの喫茶店でモーニングサービスをゆったりと食した。集合時間が過ぎたがまだそのまま。やがて既に体育館の前にて稽古を始めていた我が校の部員の輪に加わるのだが、遅刻して反省やら謝りやらの思いは不思議な程一切なく、完全なるマイペース。もともと間に合わそうとすればできたのであるが、無心の時間のようなものを喫茶店でおくっていた訳だ。無心が続き、ゆっくりと着替え準備体操をして、既にメニューが進んでいる稽古に加わった。稽古を始めると集中力が加わり、そして試合が始まった。
不思議ではなく当たり前なんだろうが、順調に勝ち進んだ試合の中身は一切覚えていない。難敵と相対し負けそうになった試合の方は覚えている。ベスト16で先手をとった後無造作に出した蹴りをさばかれて技ありをとられたこと。その後相手に攻め込まれて思わず出した上段突きが極まり、やっとこさ勝ったこと。ベスト8に相対した190センチの巨漢に先手をとれた上段突き、その後相手も強いのでアレヨと言う間に攻め込まれて取られた上段突き、負けるかもしれなかった中で無心かつ思い切りよく一歩進めての前蹴りが、自分ではさして極まったつもりがないんだが、タイミングと形がよかったのであろう、審判がとってくれ勝利してしまったこと。
準決勝。相手がかなり間合いを詰めてきた。それまでは遠い間合いから一気に歩を進めての前蹴りが面白いように極まっていたが、あの近い間合いでは使いようがない。それどころか上段の逆突きが届きそうな程の近さだ。上段の逆突きをする瞬間、相手のカウンターの中段が極まった。2本目も極められたのだが、どういう技だったかは記憶が不確かだ。確か有利に立った相手に攻め込まれて、あえなく技有り2本の一本負けだった。3位決定戦。一歩出て前蹴りへ行く途中にカウンターの中段でまず技有りをとられた。2本目は攻防の中でまたもや中段を極められたと思う。これもあっさりと一本負け。後に読んだ「月刊空手道」の記事では、「すごい勝ち方をする選手だったが、準決勝以降は萎縮したのであろうか・・・」となっていた。すごい勝ち方と言うのは、ほとんどの極め技が蹴りであった為に派手に見えたのであろう。準決勝以降は上に記したように、あっさりと早々と一本負けを喫した。ベスト4に残った時に天井を見上げて、俺はよくやった的な満足をしてしまったから「気」も出ないわな。既に闘いに執着した勝負をする感覚ではなくなっていた。相手が強かったというのもあるが、それにしてもあっけなかった。
この試合で学んだ大きなことは、チャンピオンを目指さなければ既に勝負に負けていると言うことだ。
と、認識したんだが、それ以降、大学の選手を引退するまでに小生は多く負けた。その大会以前に負けた回数よりも多く負けてしまった。その大会までは高い身長を活かして懐を深くする後屈立ちに近い形で構えていたが、全日本学生選手権の東西対抗選手としてただ一度、強化練習があった時に、体重を後ろにかけ過ぎであることを注意された。前屈立ちに近い形で構えれば、後ろ脚が既に床をキックする態勢になっており、飛び込んで突きをするのに有利であると指導され、やってみたら確かにその通りだったので以降その構えに変えたんだが、それがまったくよくなかった。元々小生の反応は早くないのであろう。飛び込みのスピードやカウンターには有利なその構えは、小生には合っていなかった。相手の攻撃を懐の深さで受けながら攻防の中で技をかけるか、マイペースで相手の警戒の中、その予想以上に遠間から思い切りよく歩を進めて極める試合運びで好成績を出していたんだが、それを捨ててしまった。技術的な指導を受けることもないくらい学内では強くなっており、OB先輩からの技の指導はほとんどなかったので逆に、その選別された選手用の強化練習を指導する人をやけに偉く感じて、素直に聞いてしまったのが敗因だ。指導は受けても自分の頭で全体的にもっと考えねばならなかったが、まあ当時は無理だったろうね。その指導後の前屈立ちの構えからは、確かにその当時の小生の課題であった速い出足ができるような気がしたもんね。半歩を速く出る構えであった。それまでの小生の勝ちパターンは、半歩を速く出られないので、思い切りよく一歩を進めてより遠間から攻撃することだった。
まあ繰り返しになるが、指導を疑問なく受けるのではなく、受けるのは素直に受けるのだが、自分の頭で熟考することが大切だ。それが前向きに指導を受けることでもある。
うーん、今日はタラタラと思い出を書きながら来た。まとめねばどうもイカンような。
- 勝負の場に立つならばチャンピオンを目指せ。途中で満足はするな。
- 指導は素直に受けて前向きに実行するが、その後自分の頭で主体的に熟考せよ。
2011年10月3日月曜日
何の為の空手か? 第3回
少し休みが取れたので妻と一緒に帰省してきた。住んでいる埼玉県から車で約7時間のドライブ、一泊二日の旅である。妻が小生の実家に行くのは、バーさんの葬式以来、3年ぶりだ。小生は盆と正月の2回、毎年帰省しているが、その時は息子を伴っている。近年はその息子も、何もない片田舎に行くのを嫌がっているが、長男の義務であるの一言で済ましている。妻は、同居している妻の老いた母を一人にしておけないので毎年の帰省には同行はしない。それが、久しぶりに小生の実家を訪れ墓参りをしようと言いだした。息子は高校1年で学校がある。考えてみれば息子が生れて以来、久方ぶりの夫婦だけの旅である。
実家は、小生の方の年老いた母の一人住まいである。70代半ばになるが、幸いまだ健勝である。無論悪い所は色々あるようなんだが、一人で家の裏に作った畑仕事をして、野菜をとり暮らしている。田んぼもあるのだが、その面倒は到底無理であり、知り合いに頼みこんで耕してもらっている。母は小学の教員をしていたが、退職してもう久しい。父は15年前に亡くなっている。月日の経つのは早いもんだ。
田舎の出身で都会に出て働いており、既にそこに家庭を持ち、老母のみが実家を守っているという境遇の人もそれなりに多くいると思う。今後どうするべきかと考えなければいけないのだが、まだまだ何かが起きるまでは実感が伴わない。その何かとは、小生の定年退職であり、あるいは母が病を受けることであろう。定年退職まではまだ8年あり、その時母は83歳か。
4年ほど前に妻に言ったことがある。息子がまだ小学生でかわいくまとわりついており、夫婦の母親二人がまだ健康で、猫もおり、家の新築が成り、「今が一番幸せかもしれんな」、と。その言外には、これから衰え失う人生があり、それに対処していくことを含んでいた。
息子の成長はまだまだこれからではあるが、それは最愛の彼が親の手を離れて行くことを意味する。母達は老いて行く。そうそう、我家の一員である猫も老いて行き、おそらくは一番早くその寿命を迎えてしまうことだろう。
下り坂の人生をどう歩むか。小生は別段否定的に「下り坂」と表現をしている訳ではない。それが年齢的に自然であるからだ。人はずーっと逞しく強くなる訳ではない。これからは失うことが多くなる時間となる。
母は相変わらず元気に我々を迎えた。女は逞しい。実家は掃除が行き届いていて何年かぶりに見るきれいさだった。おいおい、小生と息子が帰省した時にはこんなにきれいではないぞ。埼玉の家に帰り着いてからそのことを妻に話すと、「お母さんに無理させたね」と言った。彼女もまた優しく逞しい。彼女と彼女の母、小生、息子で暮らす埼玉の我家は彼女で持っている。同居している彼女の母は既に80代半ばに近く、軽い介護の必要な状況になりつつある。
武道が人の処する道を示してくれるのであるならば、「女の強さ」を持つべきかもしれない。リングで闘い、若さの絶頂の強さ比べだけではなく、下り坂、衰え、それをカバーする、人の芯の強さを磨く道であるべきであろう。現代の武道は、戦国の世に人を殺し自分が生きる術ではなく、平和の世に自らの極めの為にのみ在る訳でもない。人を守り、人を生かす術であるはずだ。若々しい魂が伸びて行くことを応援し、またその彼等が求めてよしとする道で在りたいし、小生のようなこれから衰えて行く人間が求道してもよい何らかのモノがあってもよい。それを普遍の価値と言う。
普通なら35歳くらいで武道家として衰えを実感するはずが、50を越えてしばらくしてそんなことを感じる小生もかなり図々しいと言うか我が身を知らぬものであると言える。50を越えてやっとこさ衰えを意識している!?
ここ2年ほど、試合に出るかどうかを迷っていた。もうこの年になって試合と言えども人を傷つけたくはないし、自分もわざわざ痛い目に遭いたくもない。では何で試合に出ようとするのか、と。ある高名なフルコン格闘者が言ったことがある。闘う相手に敬意を表する、と。
闘うならば勝ち、相手を制圧することが正しいことだ。小生は若い時そう考えていた。それは今も正しいと思う。強い奴に勝つ為にハードな稽古を行い、勝ってさらに上を目指すか、負けて限界を知るかであった。ところが年をとり40後半になっても試合に出ようとすると、なぜ出るのかの意義が必要になってくる。それを探していた時に、そのフルコン猛者であり、ある程度年を経た師範の言葉が身にしみた。闘う同志を尊敬し感謝する、ということ。自らの技と闘志を磨きその同志に会う。人生の喜びとする邂逅である。それも正しい。しかし今はさらに違うような結局同じのような・・・。闘うという姿は色々なのだ。その一つが試合場に立って闘うことであるならば、それをしよう。自ら選択した道であり、何らかの発見があるはずだ。上手く言えないね、それは生命力と表現するようなものなんだろうね。
この話は続くかどうか、小生にも分からぬ。ただ男の小生に、女たちが武道をいうものを教えてくれているような気がする。武道は、男の道であるはずなんだがな。自然でひたむきな生き様ということなんだろうね・・・。昨今、男の方は、若い時は青雲の志に燃えたとしても、年をとりくたびれてすっかりサラリーマンになり、出世のような副次的な価値観の中に一喜一憂し、根源的な生き方を失いがちになる。そういうのは「武道的」生活ではなく、その中で空手稽古もしていると言っても、単なる勝ち負けや技の習得にかけるゲーム、あるいは健康維持の体操に過ぎなくなる。武道と命というものは本来直接的に繋がるものだ。刃をくぐり抜ける生活ではなくても、ひたむきに人を守る生活と言う、女の道の方が武道的のような気がしてくる。さらに・・・女は命を賭けて赤子を産む。
さて。
実家は、小生の方の年老いた母の一人住まいである。70代半ばになるが、幸いまだ健勝である。無論悪い所は色々あるようなんだが、一人で家の裏に作った畑仕事をして、野菜をとり暮らしている。田んぼもあるのだが、その面倒は到底無理であり、知り合いに頼みこんで耕してもらっている。母は小学の教員をしていたが、退職してもう久しい。父は15年前に亡くなっている。月日の経つのは早いもんだ。
田舎の出身で都会に出て働いており、既にそこに家庭を持ち、老母のみが実家を守っているという境遇の人もそれなりに多くいると思う。今後どうするべきかと考えなければいけないのだが、まだまだ何かが起きるまでは実感が伴わない。その何かとは、小生の定年退職であり、あるいは母が病を受けることであろう。定年退職まではまだ8年あり、その時母は83歳か。
4年ほど前に妻に言ったことがある。息子がまだ小学生でかわいくまとわりついており、夫婦の母親二人がまだ健康で、猫もおり、家の新築が成り、「今が一番幸せかもしれんな」、と。その言外には、これから衰え失う人生があり、それに対処していくことを含んでいた。
息子の成長はまだまだこれからではあるが、それは最愛の彼が親の手を離れて行くことを意味する。母達は老いて行く。そうそう、我家の一員である猫も老いて行き、おそらくは一番早くその寿命を迎えてしまうことだろう。
下り坂の人生をどう歩むか。小生は別段否定的に「下り坂」と表現をしている訳ではない。それが年齢的に自然であるからだ。人はずーっと逞しく強くなる訳ではない。これからは失うことが多くなる時間となる。
母は相変わらず元気に我々を迎えた。女は逞しい。実家は掃除が行き届いていて何年かぶりに見るきれいさだった。おいおい、小生と息子が帰省した時にはこんなにきれいではないぞ。埼玉の家に帰り着いてからそのことを妻に話すと、「お母さんに無理させたね」と言った。彼女もまた優しく逞しい。彼女と彼女の母、小生、息子で暮らす埼玉の我家は彼女で持っている。同居している彼女の母は既に80代半ばに近く、軽い介護の必要な状況になりつつある。
武道が人の処する道を示してくれるのであるならば、「女の強さ」を持つべきかもしれない。リングで闘い、若さの絶頂の強さ比べだけではなく、下り坂、衰え、それをカバーする、人の芯の強さを磨く道であるべきであろう。現代の武道は、戦国の世に人を殺し自分が生きる術ではなく、平和の世に自らの極めの為にのみ在る訳でもない。人を守り、人を生かす術であるはずだ。若々しい魂が伸びて行くことを応援し、またその彼等が求めてよしとする道で在りたいし、小生のようなこれから衰えて行く人間が求道してもよい何らかのモノがあってもよい。それを普遍の価値と言う。
普通なら35歳くらいで武道家として衰えを実感するはずが、50を越えてしばらくしてそんなことを感じる小生もかなり図々しいと言うか我が身を知らぬものであると言える。50を越えてやっとこさ衰えを意識している!?
ここ2年ほど、試合に出るかどうかを迷っていた。もうこの年になって試合と言えども人を傷つけたくはないし、自分もわざわざ痛い目に遭いたくもない。では何で試合に出ようとするのか、と。ある高名なフルコン格闘者が言ったことがある。闘う相手に敬意を表する、と。
闘うならば勝ち、相手を制圧することが正しいことだ。小生は若い時そう考えていた。それは今も正しいと思う。強い奴に勝つ為にハードな稽古を行い、勝ってさらに上を目指すか、負けて限界を知るかであった。ところが年をとり40後半になっても試合に出ようとすると、なぜ出るのかの意義が必要になってくる。それを探していた時に、そのフルコン猛者であり、ある程度年を経た師範の言葉が身にしみた。闘う同志を尊敬し感謝する、ということ。自らの技と闘志を磨きその同志に会う。人生の喜びとする邂逅である。それも正しい。しかし今はさらに違うような結局同じのような・・・。闘うという姿は色々なのだ。その一つが試合場に立って闘うことであるならば、それをしよう。自ら選択した道であり、何らかの発見があるはずだ。上手く言えないね、それは生命力と表現するようなものなんだろうね。
この話は続くかどうか、小生にも分からぬ。ただ男の小生に、女たちが武道をいうものを教えてくれているような気がする。武道は、男の道であるはずなんだがな。自然でひたむきな生き様ということなんだろうね・・・。昨今、男の方は、若い時は青雲の志に燃えたとしても、年をとりくたびれてすっかりサラリーマンになり、出世のような副次的な価値観の中に一喜一憂し、根源的な生き方を失いがちになる。そういうのは「武道的」生活ではなく、その中で空手稽古もしていると言っても、単なる勝ち負けや技の習得にかけるゲーム、あるいは健康維持の体操に過ぎなくなる。武道と命というものは本来直接的に繋がるものだ。刃をくぐり抜ける生活ではなくても、ひたむきに人を守る生活と言う、女の道の方が武道的のような気がしてくる。さらに・・・女は命を賭けて赤子を産む。
さて。
2011年9月26日月曜日
自主稽古の徒然
最近どうも道場に行く気が起らず、夏休みの休館期間を入れてであるが、かれこれ1ヶ月ほど足が遠のいていた。
自動車業界が6月から9月迄木金を休みにしたので、そこで働く小生としては今まで出ていた土日の代わりに木金の稽古に出るべきではあるのだが、木金は午後8時半からと非常に遅い時間から始まるので、その時間だと小生は既に晩酌で一杯やってしまっている。酒を飲まずに晩飯を食い、その後稽古に出るのがどうも想像ができない。ビール飲まずに飯だけを食えるのだろうか?うーん、そりゃ無理だね・・・・・、と言っても会社の残業食はビール飲まずに食べていて、それを不自然と感じないから、人の考え方は環境と習慣に支配されると言うことか。
小生は365日毎日飲んでいる。休みの日は真昼間からビールを飲むのが最大の楽しみでだ。そして午睡を楽しみ、さらに晩酌と相成る。もう少し早い時間から稽古するならば、晩飯は稽古後とできるのだが、どうも8時半からというのは具合が悪い。
道場稽古から足が遠のいてしばらく経つが、運動をしていない訳ではない。会社の昼休みに飯を食う前、15分から20分程度のウェイトと柔軟は続けているし、本日もやってきたのだが、時折会社の空手部道場でサンドバッグを蹴っている。
本日のサンドバッグメニューは、ある程度受けを意識し、サンドバッグの前で約束組手を想定して行った。一人でやるにしても相手がいることを「妄想」して受けやサバキを入れてやらなければどんどん下手になることを先日気がついたので、その初回練習であった。
まあ下手なので動きはぎこちない。相手がいると攻撃を受けた時には、相手が出てきている故にその返し技をする間合いは非常に近くなっているんだが、サンドバッグ君は動かないのでその場で受けたとしても、返しの攻撃をする為には半歩弱ほど前に出ながらやる必要がある。出てからの一本目の返しで間合いは十分近くなり、二本目に蹴りを入れる場合は、近すぎて難しくなる。しかしこの場合は相手がいたとしてもほぼ同じであろう。下がらない相手の場合の間合いとなる。
受けを入れる動きの中で、サンドバッグ君との間合いをコントロールする前後のフットワークをスムーズにできなければならない。突きの受け返しは悪くないんだが、蹴りを入れると難しいね。身体が固いから近い間合いでスパッと行く蹴りは出ない。せいぜいゆるくドスンだ。
前蹴りは腰をぶち当てるつもりで腰をいれて蹴るのをやっていたが、本日試したのは、前かがみになりつつ前に身体を落とすイメージで蹴り込むこと。「武道空手」の本にあった仮想重心に落ちる中での蹴り込みである。はっきり言ってこんな蹴りは見たことないし、やったこともなかった。しかしながら前に体重をかけ前に進むつもりで蹴ると、これが意外に威力が出る。また間合いが近くて蹴れる、と言うか、間合いが近い時に使う蹴りである。今度スパーリングやるときには使ってみよう。
しかしサンドバッグと言うのは、打ち込み蹴り込む為にやるのであって、そこに受けを入れるのはまだまだぎこちない。受け流して円の動きを入れながら柔らかく攻撃に転ずることはできるようになるのだろうか。俺は背骨が固いので一つ一つの動きが直立していて固い。替わりに姿勢はよいとよく褒められる。ダンサーの表現力は背骨の柔らかさによる。無論股関節も柔らかくて、背骨と股関節が柔らかければ、五体の動きを大きく見せられるし、「不安定の中の安定」と言う言葉が「武道空手」の中にあったが、動きの中でそういうことができる。ダンサーの動きはすべてそうだとも言える。軸を傾けたり、先っぽの方を少し折ったりしつつ、「居着き」のない動きの中で伸びやかに身体が大きくなる。柔軟をほぼ毎日やり始めてもう10年近く経つが、身体は依然として固く、昔に比べればそれは柔らかくなったが、定番の柔軟だけをやり続ける所に問題があるのだろう。そりゃ同じ所の関節を同じ角度で広げた時に広げられると言うことだけだね。さりとて多種類の柔軟をする時間はないのであるが、もう少し工夫する必要はある。
とまあ、かくかくしかじかと自分なりの稽古はやっていた。課題は堂々巡りで決してズバッと解決されないのだが、やり続けている中で、解決されない課題が時折のぼり、少しは改善されるが、また次の発見された課題に目移りして忘れられていく。成長の軌跡は螺旋である。少しは登っているのかいな?
自動車業界が6月から9月迄木金を休みにしたので、そこで働く小生としては今まで出ていた土日の代わりに木金の稽古に出るべきではあるのだが、木金は午後8時半からと非常に遅い時間から始まるので、その時間だと小生は既に晩酌で一杯やってしまっている。酒を飲まずに晩飯を食い、その後稽古に出るのがどうも想像ができない。ビール飲まずに飯だけを食えるのだろうか?うーん、そりゃ無理だね・・・・・、と言っても会社の残業食はビール飲まずに食べていて、それを不自然と感じないから、人の考え方は環境と習慣に支配されると言うことか。
小生は365日毎日飲んでいる。休みの日は真昼間からビールを飲むのが最大の楽しみでだ。そして午睡を楽しみ、さらに晩酌と相成る。もう少し早い時間から稽古するならば、晩飯は稽古後とできるのだが、どうも8時半からというのは具合が悪い。
道場稽古から足が遠のいてしばらく経つが、運動をしていない訳ではない。会社の昼休みに飯を食う前、15分から20分程度のウェイトと柔軟は続けているし、本日もやってきたのだが、時折会社の空手部道場でサンドバッグを蹴っている。
本日のサンドバッグメニューは、ある程度受けを意識し、サンドバッグの前で約束組手を想定して行った。一人でやるにしても相手がいることを「妄想」して受けやサバキを入れてやらなければどんどん下手になることを先日気がついたので、その初回練習であった。
まあ下手なので動きはぎこちない。相手がいると攻撃を受けた時には、相手が出てきている故にその返し技をする間合いは非常に近くなっているんだが、サンドバッグ君は動かないのでその場で受けたとしても、返しの攻撃をする為には半歩弱ほど前に出ながらやる必要がある。出てからの一本目の返しで間合いは十分近くなり、二本目に蹴りを入れる場合は、近すぎて難しくなる。しかしこの場合は相手がいたとしてもほぼ同じであろう。下がらない相手の場合の間合いとなる。
受けを入れる動きの中で、サンドバッグ君との間合いをコントロールする前後のフットワークをスムーズにできなければならない。突きの受け返しは悪くないんだが、蹴りを入れると難しいね。身体が固いから近い間合いでスパッと行く蹴りは出ない。せいぜいゆるくドスンだ。
前蹴りは腰をぶち当てるつもりで腰をいれて蹴るのをやっていたが、本日試したのは、前かがみになりつつ前に身体を落とすイメージで蹴り込むこと。「武道空手」の本にあった仮想重心に落ちる中での蹴り込みである。はっきり言ってこんな蹴りは見たことないし、やったこともなかった。しかしながら前に体重をかけ前に進むつもりで蹴ると、これが意外に威力が出る。また間合いが近くて蹴れる、と言うか、間合いが近い時に使う蹴りである。今度スパーリングやるときには使ってみよう。
しかしサンドバッグと言うのは、打ち込み蹴り込む為にやるのであって、そこに受けを入れるのはまだまだぎこちない。受け流して円の動きを入れながら柔らかく攻撃に転ずることはできるようになるのだろうか。俺は背骨が固いので一つ一つの動きが直立していて固い。替わりに姿勢はよいとよく褒められる。ダンサーの表現力は背骨の柔らかさによる。無論股関節も柔らかくて、背骨と股関節が柔らかければ、五体の動きを大きく見せられるし、「不安定の中の安定」と言う言葉が「武道空手」の中にあったが、動きの中でそういうことができる。ダンサーの動きはすべてそうだとも言える。軸を傾けたり、先っぽの方を少し折ったりしつつ、「居着き」のない動きの中で伸びやかに身体が大きくなる。柔軟をほぼ毎日やり始めてもう10年近く経つが、身体は依然として固く、昔に比べればそれは柔らかくなったが、定番の柔軟だけをやり続ける所に問題があるのだろう。そりゃ同じ所の関節を同じ角度で広げた時に広げられると言うことだけだね。さりとて多種類の柔軟をする時間はないのであるが、もう少し工夫する必要はある。
とまあ、かくかくしかじかと自分なりの稽古はやっていた。課題は堂々巡りで決してズバッと解決されないのだが、やり続けている中で、解決されない課題が時折のぼり、少しは改善されるが、また次の発見された課題に目移りして忘れられていく。成長の軌跡は螺旋である。少しは登っているのかいな?
2011年8月19日金曜日
時事放談
本日は空手の話題から外れて・・・時事放談じゃい。
菅直人首相の退陣が確定的となり、民主党内では次期党首即ち総理を選ぶアレコレが始まった。今の所、候補は6,7人おり、彼らが様々に様子を見たり周りに乗せられたり政治嗅覚を発揮したりして、その内決まっていくことであろう。復興増税と大連立是非のチャートにポジショニングされた彼等を論じるTVワイドショーがあった。
待てよ、と考える。復興増税の是非はまあよいが、大連立の是非は完璧に政治の方法論である。それよりも原発是非を軸の一つにおかなければならないのではないか。
我々は原爆を落とされて66年後の今日、原子力の平和利用と呼ばれた原発からの放射能被害を受けている。原子力というパワーを認めるかどうかの判断をそろそろすべきではないだろうか。隠されてきた原子力の問題が今頃になって明かされてきている。口がアングリする程呆れるのは、放射性廃棄物の問題である。ナニ?10万年以上地中深くに埋めないとイカンのか?原発が安全だとさんざっぱらPRされてきた中には、そんなのはなかったぞ。
最近、原発廃止とする個人の見解をいきなり言ったとして批判された菅さんを弁護したくなっている。原発の是非を問うことは正しいことではないだろうか。原発を持つことは未来に対して責任を持てることなのか。
放射性廃棄物の問題、1000年に一度の津波でなくてもテロや戦争で破壊された場合の収拾がつけられない事実は、今の福島原発を見れば分かる。そんな原発を進展国に輸出して増やして、我々の世代は責任が持てるのであろうか。
国家のエネルギー政策と原発の是非を問う選挙は、この復興が多少落ち着いてからやるべき重大判断である。「みんなの党」が参議院に出す、原発是非の国民投票法もおもしろい。
TVのワイドショーは、菅降ろしを連日面白おかしく伝えた。今度はまた民主党の中の権力争いをせせら笑うように伝えることだろう。マスコミは確かに第4の権力である。その権力を正しく用いてもらいたいものだ。戦前の挙国一致体制を援護した苦い経験から、時の権力に批判的であろうとする姿勢は分かる。ならば、政治家よりも国民の多様な意見を取りあげて流すべきである。政権や政争を嗤っていることからは何も生まれない。
菅直人首相の退陣が確定的となり、民主党内では次期党首即ち総理を選ぶアレコレが始まった。今の所、候補は6,7人おり、彼らが様々に様子を見たり周りに乗せられたり政治嗅覚を発揮したりして、その内決まっていくことであろう。復興増税と大連立是非のチャートにポジショニングされた彼等を論じるTVワイドショーがあった。
待てよ、と考える。復興増税の是非はまあよいが、大連立の是非は完璧に政治の方法論である。それよりも原発是非を軸の一つにおかなければならないのではないか。
我々は原爆を落とされて66年後の今日、原子力の平和利用と呼ばれた原発からの放射能被害を受けている。原子力というパワーを認めるかどうかの判断をそろそろすべきではないだろうか。隠されてきた原子力の問題が今頃になって明かされてきている。口がアングリする程呆れるのは、放射性廃棄物の問題である。ナニ?10万年以上地中深くに埋めないとイカンのか?原発が安全だとさんざっぱらPRされてきた中には、そんなのはなかったぞ。
最近、原発廃止とする個人の見解をいきなり言ったとして批判された菅さんを弁護したくなっている。原発の是非を問うことは正しいことではないだろうか。原発を持つことは未来に対して責任を持てることなのか。
放射性廃棄物の問題、1000年に一度の津波でなくてもテロや戦争で破壊された場合の収拾がつけられない事実は、今の福島原発を見れば分かる。そんな原発を進展国に輸出して増やして、我々の世代は責任が持てるのであろうか。
国家のエネルギー政策と原発の是非を問う選挙は、この復興が多少落ち着いてからやるべき重大判断である。「みんなの党」が参議院に出す、原発是非の国民投票法もおもしろい。
TVのワイドショーは、菅降ろしを連日面白おかしく伝えた。今度はまた民主党の中の権力争いをせせら笑うように伝えることだろう。マスコミは確かに第4の権力である。その権力を正しく用いてもらいたいものだ。戦前の挙国一致体制を援護した苦い経験から、時の権力に批判的であろうとする姿勢は分かる。ならば、政治家よりも国民の多様な意見を取りあげて流すべきである。政権や政争を嗤っていることからは何も生まれない。
2011年8月7日日曜日
久しぶりの充実稽古
年をとるこの先も空手において強くなりたいと思い、「武道空手」の書物を読んで探究してはいるが、所詮今はフルコン流儀でやれるところまでやるしかないと割り切ったのが・・・昨日だったっけ。
パワーとスピードを鍛えて、衰えの中で通用しなくなったときに古伝の「武道空手」に入ればよい。無論研究は続けるが、現実の師がいない今は、今のやり方で稽古鍛錬である。そもそも迷いと称して稽古鍛錬を怠って2週間過ぎた。
割り切った本日は、昼トレと仕事後のサンドバッグ自主トレをほぼフルメニューこなした。せっかくなので練習メニューを記しておく。
まことに空手家らしからぬが、最近またタバコを吸いだしてしまった。昼休みに入りまず一服してからトレーニング開始。タバコで5分費やしているから本来の昼トレのフルメニューにまでは至らぬが、それでも、
仕事後のサンドバッグ自主トレは久しぶりにラウンドを重ねた。1ラウンドを2分とし、ラウンド間休憩を1分としてやった。サンドバッグは全力で突き蹴りしないと意味がないので、以下はほぼ全力でやるべきなんだが、昔痛めた右足の膝に多少違和感を覚えたので、右足の回し蹴り部分はスピード重視で力を抜いてやっていた。
シャドウをやっている時に、受けをきちっと入れなければならないと思ったが、考えてみればサンドバッグばかりの自主トレが多く、受けを入れてのコンビネーションをここ何年かほとんどやってなかった。受けを入れると動きがぎこちなくなることを今更ながら初めて発見した感じだった。昔やっていた芦原空手の型をもう一度思い出しながらやらにゃあイカンね。
久しぶりの昼トレ&仕事後サンドバッグ自主トレだったが、身体はちゃんと持った。ブランクは、年をとるにつれ明らかに来る衰えをどないかせねばと考えていた「迷い」の2週間で脱却しよう。やれるところまでやるべきである。衰えてから考えればよい。
パワーとスピードを鍛えて、衰えの中で通用しなくなったときに古伝の「武道空手」に入ればよい。無論研究は続けるが、現実の師がいない今は、今のやり方で稽古鍛錬である。そもそも迷いと称して稽古鍛錬を怠って2週間過ぎた。
割り切った本日は、昼トレと仕事後のサンドバッグ自主トレをほぼフルメニューこなした。せっかくなので練習メニューを記しておく。
まことに空手家らしからぬが、最近またタバコを吸いだしてしまった。昼休みに入りまず一服してからトレーニング開始。タバコで5分費やしているから本来の昼トレのフルメニューにまでは至らぬが、それでも、
- 胸筋鍛えるバタフライ、8→5→5。既に最大重量でやっているのであまり進歩はない。重りをどんどん増やせることができれば、かつてやっていた重量は楽勝なんだが、最大重量なのでそこで足止めをくっており、回数の限界が伸びない。8回を3セットやりたければ、それより重い負荷で上のような回数できるようになればよいだけなんだが。
- 懸垂、手を広げず肩幅くらいの順手で8回、逆手で8回、手を広げて順手は5回で限界。まあそんなところだ。これも自重負荷で変わらずだから、8回3セットをすいすいやれるまでは至らず。もう半年近くやってるんだけどね。
- 太股の前側の筋肉を鍛えるレッグエクステンション。重りが少なく、最大負荷を片足でやっている。右左各10回を3セット。ゆーっくりやるとかしないとこれ以上筋肉は増えない。
- ダンベルによるショルダープレス10回2セット。3セットやろうと思ったが時間がなくなってきた。
- 四股20回。ここで時間切れ
仕事後のサンドバッグ自主トレは久しぶりにラウンドを重ねた。1ラウンドを2分とし、ラウンド間休憩を1分としてやった。サンドバッグは全力で突き蹴りしないと意味がないので、以下はほぼ全力でやるべきなんだが、昔痛めた右足の膝に多少違和感を覚えたので、右足の回し蹴り部分はスピード重視で力を抜いてやっていた。
- 順突き左右20本。時間が余ったのでフットワーク用いて左右連打を少々
- 逆突き左右20本。時間が余ったので同様
- フック左右20本。同様
- 下突き左右20本。同様
- ここで突きの部が終わり、柔軟の真向法。この後空手家らしから言語道断のタバコ休憩。
- ローキック左右20本。キックは時間が余らない。丁度2分。
- ミドル回し蹴り左右20本
- 上段回し蹴り左右20本
- 膝蹴り左右20本
- 中段前蹴り左右20本
- 上段前蹴り左右20本。これはまだ上手くいかない。サンドバッグを上段にこするような蹴りになってしまう。上段と言えども蹴り込めるようになるべきである。
- 上段回し蹴りが今一だったので、もう1ラウンド。足は上がるが腰が捻れない。股関節が固い。それと年をとると腰回りと言うか、背骨が固くなっている。固い体で回す上段蹴りは横から回すよりも前から回す方が格好がつく。つまり横から回すと腰を回すことが必要なんだが、腰は回らなーい。前から回す場合は当てた時に前方に少し体重をかければよい。腰は回せなくてもまあなんとかなる。スパーリングで使うならばそっちを使うべし。足の甲の皮が少しむけたので、1分で止め。むけても蹴りゃいいのであるが、深く大きくむけるとかさぶたができ、治りも遅くなるので大事をとった。
- 間合いを考えて、ヒット&アウェイの突き蹴りコンビネーション。ここでは脛を用いたローキックやミドルにする。
- もう1ラウンド
- サンドバッグやった後は、シャドウをやっとかないとコンビネーションにおける力の抜き加減の確認にならぬので、シャドウは必要。本来ならば脱力してメリハリの瞬発力を確認しつつ柔らかくスムーズにできるべきなんだろうが、体捌き、技ともぎこちない。もう結構疲れてもいた。疲れているからそのようにできるべきなんだが。
- シャドウもう1ラウンド
- 型を2回くらい力を抜いて
- 最後に四股を50回
シャドウをやっている時に、受けをきちっと入れなければならないと思ったが、考えてみればサンドバッグばかりの自主トレが多く、受けを入れてのコンビネーションをここ何年かほとんどやってなかった。受けを入れると動きがぎこちなくなることを今更ながら初めて発見した感じだった。昔やっていた芦原空手の型をもう一度思い出しながらやらにゃあイカンね。
久しぶりの昼トレ&仕事後サンドバッグ自主トレだったが、身体はちゃんと持った。ブランクは、年をとるにつれ明らかに来る衰えをどないかせねばと考えていた「迷い」の2週間で脱却しよう。やれるところまでやるべきである。衰えてから考えればよい。
2011年8月6日土曜日
熟年の空手、まだまだ
まあ要するに気合が入らず、稽古をサボる理由の一つとして、俺は空手の「迷い」を述べたかったし、実際に感じてもいた。52歳の俺が、フルコン組手の強いか弱いかの世界に居てもいずれ衰えるし、既に衰えているような気もして、古伝空手の理解に傾倒した。
時折、そういうブルーな感覚が起きる。それは今の所解決できない感覚である。この年ならば明らかに衰えるのは分かっているし、このままフルコン空手を続けて行ってもどうかなと言う疑問である。フルコンはパワーとスピードである。無論試合運びやサバキと言うのもあるが、俺はまだまだ慣れてはいないし、そこに十分な稽古を積んでいるとは言えない。
今日氷解した。衰えることの怖れで考えても話にならぬ。衰えてから考えればよいのである。俺はまだまだパワーやスピードを増せるはずだ。そっちの方を求めよう。パワーやスピードを増す為には、日々を考えることに費やすことではなく、修練することに使うことだ。
古伝空手の書物を読み、「迷い」を持ちつつ結局稽古をサボって酒を飲んでいたのがこの俺である。古伝空手は非常に魅力的で、よき師に会えばそっちに行くかもしれぬ。しかし今はおらず、調べても見たが俺の近くにそのような道場はない。ならば邂逅するまではこのまま突っ走る。パワーとスピードをまだまだ伸ばす。サバキも身につけたいが、中々に・・・、いつも一人で稽古するのが多く、これがまた難しいんだよね。
技はあくまでも速く、強い動きをする。年をとり素早い反応の動きができない所がもどかしいが、技だけならばまだ速くできると思う。「強い動き」と言うのは、古伝空手を少し読んだ後の表現である。相手の動きに先んじて自分が動く。攻防一体に関しては研究し自覚して求めて行こう。
ということで、今までどおりの修練をやっていく。若い奴にはまだ負けぬ、と言う気概である。
ここ2週間ばかり「迷い」の上に昼トレも道場稽古もサボりがちであったんだが、それはいかん。元通りに激しくやるべきである。どの年代でもその真剣さの中で成長がある。
時折、そういうブルーな感覚が起きる。それは今の所解決できない感覚である。この年ならば明らかに衰えるのは分かっているし、このままフルコン空手を続けて行ってもどうかなと言う疑問である。フルコンはパワーとスピードである。無論試合運びやサバキと言うのもあるが、俺はまだまだ慣れてはいないし、そこに十分な稽古を積んでいるとは言えない。
今日氷解した。衰えることの怖れで考えても話にならぬ。衰えてから考えればよいのである。俺はまだまだパワーやスピードを増せるはずだ。そっちの方を求めよう。パワーやスピードを増す為には、日々を考えることに費やすことではなく、修練することに使うことだ。
古伝空手の書物を読み、「迷い」を持ちつつ結局稽古をサボって酒を飲んでいたのがこの俺である。古伝空手は非常に魅力的で、よき師に会えばそっちに行くかもしれぬ。しかし今はおらず、調べても見たが俺の近くにそのような道場はない。ならば邂逅するまではこのまま突っ走る。パワーとスピードをまだまだ伸ばす。サバキも身につけたいが、中々に・・・、いつも一人で稽古するのが多く、これがまた難しいんだよね。
技はあくまでも速く、強い動きをする。年をとり素早い反応の動きができない所がもどかしいが、技だけならばまだ速くできると思う。「強い動き」と言うのは、古伝空手を少し読んだ後の表現である。相手の動きに先んじて自分が動く。攻防一体に関しては研究し自覚して求めて行こう。
ということで、今までどおりの修練をやっていく。若い奴にはまだ負けぬ、と言う気概である。
ここ2週間ばかり「迷い」の上に昼トレも道場稽古もサボりがちであったんだが、それはいかん。元通りに激しくやるべきである。どの年代でもその真剣さの中で成長がある。
2011年8月2日火曜日
熟年空手家のぼやき
最近どうも昼休みトレーニングに熱が入らぬ。暑いからとも言えるが、何だろうね? 1年の内何回かはこのような時期が来る。その度にもっともらしい理由があるんだが、共通して言えることは、俺はいつ衰えて弱くなるのだろうかの問いを発し、答えが見つからぬからである。せっせせっせとトレーニングしてもその先が見えない。
もう52歳だから既に衰えているのかもしれないが、ウェイトはやればやるだけ負荷が増えて今は最大負荷のレベルにあるし、サンドバッグを蹴ってもまだ破壊力は衰えていないように思う。有酸素運動は分からぬ。最近、長距離を走ったことはないから衰えてはいるんだろうが、空手の道場稽古はそれなりに体力、もっている。
前に記したが、30年ぶりに母校の空手道部の練習にフル参加した際はどうということはなくこなした。30年前はなぜあれ程苦しかったのかをむしろ不思議に思うほどだった。たいしたことないじゃん♪である。
ただ闘争心と言うものは確実に無くなっては来ている。この年になって相手を傷つけるか自分も傷つくかの修羅場をわざわざ求めたくはない。道場の若手は育ってきており、フルコン組手で抜かれて行く寂しさかなぁ、そういうものも感じている。彼等の成長は順調で早く、俺は衰えのまぐちか、その過程にあるのだろうかと無力感のようなものを感じる。伸びて強くなっていく彼らが羨ましい、ということか。
組手における反応は確実に鈍くなっているんだろうね。
このままフルコン空手を修めて、フルコンと言うのは所詮、組手で強いか弱いかであるから、ズルズルと衰えの中で過ごしてよいのかどうかを考えてしまう。
年を経ての強さを求めたくて、古伝沖縄空手に興味を持っている次第である。フルコン空手の我が流派でも最近は型を重視し始めた。空手を生涯の運動と見るならば、年をとってもできる型は必要である。組手の強さは30代で終わる。
しかしながら、空手を志したものは皆そうであるんだが、年を経ても強くなりたい訳だ。年を経るに従って強くなれる道を探そうとする。強さには精神的な強さがあるなどと青臭いことは言わない。そりゃ当然だ。年を経ても格闘の技を身につけて肉体的に強くなりたいのである。体力がピークである25歳から経験を積んで試合運びも上手くなってくる30代前半の時期を、最も強い時期とするのならば、それでもそこからさらに強くなれるべき、武術の術はどこにあるのだろうか。単に、元気な時が一番強いでは術は無くても一緒であろう。術は深く修めるにつれて磨かれていくものではないのか。闘わずして勝つ、の極意に術は行くべきだと思うんだが、その道とは?
俺はその術を知りたい。
もう52歳だから既に衰えているのかもしれないが、ウェイトはやればやるだけ負荷が増えて今は最大負荷のレベルにあるし、サンドバッグを蹴ってもまだ破壊力は衰えていないように思う。有酸素運動は分からぬ。最近、長距離を走ったことはないから衰えてはいるんだろうが、空手の道場稽古はそれなりに体力、もっている。
前に記したが、30年ぶりに母校の空手道部の練習にフル参加した際はどうということはなくこなした。30年前はなぜあれ程苦しかったのかをむしろ不思議に思うほどだった。たいしたことないじゃん♪である。
ただ闘争心と言うものは確実に無くなっては来ている。この年になって相手を傷つけるか自分も傷つくかの修羅場をわざわざ求めたくはない。道場の若手は育ってきており、フルコン組手で抜かれて行く寂しさかなぁ、そういうものも感じている。彼等の成長は順調で早く、俺は衰えのまぐちか、その過程にあるのだろうかと無力感のようなものを感じる。伸びて強くなっていく彼らが羨ましい、ということか。
組手における反応は確実に鈍くなっているんだろうね。
このままフルコン空手を修めて、フルコンと言うのは所詮、組手で強いか弱いかであるから、ズルズルと衰えの中で過ごしてよいのかどうかを考えてしまう。
年を経ての強さを求めたくて、古伝沖縄空手に興味を持っている次第である。フルコン空手の我が流派でも最近は型を重視し始めた。空手を生涯の運動と見るならば、年をとってもできる型は必要である。組手の強さは30代で終わる。
しかしながら、空手を志したものは皆そうであるんだが、年を経ても強くなりたい訳だ。年を経るに従って強くなれる道を探そうとする。強さには精神的な強さがあるなどと青臭いことは言わない。そりゃ当然だ。年を経ても格闘の技を身につけて肉体的に強くなりたいのである。体力がピークである25歳から経験を積んで試合運びも上手くなってくる30代前半の時期を、最も強い時期とするのならば、それでもそこからさらに強くなれるべき、武術の術はどこにあるのだろうか。単に、元気な時が一番強いでは術は無くても一緒であろう。術は深く修めるにつれて磨かれていくものではないのか。闘わずして勝つ、の極意に術は行くべきだと思うんだが、その道とは?
俺はその術を知りたい。
2011年7月30日土曜日
沖縄古伝空手とは
「沖縄武道空手の極意」という本を読む。凄そうな本であるように思えるが、まだ何ともよく分からぬ所があり、もう一度読まなければならない。
まあ、もう一度読んでみよう。筆者はフルコンにもこだわり、実際にやっていると言うが、こう言う理論に基づく組手はどのような形になるのであろうか。小生は、学生時代に剛柔流をやっており、寸止めの学生空手と、現在修行している極真系のフルコンタクト空手は知っており、その組手が随分違うのも体験している。筆者の説明している沖縄古伝空手の組手はどのような風情になるのであろうか。
再読しつつ見つけてみようとは思う。
- 腰を回さぬと言う。しかし突きは腰の中心をブルンと震わし(一瞬回し戻すことにより鞭のような力を伝えて)、突きをせよと言う。これは腰を回していることになると思うんだが。しかし実際の身体の動きとしては分かる。腰を振ってそれを腕に伝えた方が確かに突きを速くすることはできる。学生時代やっていた剛柔流の突きから再現し実感できるし、沖縄空手の新里先生の動きからも納得はできる。ただ次の、
- 重力を自然な力として利用して突きをする、と言う。これもフムと思うんだが、では腰を鞭のように震わすことは要らないの?重力だけでよいのか。
- それと腰の高さを一定にして移動することとは矛盾しないのか?歩く動作はノーモションで技に入れるのがよいと説く。その際「膝を抜く」の言。膝を抜いて重心を上から下に落としてよいのであろうか。動きは腰の高さを一定にして動くのではなかったのか。
- 上の二つがこの本を読んでの謎である。
まあ、もう一度読んでみよう。筆者はフルコンにもこだわり、実際にやっていると言うが、こう言う理論に基づく組手はどのような形になるのであろうか。小生は、学生時代に剛柔流をやっており、寸止めの学生空手と、現在修行している極真系のフルコンタクト空手は知っており、その組手が随分違うのも体験している。筆者の説明している沖縄古伝空手の組手はどのような風情になるのであろうか。
再読しつつ見つけてみようとは思う。
2011年7月26日火曜日
四股
本日は久しぶりに昼トレをする。ただ久しぶりなので息も上がるようで、間をあけてやった故に柔軟の時間はあまり取れなかった。まあ、右太ももの裏の筋が痛いから柔軟で無理しない方がよい気がするので、これからの柔軟は、やったとしても股割くらいにしよう。股割なら痛い部分を伸ばさなくて済む。またそれ位はやっておかねばいかん。最近の柔軟の少なさで股を広げる最大角度が小さくなった。
柔軟も痛い所を使わずにできるパターンは色々あるので、しばらくはよい機会としてそっち方面をやっておこう。股割と獅子のポーズと足の自重を利用したストレッチ兼筋トレだ。
さすがに久しぶりだとできるウェイトの荷重が同じでも回数が減った。胸筋を鍛えるバタフライはマシンの最大重量で8回2セットできるのに、8回→5回で限界だった。
最近四股に凝っている。その理由が、スクワットをやりたくないからである。何と言っても100回のスクワットは大変しんどい。二つ目の前向きな理由としては、四股は片足で立つ為、バランスを保持する筋肉も鍛えられるからである。蹴りをするときには瞬間に体重移動をして片足になる。四股は体重移動とバランスだ。それを鍛える。三つ目は股割の柔軟を兼ねることである。四股を踏んで腰を下ろしたときの股割と、足をできる限り高く上げる時の開脚の柔軟性と、両方のストレッチが動きの中で成されるのがよい。
と言う訳でスクワット100回の替わりに四股を20-30回程度行っている。バランスのとり方がぎこちなく、足も横に高く上げるどころではないが、スムーズな動きができるようになるまで、もう少しやり続けてみよう。ゆっくりとやる為にスクワット100回よりもしんどくないのが何と言っても結構なもんだ。だから四股に逃げていると言えるんだが、まあ善き哉。スムーズにできるようになればもっと回数を増やせる。
本日の昼トレメニュー
柔軟も痛い所を使わずにできるパターンは色々あるので、しばらくはよい機会としてそっち方面をやっておこう。股割と獅子のポーズと足の自重を利用したストレッチ兼筋トレだ。
さすがに久しぶりだとできるウェイトの荷重が同じでも回数が減った。胸筋を鍛えるバタフライはマシンの最大重量で8回2セットできるのに、8回→5回で限界だった。
最近四股に凝っている。その理由が、スクワットをやりたくないからである。何と言っても100回のスクワットは大変しんどい。二つ目の前向きな理由としては、四股は片足で立つ為、バランスを保持する筋肉も鍛えられるからである。蹴りをするときには瞬間に体重移動をして片足になる。四股は体重移動とバランスだ。それを鍛える。三つ目は股割の柔軟を兼ねることである。四股を踏んで腰を下ろしたときの股割と、足をできる限り高く上げる時の開脚の柔軟性と、両方のストレッチが動きの中で成されるのがよい。
と言う訳でスクワット100回の替わりに四股を20-30回程度行っている。バランスのとり方がぎこちなく、足も横に高く上げるどころではないが、スムーズな動きができるようになるまで、もう少しやり続けてみよう。ゆっくりとやる為にスクワット100回よりもしんどくないのが何と言っても結構なもんだ。だから四股に逃げていると言えるんだが、まあ善き哉。スムーズにできるようになればもっと回数を増やせる。
本日の昼トレメニュー
- 腹筋100回。久しぶりにV字腹筋ではなく、普通の腹筋。
- 胸筋鍛える為のバタフライ、8回→5回→3回。ちょっと力が落ちている。
- 懸垂3種、8回→8回→6回。
- 四股30回。
- 股割と腰ひねりの軽い柔軟。股割はこれからもっとハードにやるべし。開脚角度が減っている。右太腿裏の肉離れの為に、開脚前屈が痛くてできない。だから立ったままの股割。
2011年7月22日金曜日
原発についてのある映画を観て
太陽の光と室内光はかくも違うのか! 今庭に出て書いている。画面が暗い。
ビールを飲みつつ、芝生に座り、盛夏にしてはしのぎやすい日の、気ままな時間である。外に出て文章を書くのは悪くないねぇ。
「東京原発」という映画を観た。これはお勧めだ。2004年、今から7年前に作られた映画であるが、まさに今日の福島第一原発の事件を予感するように、原発の意義や危険性を喜劇的なストーリーの中で表していて、ある意味教育映画みたいでもある。でもその時代に警告を出そうとしていた製作者は、今となっては非常に偉い!
主人公は東京都知事、役所広司演じる。東京の新宿中央公園に原発を誘致しようとする物語である。
役所が最後に言った、「この世に絶対なぞはない」、「人間はすぐ忘れる」のセリフが今も心に残る。最初のセリフは、テロリストの少年がプルトニウムを積んだトラックを爆破しようとしたが、幸運にも爆弾が発火しなかったことを指す。少年は「僕の作った爆弾は完璧で、絶対爆発する」と言っていた。その言葉を受けてである。
「絶対なぞはない」と言う言葉は、「原発は絶対安全」と言い続けてきた政府や電力会社のPRに向けて、主人公に苛烈に吐かせた言葉である。
「人間はすぐ忘れる」は、原爆を落とされて多くの人の命を失いさんざんな目に遭った日本という国家、国民を指す。あれほどの悲劇を味わったのに、なぜ原子力を進めようとするのか?だ。兵器ではなく、エネルギーの平和利用であるとする巧妙なすり替えの中で、多くは何も考えることなく騙されている。しかし本質を見れば原子力そのものに酷い目に遭った訳であり、時間とともに忘れる国民に警鐘を鳴らすとともに諦めの言葉でもあろう。日本国民は原子力を憎んでもよいのである。むしろなぜそうしないのか?という言葉が聞こえてきそうだ。燃料の補給なく動き続ける原子力潜水艦等をいずれ開発するような、核武装の可能性も残しておきたかったのであろうか。
ストーリーをもっと論じておきたいが、この辺で。
映画によると真夏の暑い数日を節電すればエネルギーは原発がなくても賄えるそうだ。2011年の今の状況を見るとそれは違う。福島第一、第二を停めているので、東電の最大供給電力は昨年よりかなり減り、5700万KWと言う。その場合、猛暑であった昨年の実績では17日程度需要が供給を上回ってしまう。現在、柏崎原発が稼働しての数字であるから、柏崎原発を止めれば最大電力供給力はさらに減り、昨年実績では電力が不足する日がもっと増える。
今年、電力が不足する危険性をもって15%節電をすることを政府は企業に課したが、今は涙ぐましい一般家庭、企業の節電努力のおかげで、毎日20%前後の余裕がある。最大電力供給については、さすがに原発がないと真夏は賄えないのが現状であろう。賄おうとすると意識的な節電努力の生活が必要だ。
これから将来、電力需要はさらに伸びる。便利な世界をどんどん便利にしようと考えれば伸びざるを得ないから、これはしょーがない。我々の生きる哲学だとか思想を変えない限りは・・・。元々祖先が生きていた「明るい農村」に戻る方がよいのであろうか。
阪神大震災級の直下型地震が起きた時には、世界に冠たる耐震性を誇る我が原発も耐えきれないと映画では示している。東日本大震災では1000年に一度の大津波で原発が止り、制御不能状態になった。原発推進者が1000年に一度だけの不運ともし言うのならば、テロや戦争により原発が破壊の危機になるとどうなるのだろうか。その確率は1000年に一度よりもはるかに高いと言わざるを得ない。
放射性廃棄物の問題もある。これは非常に深刻である。現在はどうしようもないらしい。数万年に及ぶ保管が必要であり、地中深くに埋めるか、宇宙に放り出すことであるらしい。こんな危険な物質の処理の保障がとれないままに、原発は今も放射性廃棄物を産出している。エエーッ、である。
需要が増える中、安い電力を供給する為には原発が必要だと人は言う。東日本大震災が起きる前までは二酸化炭素の削減の為に必要であるとして、我々の大多数が「ウンウン」とうなずいていた。そのような時代に「東京原発」を制作した人々は先見の明というよりも、本質を考えた末の提言であろうと思う。
自然エネルギーの発電を増やし原発に替わる電力を作るべきであると考える。我々は高いエネルギーの中に暮らしてもよいのである。コストが嵩み企業は他の国に出て行ってもよいのである。資源の少ない日本という国は、世界的な出稼ぎをやればよいのである。出稼ぎで儲けた利益で税金をそれなりに払い、日本が高福祉社会になればよいのである。直接雇用でないから、国民全体の所得は増えず、豊かにはなれないであろうが、そこそこの中で、それでも昔よりはかなりましな「明るい農村」になればよいのである、と考える。
脱原発の為の自然エネルギーによる電力開発には技術がいる。日本の技術力はそこにこそ活かされるべきであろう。映画によると電源開発の9割の予算と知能が原子力に費やされているらしいが、その政策は転換されなければならない。日本人の優秀な頭脳は、未来のエネルギーに向けるべきである。「明るい農村」と先程は開き直り的に言ったが、日本の技術力を持ってすれば、「明るい農村」も「明るい循環型生産社会」も可能であると信じたい。
原発は発電コストが安いと言う。しかし政府から出される交付金を入れれば、めちゃくちゃに安いというわけではない。なおかつ今回のような大事故が起きた時の保障の総額を積算すれば、もう安いとは言えない。1000年に一度の大津波という自然災害の為に今回の事故が起きてしまったのであり、これを教訓としてあらゆる災害に耐えうる原発を作ればよいのだという意見もある。繰り返しになるが、テロとか戦争が起きた時に原発が破壊されればどうなるのであろうか。確率的にはゼロではない。だから「絶対安全」という言葉はないし、破壊された時には今回以上の被害と補償(国家が存在すればだが)が必要になる。
我々は我々の制御できないモノを運用すべきではない。原発が生む再処理が必要な使用済み核燃料は、まだ我々の技術力では処理不能の状態のまま「無言で」累積している。ここまで知って、それでもなお我々は原子力の道を苦行僧のように歩まなければならないのか。
原子力のコストは総合的に論じて安くなく、制御不能に陥る危険性と、排出物が処理不能な現在、エネルギーコストが上がるのはしょうがないとして自然エネルギーによる発電に向かうべきであろう。
かの映画を見て、勉強をし、影響もされて、そう考えるようになった。
ビールを飲みつつ、芝生に座り、盛夏にしてはしのぎやすい日の、気ままな時間である。外に出て文章を書くのは悪くないねぇ。
「東京原発」という映画を観た。これはお勧めだ。2004年、今から7年前に作られた映画であるが、まさに今日の福島第一原発の事件を予感するように、原発の意義や危険性を喜劇的なストーリーの中で表していて、ある意味教育映画みたいでもある。でもその時代に警告を出そうとしていた製作者は、今となっては非常に偉い!
主人公は東京都知事、役所広司演じる。東京の新宿中央公園に原発を誘致しようとする物語である。
役所が最後に言った、「この世に絶対なぞはない」、「人間はすぐ忘れる」のセリフが今も心に残る。最初のセリフは、テロリストの少年がプルトニウムを積んだトラックを爆破しようとしたが、幸運にも爆弾が発火しなかったことを指す。少年は「僕の作った爆弾は完璧で、絶対爆発する」と言っていた。その言葉を受けてである。
「絶対なぞはない」と言う言葉は、「原発は絶対安全」と言い続けてきた政府や電力会社のPRに向けて、主人公に苛烈に吐かせた言葉である。
「人間はすぐ忘れる」は、原爆を落とされて多くの人の命を失いさんざんな目に遭った日本という国家、国民を指す。あれほどの悲劇を味わったのに、なぜ原子力を進めようとするのか?だ。兵器ではなく、エネルギーの平和利用であるとする巧妙なすり替えの中で、多くは何も考えることなく騙されている。しかし本質を見れば原子力そのものに酷い目に遭った訳であり、時間とともに忘れる国民に警鐘を鳴らすとともに諦めの言葉でもあろう。日本国民は原子力を憎んでもよいのである。むしろなぜそうしないのか?という言葉が聞こえてきそうだ。燃料の補給なく動き続ける原子力潜水艦等をいずれ開発するような、核武装の可能性も残しておきたかったのであろうか。
ストーリーをもっと論じておきたいが、この辺で。
映画によると真夏の暑い数日を節電すればエネルギーは原発がなくても賄えるそうだ。2011年の今の状況を見るとそれは違う。福島第一、第二を停めているので、東電の最大供給電力は昨年よりかなり減り、5700万KWと言う。その場合、猛暑であった昨年の実績では17日程度需要が供給を上回ってしまう。現在、柏崎原発が稼働しての数字であるから、柏崎原発を止めれば最大電力供給力はさらに減り、昨年実績では電力が不足する日がもっと増える。
今年、電力が不足する危険性をもって15%節電をすることを政府は企業に課したが、今は涙ぐましい一般家庭、企業の節電努力のおかげで、毎日20%前後の余裕がある。最大電力供給については、さすがに原発がないと真夏は賄えないのが現状であろう。賄おうとすると意識的な節電努力の生活が必要だ。
これから将来、電力需要はさらに伸びる。便利な世界をどんどん便利にしようと考えれば伸びざるを得ないから、これはしょーがない。我々の生きる哲学だとか思想を変えない限りは・・・。元々祖先が生きていた「明るい農村」に戻る方がよいのであろうか。
阪神大震災級の直下型地震が起きた時には、世界に冠たる耐震性を誇る我が原発も耐えきれないと映画では示している。東日本大震災では1000年に一度の大津波で原発が止り、制御不能状態になった。原発推進者が1000年に一度だけの不運ともし言うのならば、テロや戦争により原発が破壊の危機になるとどうなるのだろうか。その確率は1000年に一度よりもはるかに高いと言わざるを得ない。
放射性廃棄物の問題もある。これは非常に深刻である。現在はどうしようもないらしい。数万年に及ぶ保管が必要であり、地中深くに埋めるか、宇宙に放り出すことであるらしい。こんな危険な物質の処理の保障がとれないままに、原発は今も放射性廃棄物を産出している。エエーッ、である。
需要が増える中、安い電力を供給する為には原発が必要だと人は言う。東日本大震災が起きる前までは二酸化炭素の削減の為に必要であるとして、我々の大多数が「ウンウン」とうなずいていた。そのような時代に「東京原発」を制作した人々は先見の明というよりも、本質を考えた末の提言であろうと思う。
自然エネルギーの発電を増やし原発に替わる電力を作るべきであると考える。我々は高いエネルギーの中に暮らしてもよいのである。コストが嵩み企業は他の国に出て行ってもよいのである。資源の少ない日本という国は、世界的な出稼ぎをやればよいのである。出稼ぎで儲けた利益で税金をそれなりに払い、日本が高福祉社会になればよいのである。直接雇用でないから、国民全体の所得は増えず、豊かにはなれないであろうが、そこそこの中で、それでも昔よりはかなりましな「明るい農村」になればよいのである、と考える。
脱原発の為の自然エネルギーによる電力開発には技術がいる。日本の技術力はそこにこそ活かされるべきであろう。映画によると電源開発の9割の予算と知能が原子力に費やされているらしいが、その政策は転換されなければならない。日本人の優秀な頭脳は、未来のエネルギーに向けるべきである。「明るい農村」と先程は開き直り的に言ったが、日本の技術力を持ってすれば、「明るい農村」も「明るい循環型生産社会」も可能であると信じたい。
原発は発電コストが安いと言う。しかし政府から出される交付金を入れれば、めちゃくちゃに安いというわけではない。なおかつ今回のような大事故が起きた時の保障の総額を積算すれば、もう安いとは言えない。1000年に一度の大津波という自然災害の為に今回の事故が起きてしまったのであり、これを教訓としてあらゆる災害に耐えうる原発を作ればよいのだという意見もある。繰り返しになるが、テロとか戦争が起きた時に原発が破壊されればどうなるのであろうか。確率的にはゼロではない。だから「絶対安全」という言葉はないし、破壊された時には今回以上の被害と補償(国家が存在すればだが)が必要になる。
我々は我々の制御できないモノを運用すべきではない。原発が生む再処理が必要な使用済み核燃料は、まだ我々の技術力では処理不能の状態のまま「無言で」累積している。ここまで知って、それでもなお我々は原子力の道を苦行僧のように歩まなければならないのか。
原子力のコストは総合的に論じて安くなく、制御不能に陥る危険性と、排出物が処理不能な現在、エネルギーコストが上がるのはしょうがないとして自然エネルギーによる発電に向かうべきであろう。
かの映画を見て、勉強をし、影響もされて、そう考えるようになった。
2011年7月21日木曜日
サンドバッグ新基軸
最近空手の話を書いてないなぁ。
でも、それなりにはやっている。先々週は会社でのサンドバッグ自主トレ1日、道場稽古2日。先週は同じく会社でサンドバッグ自主トレ、道場稽古1日。
最近薄いのが昼休みのトレーニングだ。さすがに暑くてあまりやる気が出ない。やらない日も多く、やったとしても軽く流してしまう。一日おきにやっていたスクワットは、この1カ月皆無。替わりに四股を多少。柔軟も右腿の後ろの筋が痛く、かれこれ3カ月ほど本格的にできない。痛いのを我慢しながらでもある程度やってしまっているから治りが遅いのかね。単に年とったから遅いのか。1か月柔軟禁止すれば治るのならぜひそうしたいが、何がベストなのかが分からぬ。
サンドバッグ自主トレは割合ハードにやっている。1ラウンド2分で15ラウンドくらいはやる。一つ一つの基本技の反復練習で各1ラウンド使うと、15ラウンドはいく。しかし、今の俺に必要なのは、実戦的なコンビネーションを動きの中でやることである。今度サンドバッグやるときは、間合いに気をつけながら動きを入れたコンビネーションに多くのラウンドをかけるべきだ。
サンドバッグを突き蹴る場合、サンドバッグとある程度距離をとっていると思っても、実は非常に近い間合いになっている。サンドバッグを相手の胴とした場合、相手はそこから手を出して構えているはずだから、実際はかなり近い間合いで相対していることになる。サンドバッグには強力な突き蹴りを叩きこめるのに、スパーリングになると上手くいかないのかは、間合いである。実際の相手とは間合いの取りあいと言うのもあるから、サンドバッグを打ち蹴る場合も、様々な間合いを想定して動き、当てる時には最もパワーが出る間合いにするという、動きの中の間合いコントロールに留意する必要がある。
次のサンドバッグ自主トレは、普段の基本技のパワーアップの為ではなく、15ラウンドすべてコンビネーションで、左右前後のフットワークをつけ間合いを考えつつコントロールする気でやってみるべし。
でも、それなりにはやっている。先々週は会社でのサンドバッグ自主トレ1日、道場稽古2日。先週は同じく会社でサンドバッグ自主トレ、道場稽古1日。
最近薄いのが昼休みのトレーニングだ。さすがに暑くてあまりやる気が出ない。やらない日も多く、やったとしても軽く流してしまう。一日おきにやっていたスクワットは、この1カ月皆無。替わりに四股を多少。柔軟も右腿の後ろの筋が痛く、かれこれ3カ月ほど本格的にできない。痛いのを我慢しながらでもある程度やってしまっているから治りが遅いのかね。単に年とったから遅いのか。1か月柔軟禁止すれば治るのならぜひそうしたいが、何がベストなのかが分からぬ。
サンドバッグ自主トレは割合ハードにやっている。1ラウンド2分で15ラウンドくらいはやる。一つ一つの基本技の反復練習で各1ラウンド使うと、15ラウンドはいく。しかし、今の俺に必要なのは、実戦的なコンビネーションを動きの中でやることである。今度サンドバッグやるときは、間合いに気をつけながら動きを入れたコンビネーションに多くのラウンドをかけるべきだ。
サンドバッグを突き蹴る場合、サンドバッグとある程度距離をとっていると思っても、実は非常に近い間合いになっている。サンドバッグを相手の胴とした場合、相手はそこから手を出して構えているはずだから、実際はかなり近い間合いで相対していることになる。サンドバッグには強力な突き蹴りを叩きこめるのに、スパーリングになると上手くいかないのかは、間合いである。実際の相手とは間合いの取りあいと言うのもあるから、サンドバッグを打ち蹴る場合も、様々な間合いを想定して動き、当てる時には最もパワーが出る間合いにするという、動きの中の間合いコントロールに留意する必要がある。
次のサンドバッグ自主トレは、普段の基本技のパワーアップの為ではなく、15ラウンドすべてコンビネーションで、左右前後のフットワークをつけ間合いを考えつつコントロールする気でやってみるべし。
2011年7月17日日曜日
梶原一騎、その一?
小生は現在52歳。もろ梶原一騎の世界で少年時代と青年時代を送った世代である。我々の世代に対する彼の影響力は、感動した文学よりも親からの説教よりももっと大きなものがあったように思える。
50歳で死んだ梶原一騎よりも俺は年を経た。だが、彼の人生と作品の濃度は生半可ではない。比較して我が身の時間の薄さに嘆いてもよいのだが、そもそも比較する気も起らぬ。彼の作品の中で我々は成長してしまったのである。作品群は我々のビッグファザーであった。
小学低中学年の時は「巨人の星」、思いこんだら試練の道を・・・という歌詞は、うさぎ跳びのアニメの背景と共に頭に刷り込まれている。この同時期に「紅をよぶ拳」というのもあった。へなちょこ中学生がたこ部屋に入れられる等のすさまじい経験をしながらも、空手の強さを極めて行く物語である。そう言えば、「夕やけ番長」もあった。こっちの方はもっと古い。
小学の中高学年の時は、「タイガーマスク」。これも歌とともにアニメの風景まで思い浮かぶ。虎だ虎だ!虎になるんだ・・・のオープニングから、それだからみんなの幸せ願うんだ・・・と言う伊達直人の、闘っている孤独と理由を表したエンディングまで。
「赤き血のイレブン」も読んでいたが、これは最初の方で非常におもしろいと思ったことと漫画の独特のタッチを覚えているだけだね。
中学になると何と言っても「明日のジョー」と「空手バカ一代」だった。「明日のジョー」に関しては、文学作品と言っていいくらいの、登場人物一人一人の存在が際立つ無数の情景がある。ながーい映画にしてもよい、決して2時間やそこらじゃ終わらない。名作である。中学高校の思春期にリアルタイムでこの作品を読んでいたことの意義は大きい。反抗だとか反骨心は、オヤジからも学んだが、この作品から身につけてしまったことも多いのではないかと思う。
空手バカ一代の途中から、梶原一騎という人物自身が表に出てきた。漫画原作者と言えども、知識人ととしてのマトモさや繊細さを想像していた若き小生にとって、角刈り頭で身長185の大男であったことはまったくもって意外であった。さらにサングラスをかけたこわもて。ええーっ、こんな人がこんな作品を作っているのか、とびっくりした。空手バカ一代でも、つのだじろうが作画している最初の方は、大山倍達を訪ねて話を聞くという、原作者として謙虚な態度で節制して登場している。原作者が漫画に登場することは珍しく、メインストーリーのサブであるからちゃんと節制されていた。ところが影丸譲也の作画になった後半部分は、実物の写真も含めて例のこわもてで登場し自らの存在感を示すのが多であった。
どの時分から梶原は変わっていったのであろうか?
極真空手や格闘技の世界に入ってきて、梶原一騎の作風が変わった。
ガタイはよいが繊細な神経を持っていた男が、そんな神経は関係なく、強いということが正しいと言う世界に入ってしまった。単純であることはそれまでの複雑さに比べて美学とも言える。複雑さというものは判定できないからはっきりしない。強いか弱いかだけの単純化された世界は美しく、男どもが全霊を傾ける価値があるのである。
梶原自身、自伝とも言える「男の星座」で、柔道少年であったが、ある事情で暴力事件を起こし、少年院に入ったことを暴露している。元来持っていた「暴」を封印して、漫画原作者の世界に入り、さらに純文学も志向した。元々純文学の方をやりたかったと言う。「文」と「武」、両面が彼の人生に長い周期で現れているようだ。もうひとつ、「男の星座」で述べられているのは、「文」が成り上がるすべだったことである。一人の闘争者がそれを手段として用い、成り上がった後には、「暴」を出してしまったとも言える。武道やスポーツの持つ精神性をどんどん感じなくなってきたのが残念でしょうがない。巨人の星の時代から、あれほど鮮やかにスポーツの精神性を表して、我々に大きな影響と学習を与えてくれた梶原の、後半の作は「空手地獄変」のアナーキーさであった。
スポーツの精神性とは、頑張れば何とかなるという、当時の日本人が目指し行動した価値観と一緒である。漫画のヒーローの世界は一流を描くから頑張る度合いは尋常ではないが、一般人とてひたむきに必死でやれば勝利を得るのである。そして、それほどやっても敗戦というのは確実にあり、またそこから学び不死鳥のように立ちあがる。勝って負けて、またナニクソと立ちあがって勝ち、レベルが上がるとまたもや強力な敵が現れ負けるのである。そしてまたナニクソと。彼の描くストーリはその連続だった。江戸時代に異国の侵略を受けそうになり、維新を起こし富国強兵に頑張り、そして戦争が起き、焼け野原の敗戦、またそこから立ちあがった俺達のオヤジや祖先の時代の有様がある。それをスポーツの世界で、追体験させようとしたのであろうか。
梶原の原点には力道山という存在があったようだ。敗戦国民に頑張れば何とかなる、アメリカ人レスラーを倒す喝采。プロレスという場面に過ぎないが、時代の目標を代弁していた見事なる一致であろう。そして大山倍達。大山倍達自身もまぎれもなくヒーローであるが、梶原は力道山亡き後の、それに擬した存在として描こうと始めは思ったのではなかろうか。
ものすごく不思議なことに、力道山も大山倍達も、戦前の日本国民ではあったのだが、元々は朝鮮人であることだ。その彼等から日本武士道を教わっている。力道山は直情型で色々事件を起こしたそうだから、武士道という精神性とは少し離れるかもしれないが、命と存在をかけて生きるという究極の一点では、武士道である。世界は平和安穏ではない。日本人はその求める所を持って闘わなければならない。
昔百済から仏教が渡ってくると同時に渡来人も大勢来て、朝鮮半島から何かを教えられると言う日本の姿か。ちょっと無理やり説明の感があるね。力道山も大山倍達も彼等の出自は隠していた。しかし我々は教えられて消化する才能には非常に長けている。
オーバーであろうが、ヒーローとして彼等の姿に似ている日本人を挙げよと言われると、坂本竜馬と織田信長あたりが浮かぶ。本田宗一郎もいる。自らの信念に従って存分に我がままに生き、世の中を変えた愛すべき方々である。(織田信長はおっかないが)
えーと、さて、話題を戻そう。何だったけ?
今はスポーツに科学が導入され、梶原の表した泥臭い根性論は背景に潜んでしまった。才能のあるスポーツエリートは、表面に泥臭いものは出さないかもしれない。でも俺は結局、梶原の時代と何にも変わらないことを知っている。ひたすらにひたむきにやらないとモノにならないのは、当たり前のことである。そんな泥臭さが真実としてあることを何故スポーツエリートは言ってくれないのであろうか。
我々の時代は、しっかりしていて行儀のよい石川遼君よりも、やはり江夏?(無論、長嶋・王はヒーローであるが) まあ、年寄りはそろそろ退場願おうと言う、若い人のまっとうな言葉が聞こえてきそうだ。
「明日のジョー」の反骨、これがあまりにも我々の時代に合ってしまった。だから、アウトローとも言えるヒーローを讃えてしまうんだろうな。きれいさっぱり行動も模範となるヒーローではなくて。
50歳で死んだ梶原一騎よりも俺は年を経た。だが、彼の人生と作品の濃度は生半可ではない。比較して我が身の時間の薄さに嘆いてもよいのだが、そもそも比較する気も起らぬ。彼の作品の中で我々は成長してしまったのである。作品群は我々のビッグファザーであった。
小学低中学年の時は「巨人の星」、思いこんだら試練の道を・・・という歌詞は、うさぎ跳びのアニメの背景と共に頭に刷り込まれている。この同時期に「紅をよぶ拳」というのもあった。へなちょこ中学生がたこ部屋に入れられる等のすさまじい経験をしながらも、空手の強さを極めて行く物語である。そう言えば、「夕やけ番長」もあった。こっちの方はもっと古い。
小学の中高学年の時は、「タイガーマスク」。これも歌とともにアニメの風景まで思い浮かぶ。虎だ虎だ!虎になるんだ・・・のオープニングから、それだからみんなの幸せ願うんだ・・・と言う伊達直人の、闘っている孤独と理由を表したエンディングまで。
「赤き血のイレブン」も読んでいたが、これは最初の方で非常におもしろいと思ったことと漫画の独特のタッチを覚えているだけだね。
中学になると何と言っても「明日のジョー」と「空手バカ一代」だった。「明日のジョー」に関しては、文学作品と言っていいくらいの、登場人物一人一人の存在が際立つ無数の情景がある。ながーい映画にしてもよい、決して2時間やそこらじゃ終わらない。名作である。中学高校の思春期にリアルタイムでこの作品を読んでいたことの意義は大きい。反抗だとか反骨心は、オヤジからも学んだが、この作品から身につけてしまったことも多いのではないかと思う。
空手バカ一代の途中から、梶原一騎という人物自身が表に出てきた。漫画原作者と言えども、知識人ととしてのマトモさや繊細さを想像していた若き小生にとって、角刈り頭で身長185の大男であったことはまったくもって意外であった。さらにサングラスをかけたこわもて。ええーっ、こんな人がこんな作品を作っているのか、とびっくりした。空手バカ一代でも、つのだじろうが作画している最初の方は、大山倍達を訪ねて話を聞くという、原作者として謙虚な態度で節制して登場している。原作者が漫画に登場することは珍しく、メインストーリーのサブであるからちゃんと節制されていた。ところが影丸譲也の作画になった後半部分は、実物の写真も含めて例のこわもてで登場し自らの存在感を示すのが多であった。
どの時分から梶原は変わっていったのであろうか?
極真空手や格闘技の世界に入ってきて、梶原一騎の作風が変わった。
ガタイはよいが繊細な神経を持っていた男が、そんな神経は関係なく、強いということが正しいと言う世界に入ってしまった。単純であることはそれまでの複雑さに比べて美学とも言える。複雑さというものは判定できないからはっきりしない。強いか弱いかだけの単純化された世界は美しく、男どもが全霊を傾ける価値があるのである。
梶原自身、自伝とも言える「男の星座」で、柔道少年であったが、ある事情で暴力事件を起こし、少年院に入ったことを暴露している。元来持っていた「暴」を封印して、漫画原作者の世界に入り、さらに純文学も志向した。元々純文学の方をやりたかったと言う。「文」と「武」、両面が彼の人生に長い周期で現れているようだ。もうひとつ、「男の星座」で述べられているのは、「文」が成り上がるすべだったことである。一人の闘争者がそれを手段として用い、成り上がった後には、「暴」を出してしまったとも言える。武道やスポーツの持つ精神性をどんどん感じなくなってきたのが残念でしょうがない。巨人の星の時代から、あれほど鮮やかにスポーツの精神性を表して、我々に大きな影響と学習を与えてくれた梶原の、後半の作は「空手地獄変」のアナーキーさであった。
スポーツの精神性とは、頑張れば何とかなるという、当時の日本人が目指し行動した価値観と一緒である。漫画のヒーローの世界は一流を描くから頑張る度合いは尋常ではないが、一般人とてひたむきに必死でやれば勝利を得るのである。そして、それほどやっても敗戦というのは確実にあり、またそこから学び不死鳥のように立ちあがる。勝って負けて、またナニクソと立ちあがって勝ち、レベルが上がるとまたもや強力な敵が現れ負けるのである。そしてまたナニクソと。彼の描くストーリはその連続だった。江戸時代に異国の侵略を受けそうになり、維新を起こし富国強兵に頑張り、そして戦争が起き、焼け野原の敗戦、またそこから立ちあがった俺達のオヤジや祖先の時代の有様がある。それをスポーツの世界で、追体験させようとしたのであろうか。
梶原の原点には力道山という存在があったようだ。敗戦国民に頑張れば何とかなる、アメリカ人レスラーを倒す喝采。プロレスという場面に過ぎないが、時代の目標を代弁していた見事なる一致であろう。そして大山倍達。大山倍達自身もまぎれもなくヒーローであるが、梶原は力道山亡き後の、それに擬した存在として描こうと始めは思ったのではなかろうか。
ものすごく不思議なことに、力道山も大山倍達も、戦前の日本国民ではあったのだが、元々は朝鮮人であることだ。その彼等から日本武士道を教わっている。力道山は直情型で色々事件を起こしたそうだから、武士道という精神性とは少し離れるかもしれないが、命と存在をかけて生きるという究極の一点では、武士道である。世界は平和安穏ではない。日本人はその求める所を持って闘わなければならない。
昔百済から仏教が渡ってくると同時に渡来人も大勢来て、朝鮮半島から何かを教えられると言う日本の姿か。ちょっと無理やり説明の感があるね。力道山も大山倍達も彼等の出自は隠していた。しかし我々は教えられて消化する才能には非常に長けている。
オーバーであろうが、ヒーローとして彼等の姿に似ている日本人を挙げよと言われると、坂本竜馬と織田信長あたりが浮かぶ。本田宗一郎もいる。自らの信念に従って存分に我がままに生き、世の中を変えた愛すべき方々である。(織田信長はおっかないが)
えーと、さて、話題を戻そう。何だったけ?
今はスポーツに科学が導入され、梶原の表した泥臭い根性論は背景に潜んでしまった。才能のあるスポーツエリートは、表面に泥臭いものは出さないかもしれない。でも俺は結局、梶原の時代と何にも変わらないことを知っている。ひたすらにひたむきにやらないとモノにならないのは、当たり前のことである。そんな泥臭さが真実としてあることを何故スポーツエリートは言ってくれないのであろうか。
我々の時代は、しっかりしていて行儀のよい石川遼君よりも、やはり江夏?(無論、長嶋・王はヒーローであるが) まあ、年寄りはそろそろ退場願おうと言う、若い人のまっとうな言葉が聞こえてきそうだ。
「明日のジョー」の反骨、これがあまりにも我々の時代に合ってしまった。だから、アウトローとも言えるヒーローを讃えてしまうんだろうな。きれいさっぱり行動も模範となるヒーローではなくて。
2011年7月9日土曜日
武士道と切腹と、まとまらない考え
学生時代、武道としての空手をやっているからには武士道というものにあこがれ、また理解すべきものとして「葉隠」を読んだ。著者の出身は薩長土肥の肥前の国であり、大隈重信や江藤新平を出している。山本常朝というお方。
最も有名な言葉として、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」がある。
武士道→死、と来たら「切腹」が思い浮かぶ。無論武士の本懐は戦って死ぬことではある。が、平時に著された書物である故に、「切腹」を論じる。死ぬことと見つけたりの精神を解説すれば色々あるんだろうが、責任をとる、あるいは処罰の一つである「切腹」と言うのは、真面目に考えればそれはそれは異様な風習であろう。日本民族の我々はいかようにして「切腹」を作ったのであろうか。
死刑の刑罰として、武士は打ち首になることよりも切腹を一種の名誉とした。打ち首の方が一瞬で死ぬから、楽である。切腹と言うとそうはいかぬ。いくら介錯があると言えども、それまでの間腹をかっさばくことは、想像を絶する苦痛を味わうことである。
敗戦の日、阿南惟幾陸相は「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」として介錯なしに切腹した。腹を切ったくらいではすぐに死ねないから、その後喉を掻っ切ったと言う。最初から頸動脈を切れば苦痛も相対的に少ないと思うが、まず腹を切った。特攻隊生みの親と言われる、大西瀧治郎中将も敗戦の翌日、同様に介錯なしで切腹した。喉を突かず、そのまま半日以上も苦しんだと言われる。どう考えても地獄の苦痛だ。
こういう、非人間的な所作が、何故武士道の美学までになっているのかが不思議である。武士であるからには、死ぬ間際の苦痛に耐えて初めて、何らかの華というか、完結する精神性があるのだろうか。
三島由紀夫の「憂国」を昔読んだ。今やあまり覚えてはいないが、2.26事件に関与した軍人が切腹する物語であり、その切腹の描写に多くのページを割いていたように思う。三島特有の筆致であるから一種甘美な様を感じるような描写であったように覚えている。
自ら腹を掻っ捌いて、介錯で首が飛ばされるまでは死ぬまでの大苦痛に耐える、この切腹と言う風習は何故に日本人の世界に現れたのであろうか。しかも切腹を武人らしい名誉ある自決としている。
小生が獄門に下り、切腹を選ぶか打ち首を選ぶかと問われれば、自分も空手武人の端くれであるからどっちを選ぶかは分からぬが、どう考えても打ち首の方が楽に死ねるのでそっちに行きそうな気がする。ただ、その判断の前に迷いさえする日本人の歴史と精神性は、やはり存在する。それはいったい何なのであろうか。歴史の重みと言えばそうである。
我々は過去から続く歴史の価値観と思想、風習?のもとで、影響されて生きていることを感じている。わずかな少数、例えば織田信長のような人物だけが歴史をせせら笑い、自らの価値を新たにスタートラインとして作るのであろうか。
アメリカ人と言うのは、歴史が浅い故、織田信長的な考えや行動の形態を普通に持っており、そうであるから常にフロンティアを求め、創れるのかもしれない。歴史というものは、はたして現在を束縛してしまうものであるのだろうか。
歴史を束縛とみるか、未来を作る為の過去の教師とみるか、どっちもどっちで我々は考えるのであるが、悠久の時間の中、一瞬間に存在する我々は、やはり歴史的生物である。長かろうが短かろうが歴史の上の連続性の中に居る。祖父母、両親、そして子や孫へと続くものである。
話を元々の変な疑問である切腹に戻すと、
切腹の歴史が終わった時、日本人の中の何かが変わったと言えよう。ながい歴史の尺度で思うとやはり武を失ったこと、あるいは武に生きる選択を止めたことだと思う。それは今までの所、正しい選択である。
、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の言葉を、武士道のすべてを表すものとして扱いたくはないが、真実はついていると思う。武は闘いであり、殺すし殺されるし、負ければ死を覚悟する。過酷ではあるが、倫理として淡白な世界に住むのは正しいことであると思う。太平の世に在っては、不正を成したり、自らの義を通さぬ振る舞いを成すことを戒める言葉でもある。覚悟を持って生きることを表した言葉であろう。切腹と言う野蛮な風習は失くしたが、一種それと対を成す武士道の精神は生き延びてもらいたいものである。思想が形に昇華し、形は思想を内包するものであり、不可分な気もするが、武士道という思想は何とかしたいものである。
いちかばちか、のるかそるかの精神は、日本人よりもアメリカ人や中国人の方が長けている気がしてしょうがない。命とか生活を賭して正しいことをすることを倫理として持っているとは思えないが、自らを通す原始的な「武」の心情じみたものは感じる。どの道、生きることは闘いであるよ、と。
「武士道」の別面は、主君の為に死すと言う忠誠心である。世の中を平穏に修める思想としての武士道という考えがある。むしろこっちの方が大きいかもしれない。ただ、死生観から生きることを述べる思想としての大きさはやはりきちんと捉えたい。
最も有名な言葉として、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」がある。
武士道→死、と来たら「切腹」が思い浮かぶ。無論武士の本懐は戦って死ぬことではある。が、平時に著された書物である故に、「切腹」を論じる。死ぬことと見つけたりの精神を解説すれば色々あるんだろうが、責任をとる、あるいは処罰の一つである「切腹」と言うのは、真面目に考えればそれはそれは異様な風習であろう。日本民族の我々はいかようにして「切腹」を作ったのであろうか。
死刑の刑罰として、武士は打ち首になることよりも切腹を一種の名誉とした。打ち首の方が一瞬で死ぬから、楽である。切腹と言うとそうはいかぬ。いくら介錯があると言えども、それまでの間腹をかっさばくことは、想像を絶する苦痛を味わうことである。
敗戦の日、阿南惟幾陸相は「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」として介錯なしに切腹した。腹を切ったくらいではすぐに死ねないから、その後喉を掻っ切ったと言う。最初から頸動脈を切れば苦痛も相対的に少ないと思うが、まず腹を切った。特攻隊生みの親と言われる、大西瀧治郎中将も敗戦の翌日、同様に介錯なしで切腹した。喉を突かず、そのまま半日以上も苦しんだと言われる。どう考えても地獄の苦痛だ。
こういう、非人間的な所作が、何故武士道の美学までになっているのかが不思議である。武士であるからには、死ぬ間際の苦痛に耐えて初めて、何らかの華というか、完結する精神性があるのだろうか。
三島由紀夫の「憂国」を昔読んだ。今やあまり覚えてはいないが、2.26事件に関与した軍人が切腹する物語であり、その切腹の描写に多くのページを割いていたように思う。三島特有の筆致であるから一種甘美な様を感じるような描写であったように覚えている。
自ら腹を掻っ捌いて、介錯で首が飛ばされるまでは死ぬまでの大苦痛に耐える、この切腹と言う風習は何故に日本人の世界に現れたのであろうか。しかも切腹を武人らしい名誉ある自決としている。
小生が獄門に下り、切腹を選ぶか打ち首を選ぶかと問われれば、自分も空手武人の端くれであるからどっちを選ぶかは分からぬが、どう考えても打ち首の方が楽に死ねるのでそっちに行きそうな気がする。ただ、その判断の前に迷いさえする日本人の歴史と精神性は、やはり存在する。それはいったい何なのであろうか。歴史の重みと言えばそうである。
我々は過去から続く歴史の価値観と思想、風習?のもとで、影響されて生きていることを感じている。わずかな少数、例えば織田信長のような人物だけが歴史をせせら笑い、自らの価値を新たにスタートラインとして作るのであろうか。
アメリカ人と言うのは、歴史が浅い故、織田信長的な考えや行動の形態を普通に持っており、そうであるから常にフロンティアを求め、創れるのかもしれない。歴史というものは、はたして現在を束縛してしまうものであるのだろうか。
歴史を束縛とみるか、未来を作る為の過去の教師とみるか、どっちもどっちで我々は考えるのであるが、悠久の時間の中、一瞬間に存在する我々は、やはり歴史的生物である。長かろうが短かろうが歴史の上の連続性の中に居る。祖父母、両親、そして子や孫へと続くものである。
話を元々の変な疑問である切腹に戻すと、
切腹の歴史が終わった時、日本人の中の何かが変わったと言えよう。ながい歴史の尺度で思うとやはり武を失ったこと、あるいは武に生きる選択を止めたことだと思う。それは今までの所、正しい選択である。
、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の言葉を、武士道のすべてを表すものとして扱いたくはないが、真実はついていると思う。武は闘いであり、殺すし殺されるし、負ければ死を覚悟する。過酷ではあるが、倫理として淡白な世界に住むのは正しいことであると思う。太平の世に在っては、不正を成したり、自らの義を通さぬ振る舞いを成すことを戒める言葉でもある。覚悟を持って生きることを表した言葉であろう。切腹と言う野蛮な風習は失くしたが、一種それと対を成す武士道の精神は生き延びてもらいたいものである。思想が形に昇華し、形は思想を内包するものであり、不可分な気もするが、武士道という思想は何とかしたいものである。
いちかばちか、のるかそるかの精神は、日本人よりもアメリカ人や中国人の方が長けている気がしてしょうがない。命とか生活を賭して正しいことをすることを倫理として持っているとは思えないが、自らを通す原始的な「武」の心情じみたものは感じる。どの道、生きることは闘いであるよ、と。
「武士道」の別面は、主君の為に死すと言う忠誠心である。世の中を平穏に修める思想としての武士道という考えがある。むしろこっちの方が大きいかもしれない。ただ、死生観から生きることを述べる思想としての大きさはやはりきちんと捉えたい。
2011年7月8日金曜日
復興相の辞任
松本復興担当相が宮城県知事宛てに不遜な態度と言葉を吐き、それがTV放映された為に被災地の方々の大いなる反発を招き、被災者と共に歩むことがほぼ無理になったが為に辞任した。
最初TVで観た時、小生も非常に不愉快であった。あんな横柄な態度と言い方はない。大臣だからと言ってあそこまで威張っていいものではなかろう、と。
ただその後、小生の尊敬というか、畏敬している藤原新也氏のブログを読んで、確かにそうだよな、と頷いた。
氏のポイントは幾つかあり、氏自身もその場にはいない故にある程度の推測も入るが、
この日本と言う国の危うさは、受け入れやすい「良心的な」意見が出ると、すべてに近い国民がそっちの方に向いてしまうことである。「良心的」ではないが、その右へ倣え的賛同でもって、中国侵略や太平洋戦争が起きたと思う。前にも述べたことだが、今や何人もの総理さえも糾弾してポピュリズムの道を走れる日本と言う国は、ある意味、民主主義がもっとも実っている国であろう。人気で、雰囲気で、そして確かに多数の下で道を決めている。
そんなことを考えたこともあったのだが、今回の松本大臣の言には小生もこりゃだめだと思ってしまっていた。が、畏敬する藤原新也氏の文を読んではっとさせられた訳だ。我々は自分の頭で、きちんと判断しなければならない。物事の本質は、表面的な事実を伝えるマスコミの中にはない。日本のマスコミは、昔を反省して常に反権力の姿勢でニュースを伝えているのであろう。それはそれで正しいと思うのだが、そういうことでもあると認識して、自分の頭で考えることである。
最初TVで観た時、小生も非常に不愉快であった。あんな横柄な態度と言い方はない。大臣だからと言ってあそこまで威張っていいものではなかろう、と。
ただその後、小生の尊敬というか、畏敬している藤原新也氏のブログを読んで、確かにそうだよな、と頷いた。
氏のポイントは幾つかあり、氏自身もその場にはいない故にある程度の推測も入るが、
- あの横柄な場面の前には、実際的な議論があったはずだ。あの場面だけを切り取って流すマスコミはむしろ危険である。
- 彼は旧知の宮城県知事にモノ申していた。その二人の関係ではあのような言い方も成り立っているのかもしれない。
- マスコミ受けし、またニュースとして流れて国民の共感を得る人は、「感じのいい人」しかいない。しかし、「感じのいい人」が国を導く政治ができるとは限らぬ。むしろその逆の方が多い。
- しかしさすがに彼が最後に言った、これを流すとその報道会社は終わりだ、の言は、彼の気負いに自身が飲み込まれたようで、よくはない。
- 時間通りに来る宮城県知事は「いい人」なんだろう。しかし漁業権に関して、最初から知識人を入れて政治を行うのは、現場の地方自治をむしろ軽視していないだろうか。(これはある人の意見、藤原氏の論点はもっと手厳しい) そういう点では「(被災地である地元ときちんと話して)コンセンサスを得ろ」の復興担当相の言は正しい。
この日本と言う国の危うさは、受け入れやすい「良心的な」意見が出ると、すべてに近い国民がそっちの方に向いてしまうことである。「良心的」ではないが、その右へ倣え的賛同でもって、中国侵略や太平洋戦争が起きたと思う。前にも述べたことだが、今や何人もの総理さえも糾弾してポピュリズムの道を走れる日本と言う国は、ある意味、民主主義がもっとも実っている国であろう。人気で、雰囲気で、そして確かに多数の下で道を決めている。
そんなことを考えたこともあったのだが、今回の松本大臣の言には小生もこりゃだめだと思ってしまっていた。が、畏敬する藤原新也氏の文を読んではっとさせられた訳だ。我々は自分の頭で、きちんと判断しなければならない。物事の本質は、表面的な事実を伝えるマスコミの中にはない。日本のマスコミは、昔を反省して常に反権力の姿勢でニュースを伝えているのであろう。それはそれで正しいと思うのだが、そういうことでもあると認識して、自分の頭で考えることである。
2011年7月3日日曜日
うーん・・・沈まぬ太陽
自動車業界は7月から9月一杯まで、休みが土日ではなく木金となる。小生はその業界で働く者であり、最初の木金の休みが過ぎた。今日は日曜日だが仕事だった。
空手の道場稽古は、木曜は午後8時半から、金曜は午後8時からである。木曜に出ようと思ったが、ついついビールと晩飯を選んでしまいサボり。金曜は何とか出た。皆どうやっているのだろうか? 健康的な生活としては、午後6時から夕食をとれば消化も済んだ頃に練習となり、ちょうどよい。しかし晩飯にビールは飲めない。困ったもんだ。
今まで土日の稽古に参加していたが、これから3ヶ月は木金となる。
本日の稽古は、基本の後は、約束組手4種。これで1時間半が過ぎた。新しい約束組手なので順番を身体に覚えさせることから始め、何度もやればそれなりに時間もかかる。
稽古前に15分程度サンドバッグをやった。まあそれも合わせるとまずまずと言える稽古の分量だ。
「沈まぬ太陽」を観る。山崎豊子氏原作の映画である。3時間を超える長い映画なんだが、どうも何を言いたいのか、見せたいのかが分からぬと言うか、映画だからであろう、ちょっと浅いエンターティメント風味だ。または言いたいこと、見せたいものが多すぎるのであろうか?
JALをモデルとしたナショナルフラッグキャリアの航空会社、国民航空の労組委員長が主人公であり、あまりにも強く会社にたてついたために、左遷の会社生活をおくる。ほとんどイジメに近い。パキスタン駐在からイランへ、そしてケニヤへと回され、日本に帰って来た頃に御巣鷹山墜落事故が起り、被害者の家族の世話に奔走する。その後、国民航空の経営改革の為に外部から来た会長の右腕となり、怠慢経営の一部を暴くが、政治家も絡んだ末に会長が辞職すると、結局またケニヤへやられる。会社組織社会の愚かさ、欲深さに翻弄されつつも、最後にケニヤの大地で悟りと諦めの入り混じった感覚とともに、大自然の与える何らかの肯定を覚えて、物語は終わる。やはり最後は悠久の大地、自然か・・・、これしかないか、ないのならしょうがない。
原作は違うと思うが、映画はちょっと・・・陳腐である。墜落という大事件は悲劇である。その悲劇から学ばずに、相変わらずナショナルフラッグキャリアの国民航空は経営を変えようとしない。会長を除くと、能天気で権力闘争の好きそうなバカ者ばかりの経営陣である。この辺は映画的なデフォルメであろうとは思う。しかし「本当にそうか?」現実がこの映画の世界と似たようなことならば、そもそも存続してはいけない会社である。似たようなもんだから、それから25年経ってようやく破綻してしまったのであろうか。
うーん、映画を見て現実を推し量るのは大変よくないことだが、これは現実に存在する会社や人をモデルにして創作する物語の、読者・視聴者に与える危険性であることは確かだ。
ナショナルフラッグキャリヤの意識がある限りは立ち直ったとしても一時のことであろう。働いている人が悪いわけではない。そこに縁故採用というような小さなものから大きなものまでの利権があるから、結局食い物にされて上手くいかない。
民間に任せて上手くいく場合は、明らかに客観的な世界的競争がある場合である。我々の自動車産業は、世界的な競争の中にある。少しでも未来の設計図をかけるもの、苦労を経て真実を述べられるものが、それなりにちゃんと経営陣として居ると思う。そして檄を飛ばす。最近は昔と違い柔らかく表現に気をつけた「言葉」である。そうして上から下まで世界的な競争と危機感を共有する。
そんな公平な競争の中で、自ら誇るよいモノを作れ、それが世の為人の為になって行く、という純真な精神と世界観を創業者は残した。青臭い議論でもOKである。むしろ青臭くないと先に進めないような世界観だ。
USのある会社は粉飾決算を成し、一時的に株価を上げて株主を儲けさせるだけ儲けさせた後に、発覚して会社をつぶすということがあった。最後まで株を持っていた人は大損である。モンスター資本主義の奴らは上手くやってしまったのであろう。これは詐欺という犯罪である。
組織、会社の理念が大切であり、理念に沿って実行できているかどうかの自己チェックが常時必要であることが分かってくる。
空手の道場稽古は、木曜は午後8時半から、金曜は午後8時からである。木曜に出ようと思ったが、ついついビールと晩飯を選んでしまいサボり。金曜は何とか出た。皆どうやっているのだろうか? 健康的な生活としては、午後6時から夕食をとれば消化も済んだ頃に練習となり、ちょうどよい。しかし晩飯にビールは飲めない。困ったもんだ。
今まで土日の稽古に参加していたが、これから3ヶ月は木金となる。
本日の稽古は、基本の後は、約束組手4種。これで1時間半が過ぎた。新しい約束組手なので順番を身体に覚えさせることから始め、何度もやればそれなりに時間もかかる。
稽古前に15分程度サンドバッグをやった。まあそれも合わせるとまずまずと言える稽古の分量だ。
「沈まぬ太陽」を観る。山崎豊子氏原作の映画である。3時間を超える長い映画なんだが、どうも何を言いたいのか、見せたいのかが分からぬと言うか、映画だからであろう、ちょっと浅いエンターティメント風味だ。または言いたいこと、見せたいものが多すぎるのであろうか?
JALをモデルとしたナショナルフラッグキャリアの航空会社、国民航空の労組委員長が主人公であり、あまりにも強く会社にたてついたために、左遷の会社生活をおくる。ほとんどイジメに近い。パキスタン駐在からイランへ、そしてケニヤへと回され、日本に帰って来た頃に御巣鷹山墜落事故が起り、被害者の家族の世話に奔走する。その後、国民航空の経営改革の為に外部から来た会長の右腕となり、怠慢経営の一部を暴くが、政治家も絡んだ末に会長が辞職すると、結局またケニヤへやられる。会社組織社会の愚かさ、欲深さに翻弄されつつも、最後にケニヤの大地で悟りと諦めの入り混じった感覚とともに、大自然の与える何らかの肯定を覚えて、物語は終わる。やはり最後は悠久の大地、自然か・・・、これしかないか、ないのならしょうがない。
原作は違うと思うが、映画はちょっと・・・陳腐である。墜落という大事件は悲劇である。その悲劇から学ばずに、相変わらずナショナルフラッグキャリアの国民航空は経営を変えようとしない。会長を除くと、能天気で権力闘争の好きそうなバカ者ばかりの経営陣である。この辺は映画的なデフォルメであろうとは思う。しかし「本当にそうか?」現実がこの映画の世界と似たようなことならば、そもそも存続してはいけない会社である。似たようなもんだから、それから25年経ってようやく破綻してしまったのであろうか。
うーん、映画を見て現実を推し量るのは大変よくないことだが、これは現実に存在する会社や人をモデルにして創作する物語の、読者・視聴者に与える危険性であることは確かだ。
ナショナルフラッグキャリヤの意識がある限りは立ち直ったとしても一時のことであろう。働いている人が悪いわけではない。そこに縁故採用というような小さなものから大きなものまでの利権があるから、結局食い物にされて上手くいかない。
民間に任せて上手くいく場合は、明らかに客観的な世界的競争がある場合である。我々の自動車産業は、世界的な競争の中にある。少しでも未来の設計図をかけるもの、苦労を経て真実を述べられるものが、それなりにちゃんと経営陣として居ると思う。そして檄を飛ばす。最近は昔と違い柔らかく表現に気をつけた「言葉」である。そうして上から下まで世界的な競争と危機感を共有する。
そんな公平な競争の中で、自ら誇るよいモノを作れ、それが世の為人の為になって行く、という純真な精神と世界観を創業者は残した。青臭い議論でもOKである。むしろ青臭くないと先に進めないような世界観だ。
USのある会社は粉飾決算を成し、一時的に株価を上げて株主を儲けさせるだけ儲けさせた後に、発覚して会社をつぶすということがあった。最後まで株を持っていた人は大損である。モンスター資本主義の奴らは上手くやってしまったのであろう。これは詐欺という犯罪である。
組織、会社の理念が大切であり、理念に沿って実行できているかどうかの自己チェックが常時必要であることが分かってくる。
2011年6月29日水曜日
被災地を歩く
ハマナスの花だそうだ。震災被害のいわきの浜辺に近い所を歩いている時、基礎だけが残っている家の前に咲いていた。
いわきの知り合いの家に先週末やっかいになった。だいたい年に2回ほど会いに行く。ゴールデンウィークに行くパターンがここ2,3年続いたが、今年は震災があって後片付けに忙しいだろうとパスした。後片付けを手伝いに行くという発想がないのが、イカンと言えばイカン。まあ、ゴールデンウィークには大概の後片付けは終わっていて、少々のひび割れの所を、俺と同じく定期的に訪れる友人のダンナが張り切って直したそうだ。そのダンナは不動産関係を営んでいるらしく、直す道具一式を持ってきて頑張ったとのこと。
そういう芸のない俺は、せいぜい旨いものを土産に行くだけ。食って飲んで古い名作映画ビデオを見て帰ると言うのがいつものことだ。
土曜に行き、飲んで食った次の日の日曜、歩いてみるか、と、被災地エリアに向かった。我が知り合いの前に家が3軒ほどあったんだが、2軒は津波に壊れされたので既に取り壊され、残る1軒も撤去の予定だ。我が知り合いの家だけが、海岸から2列目であるけれど多少高くなっている上に、1.5mの土盛をしたおかげで助かっている。庭のデッキの2段目まで津波が来たと言う。海岸から測ると高さ5Mだだそうだ。入り江の端の方だったからまだよかった。中心地を襲った津波は7-9Mくらいあったそうだ。横の家は新しいから大丈夫なようだが、土盛りをしていないから1階部分は浸水したことであろう。被災エリアは、わが知り合いの家を除いてほぼ廻り全部である。
入り江の中心に向かって歩いたが、壊れている家が少なくなり、基礎だけで上物の家がない土地がどんどん増えていく。中心では9割方基礎のみであり、残った家も壁が破壊され家の中に家財と瓦礫が積もっている状態だった。そのほとんどの家は、「撤去予定」と市の張り紙がしてあった。残った門扉に連絡先だけ書いてあるのが痛々しい。
家を失うことは大変だ。ローンがまだ残っている人もいるだろう。仕事場を失っている人も多い。金を作ろうにも作れない。漁には出られない。海産物の加工工場もボロボロで、すごい匂いがしていた。もう3か月経つのに驚くべきことだ。家族を失った人も多いに違いない。それが一番の悲しみだ。
俺は歩いていたので、風景としての酷さは感じ取れた。しかしそこに存在した人々やその生活が失われたということを、どれだけ感じ取れたのだろうか。風景は廃墟として無機的にある。瓦礫がほぼ撤去されていたので、実に広々とした視界だ。津波が現れ無抵抗な人々を飲み込んだ地獄図があったに違いないのに。あえて想像して我が身を置き、死ぬということの苦しさにブルったが、総じて淡々として風景の中を歩き続けた。
途中の浜辺でお坊さんが2,3人、それから沖縄から来たらしい郷土芸能を見せる集団が数人近く、その芸能着に身を包んでいた。何かの行事としてのテントが張られていた。坊さんは念仏を唱えるのであろう。沖縄芸能の方々はそれに合わせて踊ると言うわけではないだろうし、一群として浜辺のテントの周りにいるのは、訳の分からぬ組み合わせである。
その浜辺の道を通り過ぎようとした時に、愛知から来たボランティアのお姉さんにパンフレットを渡され説明された。「今日の午後3時から沖縄の〇△さんのコンサートがあるので来てみてください。〇△さんが被災地の方々の為に行うコンサートです。」
ボランティアのお姉さんの胸には、「愛知」と「〇〇」という名前の札があった。ふーむ、確かによいことである。自らの出処を名札にしてボランティアすることは。名前を覚えてもらわないと人から頼まれないし、出身を明示することは、(不謹慎ではあるが)源氏名だけの名札を張るどこかの店よりもきちんとする。出身の話題で人々とも話が弾むであろう。人の出自を明らかにすることは信頼である。
パンフレットはもらったが、コンサートの始まりの時間は帰り道を急いでいる時間でもあり、お姉さんが別の通りかかった人に話しかけたのを機会として、その場から歩き去って行った。俺達のように単に歩く者は、何の貢献もしないが、ボランティア、無料コンサート主催の方々は当然やっぱりエライ。ともかく人の繋がりが作られる。人は不幸せのどん底でも人と繋がっていれば生きられる。
入り江を二つまたぎ4K歩いた。帰りは多少内陸部で津波の到達した地点を縫いながら歩いて4K。帰りは雨がぱらついたので早足にもなったし、合計8Kだからそれなりに疲れた。
昔、もう亡くなった祖母さんが毎日神棚に向かい、「今日も何事もなく平穏に過ぎますように」と祈っていた。少年の俺は、「何事もなく過ぎるなんておもしろくも何ともない。何かが起きなければ、何かを起こさなければ」と思っていた。若い者は退屈な時間がもっとも嫌である。そして若い者は不幸が起きるとは思っていない。新しくワクワクすることが起きるといつも思っている。
東北の為に何ができるか、周りの恵まれぬ人の為に何ができるか、日本人として全体の為に耐えるのを良しとする節電とか、我々の体質はこれから変わって行くように思える。それはもともとそういう体質を持っているので意識せず先祖返りすることかもしれない。地震、津波は大自然の成せる災いだ。日本人はずーっと自然を愛で畏怖し、祝い諦め、生活してきた。
いわきの知り合いの家に先週末やっかいになった。だいたい年に2回ほど会いに行く。ゴールデンウィークに行くパターンがここ2,3年続いたが、今年は震災があって後片付けに忙しいだろうとパスした。後片付けを手伝いに行くという発想がないのが、イカンと言えばイカン。まあ、ゴールデンウィークには大概の後片付けは終わっていて、少々のひび割れの所を、俺と同じく定期的に訪れる友人のダンナが張り切って直したそうだ。そのダンナは不動産関係を営んでいるらしく、直す道具一式を持ってきて頑張ったとのこと。
そういう芸のない俺は、せいぜい旨いものを土産に行くだけ。食って飲んで古い名作映画ビデオを見て帰ると言うのがいつものことだ。
土曜に行き、飲んで食った次の日の日曜、歩いてみるか、と、被災地エリアに向かった。我が知り合いの前に家が3軒ほどあったんだが、2軒は津波に壊れされたので既に取り壊され、残る1軒も撤去の予定だ。我が知り合いの家だけが、海岸から2列目であるけれど多少高くなっている上に、1.5mの土盛をしたおかげで助かっている。庭のデッキの2段目まで津波が来たと言う。海岸から測ると高さ5Mだだそうだ。入り江の端の方だったからまだよかった。中心地を襲った津波は7-9Mくらいあったそうだ。横の家は新しいから大丈夫なようだが、土盛りをしていないから1階部分は浸水したことであろう。被災エリアは、わが知り合いの家を除いてほぼ廻り全部である。
家を失うことは大変だ。ローンがまだ残っている人もいるだろう。仕事場を失っている人も多い。金を作ろうにも作れない。漁には出られない。海産物の加工工場もボロボロで、すごい匂いがしていた。もう3か月経つのに驚くべきことだ。家族を失った人も多いに違いない。それが一番の悲しみだ。
俺は歩いていたので、風景としての酷さは感じ取れた。しかしそこに存在した人々やその生活が失われたということを、どれだけ感じ取れたのだろうか。風景は廃墟として無機的にある。瓦礫がほぼ撤去されていたので、実に広々とした視界だ。津波が現れ無抵抗な人々を飲み込んだ地獄図があったに違いないのに。あえて想像して我が身を置き、死ぬということの苦しさにブルったが、総じて淡々として風景の中を歩き続けた。
途中の浜辺でお坊さんが2,3人、それから沖縄から来たらしい郷土芸能を見せる集団が数人近く、その芸能着に身を包んでいた。何かの行事としてのテントが張られていた。坊さんは念仏を唱えるのであろう。沖縄芸能の方々はそれに合わせて踊ると言うわけではないだろうし、一群として浜辺のテントの周りにいるのは、訳の分からぬ組み合わせである。
その浜辺の道を通り過ぎようとした時に、愛知から来たボランティアのお姉さんにパンフレットを渡され説明された。「今日の午後3時から沖縄の〇△さんのコンサートがあるので来てみてください。〇△さんが被災地の方々の為に行うコンサートです。」
ボランティアのお姉さんの胸には、「愛知」と「〇〇」という名前の札があった。ふーむ、確かによいことである。自らの出処を名札にしてボランティアすることは。名前を覚えてもらわないと人から頼まれないし、出身を明示することは、(不謹慎ではあるが)源氏名だけの名札を張るどこかの店よりもきちんとする。出身の話題で人々とも話が弾むであろう。人の出自を明らかにすることは信頼である。
パンフレットはもらったが、コンサートの始まりの時間は帰り道を急いでいる時間でもあり、お姉さんが別の通りかかった人に話しかけたのを機会として、その場から歩き去って行った。俺達のように単に歩く者は、何の貢献もしないが、ボランティア、無料コンサート主催の方々は当然やっぱりエライ。ともかく人の繋がりが作られる。人は不幸せのどん底でも人と繋がっていれば生きられる。
入り江を二つまたぎ4K歩いた。帰りは多少内陸部で津波の到達した地点を縫いながら歩いて4K。帰りは雨がぱらついたので早足にもなったし、合計8Kだからそれなりに疲れた。
昔、もう亡くなった祖母さんが毎日神棚に向かい、「今日も何事もなく平穏に過ぎますように」と祈っていた。少年の俺は、「何事もなく過ぎるなんておもしろくも何ともない。何かが起きなければ、何かを起こさなければ」と思っていた。若い者は退屈な時間がもっとも嫌である。そして若い者は不幸が起きるとは思っていない。新しくワクワクすることが起きるといつも思っている。
東北の為に何ができるか、周りの恵まれぬ人の為に何ができるか、日本人として全体の為に耐えるのを良しとする節電とか、我々の体質はこれから変わって行くように思える。それはもともとそういう体質を持っているので意識せず先祖返りすることかもしれない。地震、津波は大自然の成せる災いだ。日本人はずーっと自然を愛で畏怖し、祝い諦め、生活してきた。
2011年6月23日木曜日
久々に会社にて稽古指導
本日は珍しいメンバーにて、会社の道場にて稽古した。栃木から出張に来ており、極真と伝統派両方やっているM君、伝統空手有段者のA君、それとまだ初級の部類だが、最近やる気になっているY君。小生が稽古の指揮をとった。
基本技: まあ、流派によって身体の使い方が異なる。小生の流派のみが身体の回転を大きく使う。例えば正拳中段突きは45度まで腰を回す。極真、伝統派は、腰は使うけれどもそこまで回さない。外受け、下突きなども違う。各々のやり方でよしとするが、技の解説を入れつつ一通り。
移動: 前屈と猫足をやる。この辺の態勢は各流派ほぼ同じ。それから組手の構えからコンビネーション技の移動。ワンツー、ワンツー下突き、ワンツーフック、ワンツーフックから極めのストレート、前蹴り、回し蹴り、ワンツー中段回し蹴り、ローキックからワンツーで最後左のハイキック。
約束組手: ワンツーのパンチ攻撃を手首をひねり柔らかくいなすのを1分。下突きのワンツーの受けも加えて1分。中段回し蹴りを衝撃を和らげながら両手で受けるのを1分。ローキックを筋肉受け、膝を上げて受けるのをどちらでもよしとして1分。各々攻守交替してやった。相手も痛くないように柔らかく手首を回して小さく受けるのが難しいことを再認識。
普通ならばここからライトスパーリングに行く方が面白いのだろうが、小生の好みとしてキックミットによるパンチコンビネーション2分2ラウンド、サンドバッグへの蹴りを2分2ラウンド、サーキットで行った。まあ、この稽古が一番息が上がる。
以上で2時間弱。暑いので何度も水分補給の小休止を入れたが、結構稽古したもんだ。
基本技: まあ、流派によって身体の使い方が異なる。小生の流派のみが身体の回転を大きく使う。例えば正拳中段突きは45度まで腰を回す。極真、伝統派は、腰は使うけれどもそこまで回さない。外受け、下突きなども違う。各々のやり方でよしとするが、技の解説を入れつつ一通り。
移動: 前屈と猫足をやる。この辺の態勢は各流派ほぼ同じ。それから組手の構えからコンビネーション技の移動。ワンツー、ワンツー下突き、ワンツーフック、ワンツーフックから極めのストレート、前蹴り、回し蹴り、ワンツー中段回し蹴り、ローキックからワンツーで最後左のハイキック。
約束組手: ワンツーのパンチ攻撃を手首をひねり柔らかくいなすのを1分。下突きのワンツーの受けも加えて1分。中段回し蹴りを衝撃を和らげながら両手で受けるのを1分。ローキックを筋肉受け、膝を上げて受けるのをどちらでもよしとして1分。各々攻守交替してやった。相手も痛くないように柔らかく手首を回して小さく受けるのが難しいことを再認識。
普通ならばここからライトスパーリングに行く方が面白いのだろうが、小生の好みとしてキックミットによるパンチコンビネーション2分2ラウンド、サンドバッグへの蹴りを2分2ラウンド、サーキットで行った。まあ、この稽古が一番息が上がる。
以上で2時間弱。暑いので何度も水分補給の小休止を入れたが、結構稽古したもんだ。
2011年6月20日月曜日
若さ、というもの
先週、一瞬気合が乗り、昼トレのフルメニュー、次の日は昼休みにサンドバッグを4ラウンドばかりやり、汗だくの中午後からの仕事に向かい大変気持ちが悪かった・・・が、充実。ところが土日は、金曜に深酒をした為に心身ともにだるく、またもや道場稽古をさぼり、安逸をむさぼって過ごしてしまった。
反省。
庭の芝刈りをし、息子の数学の勉強を見たことくらいがせいぜいの生産的なことかぁ。武道家の心を忘れ、一小市民の生活ならば・・・、ごく自然にいつでも、そうなる。むしろ、武道家の心を持っている時間の方が珍しいと思う。このブログを書くとき位に、改めて真面目に考えてそう心に落としても、日常の行動ではすっかり忘れているのがいつものことだ。
考えて(書いて)腹に落ちても、行動に繋がらない。よく言ったもので、行動をまず起こしてその途中に考える、と言うのが、普遍的で、人の正しいやり方であろう。物事が成せるのはそういう時である。
まず行動する。
その深い意義をもう一度考えよう・・・考えてもいかんのだが・・・、行動することだから。
人の世界はよくしたもので、行動する人をよく見ている。考えている人は知らぬ気がつかぬ。無論人だから、よく考えた末に行動する人、行動しながら考える人、行動するだけで考えてない人、色々であるが、見ているのは行動のみである。「実はこれこれ・・・」と言う、考えは後から聞くことがほとんどだ。
「行動」ということを年をとればとるほど、よく「考えて」よい。「俺の若い時には、考えより先に行動した」と、年をとった人は昔を懐かしみながらよく言うではないか。たいていの場合、それはポジティブな価値観にて思い起こしている。ならば、年をとったとしてもまず行動あるべきであろう。
理屈をこねて動かないこと、理屈をこねてからやっと動くこと。年をとると理屈は必要だ。ならばせめて理屈と行動を同時にやろう。
もう一つ述べるならば、小生は先に述べたように、土日の休みを安らかに、何もせず安逸に過ごすことができる。若い時、それは退屈極まりないものであった。ところが年をとった今はそれを幸せと感じる場合もある。この違いである、年齢ちゅうものは。
動かないことを退屈極まりないと思うか、それが安楽でよいとするか、で、物理的な年齢ではなく、精神的な年齢が決まる。若い感受性を持ちたければ無論、動かないと始まらないであろう。
改めてそう考え、若い感受性を持ちたい、持つべきであるとして、まず動くかどうかである。
空手稽古に出ればほんの少しでも強くはなる、やるべし。休みの日に女房の手伝いをして料理を学ぼう、やるべし。息子の勉強を見れば少しは息子の役に立つ、やるべし。あまり気が進まぬが休みでも仕事をすれば、これも多少進む、やるべし。遠い知り合いとたまには行って話そう、やるべし。我々の生きる時間の濃さは行動による。
反省。
庭の芝刈りをし、息子の数学の勉強を見たことくらいがせいぜいの生産的なことかぁ。武道家の心を忘れ、一小市民の生活ならば・・・、ごく自然にいつでも、そうなる。むしろ、武道家の心を持っている時間の方が珍しいと思う。このブログを書くとき位に、改めて真面目に考えてそう心に落としても、日常の行動ではすっかり忘れているのがいつものことだ。
考えて(書いて)腹に落ちても、行動に繋がらない。よく言ったもので、行動をまず起こしてその途中に考える、と言うのが、普遍的で、人の正しいやり方であろう。物事が成せるのはそういう時である。
まず行動する。
その深い意義をもう一度考えよう・・・考えてもいかんのだが・・・、行動することだから。
人の世界はよくしたもので、行動する人をよく見ている。考えている人は知らぬ気がつかぬ。無論人だから、よく考えた末に行動する人、行動しながら考える人、行動するだけで考えてない人、色々であるが、見ているのは行動のみである。「実はこれこれ・・・」と言う、考えは後から聞くことがほとんどだ。
「行動」ということを年をとればとるほど、よく「考えて」よい。「俺の若い時には、考えより先に行動した」と、年をとった人は昔を懐かしみながらよく言うではないか。たいていの場合、それはポジティブな価値観にて思い起こしている。ならば、年をとったとしてもまず行動あるべきであろう。
理屈をこねて動かないこと、理屈をこねてからやっと動くこと。年をとると理屈は必要だ。ならばせめて理屈と行動を同時にやろう。
もう一つ述べるならば、小生は先に述べたように、土日の休みを安らかに、何もせず安逸に過ごすことができる。若い時、それは退屈極まりないものであった。ところが年をとった今はそれを幸せと感じる場合もある。この違いである、年齢ちゅうものは。
動かないことを退屈極まりないと思うか、それが安楽でよいとするか、で、物理的な年齢ではなく、精神的な年齢が決まる。若い感受性を持ちたければ無論、動かないと始まらないであろう。
改めてそう考え、若い感受性を持ちたい、持つべきであるとして、まず動くかどうかである。
空手稽古に出ればほんの少しでも強くはなる、やるべし。休みの日に女房の手伝いをして料理を学ぼう、やるべし。息子の勉強を見れば少しは息子の役に立つ、やるべし。あまり気が進まぬが休みでも仕事をすれば、これも多少進む、やるべし。遠い知り合いとたまには行って話そう、やるべし。我々の生きる時間の濃さは行動による。
2011年6月16日木曜日
禁煙!昼トレフルメニュー再開
本日は、2カ月ぶりに昼トレでフルメニューをこなした。と言っても25分だが、最近気合も乗らずサボっていたので久方ぶりのGoodJobである。
2日前にまた禁煙を始めた。煙草を吸い出すと昼休みになってまず一服となるので、トレーニングの時間が短くなり、あまり気を入れてやる気も起らず、せいぜい2,3種目やってお茶を濁すと言うパターンが2カ月続いた訳だ。
自慢じゃないが、禁煙は何回となくやったことがある。喫煙時には83Kの体重、それが禁煙して2ヶ月くらい経つと87Kに増えるのがいつものこと。トレーニングもし続けているので挙げられる負荷も増す。それがまたタバコを吸い始めると体重が落ち、トレーニング時間も減るので負荷も多少減る。その繰り返しだ。
それにしてもタバコを吸うか吸わないかで、体重が4Kも増減するとは、改めて考えてもタバコの身体への影響は大きい。
禁煙時は、上記したフルメニューを合間の時間も短くさっさとやり、柔軟の時間も5分弱とれた。それにこれから持っていこう。
- V字腹筋50回、反り返り背筋30回
- 胸筋鍛えるバタフライ、8→5→4回
- 懸垂3種、10→8→5回
- スクワット100回
- 足広げ、閉じ、各10回2セット
- ダンベル上げ10回2セット
2日前にまた禁煙を始めた。煙草を吸い出すと昼休みになってまず一服となるので、トレーニングの時間が短くなり、あまり気を入れてやる気も起らず、せいぜい2,3種目やってお茶を濁すと言うパターンが2カ月続いた訳だ。
自慢じゃないが、禁煙は何回となくやったことがある。喫煙時には83Kの体重、それが禁煙して2ヶ月くらい経つと87Kに増えるのがいつものこと。トレーニングもし続けているので挙げられる負荷も増す。それがまたタバコを吸い始めると体重が落ち、トレーニング時間も減るので負荷も多少減る。その繰り返しだ。
それにしてもタバコを吸うか吸わないかで、体重が4Kも増減するとは、改めて考えてもタバコの身体への影響は大きい。
禁煙時は、上記したフルメニューを合間の時間も短くさっさとやり、柔軟の時間も5分弱とれた。それにこれから持っていこう。
2011年6月14日火曜日
技の速さ
どうも仕事が忙しいと、空手と自主トレが薄くなる。考えと実行の両面において物理的にそれをやる時間が少なくなる。イカンねぇ。
昔、伝統派空手(剛柔流)をやっていた学生時代の内、かなり強くなっていた3回生の後半に、基本の大切さを実感していた。曰く、
「スピードを増したいと思うなら基本稽古が最も大事である。他の動きを排した基本の技を純粋に如何にスピード速くやるかである。反動やリズムをつけるべきではないし、平行立ちに構えた足が床を蹴り、その力が腰の回転となり、そして回転が直線的な突きの速さを生む。その全く無駄のない理屈の世界をやることで、速くすることを覚えねばならない。」
「速くやろうとしなければ決して速くならない。正拳突きを100本、のらりくらりと突くよりは、20本、ひたすら速く突こうと思って突く方が、余程練習になる。」
フルコンをやり始めて、どうもこの辺がおろそかになっていた。フルコンは基本的にパワーであると思った為だ。打たれてもダメージを受けなければよいし、相手にダメージを与えるにはパワーある突き蹴りである、と。
最近、どうもそれではダメで、フルコンと言えども一瞬の受け返しをするならば、軸の安定、技の安定、そして技のスピードが必要であることは言うまでもない、と分かってきた。さらに、間合いを測り、相手の動きを察知する為には、「緊張感のある」基本稽古をしなければならない。基本稽古の内だからこそ、前に相対している敵を想定して、相手を本当に仕留める技が出せているかどうかを自問しなければならない。
そういうことを、再度、自覚し始めた。
基本技からちゃんと・・・・。
昔、伝統派空手(剛柔流)をやっていた学生時代の内、かなり強くなっていた3回生の後半に、基本の大切さを実感していた。曰く、
「スピードを増したいと思うなら基本稽古が最も大事である。他の動きを排した基本の技を純粋に如何にスピード速くやるかである。反動やリズムをつけるべきではないし、平行立ちに構えた足が床を蹴り、その力が腰の回転となり、そして回転が直線的な突きの速さを生む。その全く無駄のない理屈の世界をやることで、速くすることを覚えねばならない。」
「速くやろうとしなければ決して速くならない。正拳突きを100本、のらりくらりと突くよりは、20本、ひたすら速く突こうと思って突く方が、余程練習になる。」
フルコンをやり始めて、どうもこの辺がおろそかになっていた。フルコンは基本的にパワーであると思った為だ。打たれてもダメージを受けなければよいし、相手にダメージを与えるにはパワーある突き蹴りである、と。
最近、どうもそれではダメで、フルコンと言えども一瞬の受け返しをするならば、軸の安定、技の安定、そして技のスピードが必要であることは言うまでもない、と分かってきた。さらに、間合いを測り、相手の動きを察知する為には、「緊張感のある」基本稽古をしなければならない。基本稽古の内だからこそ、前に相対している敵を想定して、相手を本当に仕留める技が出せているかどうかを自問しなければならない。
そういうことを、再度、自覚し始めた。
基本技からちゃんと・・・・。
2011年6月10日金曜日
気力。あれば空手稽古するのか、養う為に稽古するのか
実はこの3週間ほど、どうも気力が湧かず、普段のトレーニングをサボりがちだった。昼トレは実施率3割、道場稽古はいつもの週末皆勤ではなく土日の内どちらかの5割程度の参加。仕事上懸案事項があるにはあったが、どうも1年に1,2回は気力が湧かず稽古に熱心でない、こんな時期がある。
何の為の空手か?と考えるのはそのようになった時である。
ただ今回は、考える前にどうにも身体が疲れ、トレーニングするよりも休息を、という感じになった。まあこれはやはり、仕事の懸案の方が大きくて落ち着いて考えるには昼休みがよく、考え疲れトレーニングする気力も湧かなかったということであろうね。あんまり認めたくはないことではあるが。
ここで一つ考えるべきことがある。結構根源的なこと。
本来、空手道は修行の道であり、もし仕事上の悩みや懸案があるならば、空手の修行をすることにより解決の糸口を見つけるべきものである。ところが、色々悩みつつも考えねばいけないから、空手のトレーニングを休み、またそうする内に疲れたから空手もしくはそれ用のトレーニングを休んでしまうのは何故なんだろう。
悩みの解決としての空手道。疲れたから休んでもよいのかの空手道。この二つに対して真面目に相対するいい機会を持てた、とは思う。
昨日は久しぶりに会社でサンドバッグ自主稽古を行った。準備体操や柔軟も入れたが、1時間半に渡り、2分1ラウンドのサンドバッグを延々としてやった。何ラウンドしたのか忘れた。今度はちゃんと数えてみよう。
久しぶりなので一つ一つの技の練習と確認をした。かなりなラウンド数になる。
順突き
逆突き
ワンツー左右
上段順突き+同じ手で中段フック
上段順突き+同じ手で下突き
ワンツー+フック
下突きのワンツー
中段回し蹴り
下段回し蹴り
膝蹴り
中段前蹴り
下段から中段回し蹴り
ワンツーから中段回し
ワンツーから中段回し、もしくはフックパンチ
スイッチしての左中段
というメニュー。だいたいにおいて各コンビネーションを30本以上はやろうとした。蹴りを入れる場合は左右30本を2分以内ではできず、2ラウンドに渡る場合がほとんどであった。従って、数えてはいないが20ラウンド以上はやった感じかね。
久しぶりにサンドバッグをやったので、身体の切れが今一つであることを自覚した。余分な力を使わずに脱力し、技のスピードを重視し、なおかつ当てた時の極めをしっかりとする、これがサンドバッグトレーニングで留意することである。単にヨイショと思い切り当てて、破壊力を試すだけだと技のスピードが衰えるし、力んだモーションになり実戦では通用しない。
少しでも速いスピード、そして当てた時に抉り込むようにする極め。それをやろうとすると結局フルパワーでサンドバッグを突き蹴りすることになるので、大変疲れる。そのように留意したとしてもサンドバッグにおいては、最初から最後まで上手い具合に脱力して3本目、4本目のコンビネーションにまでは行かないから、スピード、態勢、コンビネーションの連続性を重視したシャドウもそれなりの時間しなければならない。稽古の終わり頃、10分程度はシャドウに費やした。
シャドウをするとコンビネーションの発展を考えるので、サンドバッグとはまた違い意義がある。例えば前蹴りをし、同じように膝を上げるモーションで次には上段の三日月蹴りに持っていくパターンは、昨日のシャドウで発見した。当てたとしても軸を安定させること、それと純粋に三日月蹴りで破壊力を得る為の身体の軸と筋肉の使い方を、今度はサンドバッグで確認しなければならない。
さて、元々の話である気力が減退していたことであるが、昨日の久しぶりの自主稽古で回復方向にある。元々の疑問に改めて応えるならば、悩み・懸案は、空手稽古の中に解決の糸口があるということだろう。つまり、気力の涵養である。
気の練磨には、呼吸法だと宇城師範は言う。俺の場合、実利的と言うか、ともかくまだ強くなろうとする為の直接的な稽古としてサンドバッグをやり、それ以外をする時間が中々ない。三戦を20回やるのとサンドバッグを20ラウンドやるのでは、まだサンドバッグの方がやっている実感が伴う。呼吸法はそれに加えて、やれることならやると言う、まだ付録的な意義である。
昨日久しぶりにハードトレーニングして、何となく満足している俺が改めて言うことにゃ、物事の解決には気が必要であり、気を養うには空手の稽古であった、ということかな。
あえて問い詰めれば、そんなことは昔から分かっていたことであるが、何故に気力が出ないとして空手稽古をサボっていたのだろうか、ということ。ニワトリ卵の関係だね。
何の為の空手か?と考えるのはそのようになった時である。
ただ今回は、考える前にどうにも身体が疲れ、トレーニングするよりも休息を、という感じになった。まあこれはやはり、仕事の懸案の方が大きくて落ち着いて考えるには昼休みがよく、考え疲れトレーニングする気力も湧かなかったということであろうね。あんまり認めたくはないことではあるが。
ここで一つ考えるべきことがある。結構根源的なこと。
本来、空手道は修行の道であり、もし仕事上の悩みや懸案があるならば、空手の修行をすることにより解決の糸口を見つけるべきものである。ところが、色々悩みつつも考えねばいけないから、空手のトレーニングを休み、またそうする内に疲れたから空手もしくはそれ用のトレーニングを休んでしまうのは何故なんだろう。
悩みの解決としての空手道。疲れたから休んでもよいのかの空手道。この二つに対して真面目に相対するいい機会を持てた、とは思う。
昨日は久しぶりに会社でサンドバッグ自主稽古を行った。準備体操や柔軟も入れたが、1時間半に渡り、2分1ラウンドのサンドバッグを延々としてやった。何ラウンドしたのか忘れた。今度はちゃんと数えてみよう。
久しぶりなので一つ一つの技の練習と確認をした。かなりなラウンド数になる。
順突き
逆突き
ワンツー左右
上段順突き+同じ手で中段フック
上段順突き+同じ手で下突き
ワンツー+フック
下突きのワンツー
中段回し蹴り
下段回し蹴り
膝蹴り
中段前蹴り
下段から中段回し蹴り
ワンツーから中段回し
ワンツーから中段回し、もしくはフックパンチ
スイッチしての左中段
というメニュー。だいたいにおいて各コンビネーションを30本以上はやろうとした。蹴りを入れる場合は左右30本を2分以内ではできず、2ラウンドに渡る場合がほとんどであった。従って、数えてはいないが20ラウンド以上はやった感じかね。
久しぶりにサンドバッグをやったので、身体の切れが今一つであることを自覚した。余分な力を使わずに脱力し、技のスピードを重視し、なおかつ当てた時の極めをしっかりとする、これがサンドバッグトレーニングで留意することである。単にヨイショと思い切り当てて、破壊力を試すだけだと技のスピードが衰えるし、力んだモーションになり実戦では通用しない。
少しでも速いスピード、そして当てた時に抉り込むようにする極め。それをやろうとすると結局フルパワーでサンドバッグを突き蹴りすることになるので、大変疲れる。そのように留意したとしてもサンドバッグにおいては、最初から最後まで上手い具合に脱力して3本目、4本目のコンビネーションにまでは行かないから、スピード、態勢、コンビネーションの連続性を重視したシャドウもそれなりの時間しなければならない。稽古の終わり頃、10分程度はシャドウに費やした。
シャドウをするとコンビネーションの発展を考えるので、サンドバッグとはまた違い意義がある。例えば前蹴りをし、同じように膝を上げるモーションで次には上段の三日月蹴りに持っていくパターンは、昨日のシャドウで発見した。当てたとしても軸を安定させること、それと純粋に三日月蹴りで破壊力を得る為の身体の軸と筋肉の使い方を、今度はサンドバッグで確認しなければならない。
さて、元々の話である気力が減退していたことであるが、昨日の久しぶりの自主稽古で回復方向にある。元々の疑問に改めて応えるならば、悩み・懸案は、空手稽古の中に解決の糸口があるということだろう。つまり、気力の涵養である。
気の練磨には、呼吸法だと宇城師範は言う。俺の場合、実利的と言うか、ともかくまだ強くなろうとする為の直接的な稽古としてサンドバッグをやり、それ以外をする時間が中々ない。三戦を20回やるのとサンドバッグを20ラウンドやるのでは、まだサンドバッグの方がやっている実感が伴う。呼吸法はそれに加えて、やれることならやると言う、まだ付録的な意義である。
昨日久しぶりにハードトレーニングして、何となく満足している俺が改めて言うことにゃ、物事の解決には気が必要であり、気を養うには空手の稽古であった、ということかな。
あえて問い詰めれば、そんなことは昔から分かっていたことであるが、何故に気力が出ないとして空手稽古をサボっていたのだろうか、ということ。ニワトリ卵の関係だね。
2011年6月8日水曜日
一過性脳虚血発作 その二
さて、やっと家に着いた。ガレージを開け車を止めて降りた。10数歩歩いて家に入り、洗濯機の中に道着を入れた後、2階のリビングに行こうと階段に足をかけた。あれれ?何故か階段が登れない。左足は階段を踏むのだが、右足に力が入らずよろけて手すりにもたれてしまう。そのままずるずると倒れ込みそうだ。右手も力が入らず、階段の下で倒れ込んだ。何とか起き上がりまた昇ろうとするが同じこと。2,3度繰り返したが、ついに右手も手すりを持てなくなり、階段の下のホールに大の字に倒れこんでしまった。
何やらおかしい、と思うべきなんだろうが、脳みそもどうも朦朧としているんだろう。ただひたすら起き上がることしか意思できなかった。大の字の仰向けから左半身だけは起こせるが、右半身が動かず、何度も起き上がろうとしたが体を斜めに少し起こす程度にしかできなかった。
そうこうするうちに妻が下りてきて声をかけた。最初は何をしているのか不思議だったろう。大の字に寝て悶々と起き上がろうとしていてどうにもならない俺の風情を把握するや否や、息子に救急車を呼べと指示した。俺の表情はボーっとしていたと思う。ボーっとしたまま起きようとすることを繰り返していた。
妻も慌てたのか「110番!救急車」と息子に言った。息子そのまま110番回した後で、妻は間違いに気付き、電話を取りあげて119番をダイヤルした。その間、「パパをじっとさせていて」と息子に新たな指示。
俺の方はようやく起き上がろうとするのを諦め、右半身が効かないことを自覚し、寝たまま体をひねり左手で右手を掴んで持ち上げてみた。全く別の物体を持ち上げているようだった。
息子は俺の動きを止めようとして、さりとて恐いのか、あるいは汗だくの俺が気持ち悪いのか、失礼にも人差し指の先だけで俺の額を押さえて床に固定しようとしていた。
俺の方はもう観念。押さえられるままにじっとしていた。それから1分くらいだろうか、右手が動き出したのを実感した。体を起して床に座る態勢にまでできた。右足も動くようだ。立ち上がることもできた。
さて、救急車呼んだので、救急車が来るまで待っていないといけない。そのまま玄関のホールで座り込んで待っていた。
救急車の到着。妻からの説明、俺への事情聴取の後、担架に乗せられてそのまま病院へ。
もう既に自分の足で歩けるし脳みその朦朧とした所もなく、またベッドに横たえられたが普通の受け答えである。
医者はそれなりの問診と、血圧チェック、心電図チェックしたのかどうかは忘れたが、点滴をセットアップして、入院とあいなり病棟に運ばれた。
既に完全に回復していたので、それ以降の1週間の入院は時折の検査があるだけで退屈極まりないもんだった。
退院時の診断は、血栓もないし血液中コレステロールも正常値だし、運動により汗を一杯かいた結果の脱水により血液がドロドロと濃くなり、結果脳の血流が悪くなったということ。せいぜい言えばCT造影による脳の血管はとげとげしていて固そうだ、と。ついでに言えば、ビールは利尿作用があり、結局脱水効果であるし、昼寝したことも脱水である。人は寝ている時に意識しない汗で水分を出してしまうので。夜寝る前と朝起きた時の体重を比べると歴然として、朝起きた時の方が1K弱軽い。
そのように脱水に向けてすべてが重なった日であった。
この一過性脳虚血発作の前後で大きく変わった点は、空手稽古において無理ができなくなったことだ。かなり注意して計画的に水分補給をするようになったが、それでもぎりぎり持つか持たないまでの稽古はできなくなった。2分息上げの為のサンドバッグやキックミットトレーニングをしても、それくらいは大丈夫だが、次のラウンドに行く前に息を十分整えられるだけの休憩をとること。ヒーヒー言いつつ連続してやるのは止めよう、である。
すべてが重なって初めて起きたこととは言え、やはり注意せねばと思う。
今から一年前の話でした。
御同輩、倒れるまで根性出して練習すれば、昔は強くなったが、年をとった今は本当に倒れてしまうので、ご注意!である。
何やらおかしい、と思うべきなんだろうが、脳みそもどうも朦朧としているんだろう。ただひたすら起き上がることしか意思できなかった。大の字の仰向けから左半身だけは起こせるが、右半身が動かず、何度も起き上がろうとしたが体を斜めに少し起こす程度にしかできなかった。
そうこうするうちに妻が下りてきて声をかけた。最初は何をしているのか不思議だったろう。大の字に寝て悶々と起き上がろうとしていてどうにもならない俺の風情を把握するや否や、息子に救急車を呼べと指示した。俺の表情はボーっとしていたと思う。ボーっとしたまま起きようとすることを繰り返していた。
妻も慌てたのか「110番!救急車」と息子に言った。息子そのまま110番回した後で、妻は間違いに気付き、電話を取りあげて119番をダイヤルした。その間、「パパをじっとさせていて」と息子に新たな指示。
俺の方はようやく起き上がろうとするのを諦め、右半身が効かないことを自覚し、寝たまま体をひねり左手で右手を掴んで持ち上げてみた。全く別の物体を持ち上げているようだった。
息子は俺の動きを止めようとして、さりとて恐いのか、あるいは汗だくの俺が気持ち悪いのか、失礼にも人差し指の先だけで俺の額を押さえて床に固定しようとしていた。
俺の方はもう観念。押さえられるままにじっとしていた。それから1分くらいだろうか、右手が動き出したのを実感した。体を起して床に座る態勢にまでできた。右足も動くようだ。立ち上がることもできた。
さて、救急車呼んだので、救急車が来るまで待っていないといけない。そのまま玄関のホールで座り込んで待っていた。
救急車の到着。妻からの説明、俺への事情聴取の後、担架に乗せられてそのまま病院へ。
もう既に自分の足で歩けるし脳みその朦朧とした所もなく、またベッドに横たえられたが普通の受け答えである。
医者はそれなりの問診と、血圧チェック、心電図チェックしたのかどうかは忘れたが、点滴をセットアップして、入院とあいなり病棟に運ばれた。
既に完全に回復していたので、それ以降の1週間の入院は時折の検査があるだけで退屈極まりないもんだった。
退院時の診断は、血栓もないし血液中コレステロールも正常値だし、運動により汗を一杯かいた結果の脱水により血液がドロドロと濃くなり、結果脳の血流が悪くなったということ。せいぜい言えばCT造影による脳の血管はとげとげしていて固そうだ、と。ついでに言えば、ビールは利尿作用があり、結局脱水効果であるし、昼寝したことも脱水である。人は寝ている時に意識しない汗で水分を出してしまうので。夜寝る前と朝起きた時の体重を比べると歴然として、朝起きた時の方が1K弱軽い。
そのように脱水に向けてすべてが重なった日であった。
この一過性脳虚血発作の前後で大きく変わった点は、空手稽古において無理ができなくなったことだ。かなり注意して計画的に水分補給をするようになったが、それでもぎりぎり持つか持たないまでの稽古はできなくなった。2分息上げの為のサンドバッグやキックミットトレーニングをしても、それくらいは大丈夫だが、次のラウンドに行く前に息を十分整えられるだけの休憩をとること。ヒーヒー言いつつ連続してやるのは止めよう、である。
すべてが重なって初めて起きたこととは言え、やはり注意せねばと思う。
今から一年前の話でした。
御同輩、倒れるまで根性出して練習すれば、昔は強くなったが、年をとった今は本当に倒れてしまうので、ご注意!である。
2011年6月7日火曜日
一過性脳虚血発作 その一
俺は今52歳。50歳前後の御同輩、気をつかれよ、として書く。
今から1年ほど前、「一過性脳虚血発作」なるものを起こして倒れ、救急車で病院に運ばれそのまま1週間入院と言う羽目になった。倒れて数分で回復していたので、入院中は元気ピンピンしており、検査入院のような感じで、非常に退屈した。
一過性脳虚血発作と言うのは、脳梗塞の一過性みたいなもので、脳の血流が悪くなり、俺の場合は右半身が不随になった。倒れこんでからは2,3分で回復して右半身が動くようになった。これが長時間に渡ると脳梗塞となり、結果右半身は不随のままとなる。脳梗塞を起こす手前の大きな警告でもあり、一定期間大事を取らないと今度は本格的な脳梗塞を起こすことがあるらしい。
若い時は倒れるまで激しく練習すれば強くなっていくと思っていた。梶原一騎のスポ根漫画で育った俺の年代は皆そうだろう。「血と汗流し・・・♪」限界を超えて倒れるのである。そうすれば強くなれる。ところが年を取ると、本当に倒れて、はいそれーまーでーよ、の世界になることを思い知ってしまった。こりゃ笑い事だよね・・・、回復した今から思えば。
その日は土曜日、暑い日差しの中午前中は芝刈りをしていた。汗をダラダラ出しながら、ビールを飲みつつ。休みの日に昼間からビールを飲むと言うのは俺の最大の楽しみである。暑いし、芝刈りもやっているし、故にビールも旨い。夜の7時から空手稽古に道場に車を運転して行かねばならなかった。ビールは進んだが、酔いも醒まさねばならない。そこで芝刈りを終えてきれいになった庭で、酔い覚ましの空手自主トレを始めた。突きの移動、蹴りの移動、各々数往復。ガラスに映る自分の姿を見つつ、技がきれいに出ているかの確認。そんなこんなで、かなりみっちりと1時間位はやったと思う。暑い日だったからその間も汗がバンバン噴き出ていた。
ビールの酔いと自主トレの疲れで、休憩としてごろごろしていると眠たくなり、トローンと気持ちのよい午睡に入った。みっちり3時間以上の熟睡だ。起きた時は午後6時。7時からの道場稽古に出る為には、もう出発しなければいけない時間だった。
非常にのどが渇いていた。トレーニングして寝て起きた所なので身体も非常にけだるい。道場に行く途中、飲むヨーグルトを買って渇きを癒した。今から思えば、その時スポーツ飲料をごくごく飲んでいれば、倒れなかったかもしれない。しかしまあそれで、のどの渇きは無くなって、いつものように500mlのスポーツ飲料を道場前の自動販売機で買って持って行った。
道場稽古。外が暑かったのでエアコンが入っていた。ところがこのエアコン、大変効きが悪い。そんなに涼しくはならないし、大勢が練習し出すと、その熱気で室温も上がる。ところが何とかエアコンを効かそうとして窓を閉め切っているので、基本稽古が終わった後、俺は酸欠状態も感じたし、そもそも暑い。もう暑くてもよいからと片っぱしから窓を開けた。外も暑いが中は熱気でもっと暑くなっていた、おまけに締め切りの酸欠。
暑い中、いつもの稽古、型から約束組手、そしてスパーリングと一連をやった。いつものごとく汗かきの俺は汗だくだ。
稽古が終わり、道場でしばらく休憩の談笑をした後、車に向かい帰り道を運転した。何故かスピードが出る。今から思えば、右半身のコントロールが段々効かなくなり始めて、細かいアクセルコントロールができなくなっていたということだ。右折すべき交差点に入り、ブレーキを踏んで止めているつもりがまだ車が止まらず動き出そうとしていたので、こりゃ危ないと思い、ギアをパーキングに入れて止めた。
さて、直進の車が無くなった時にパーキングからドライブにギアを入れようとするのだが、ギヤが動かない。全く不思議だった。これも今から思えば、右足でブレーキを踏んでいるつもりが踏んでいなかったことが原因だ。ブレーキを踏んでおかないとギアはドライブには入らない。
信号を2,3回パスしたと思う。俺の車は右折レーンに入って止ったまま。本人はなんでギヤがドライブに入らないのかと頭をひねり、ギア相手に格闘していた。後ろにつけていた車は、始めのうちは待っているが、信号がまた青信号になり、直進の車がいなくなって右折ができるのに動かない車を見て、故障車だと思い、諦めて直進レーンに車線変更しながら行くか、右折レーンを大廻りして俺の前を通って行った。クラクションは一切ならなかったから、皆紳士だったんだねぇ。
やっとこさドライブに入ったのでソロソロと右折して普通に走る。普通に走ることはまだできたようだ。信号で止まり左折することもできていた。相変わらず汗がダラダラと出、のども渇いていたのでコンビニに入った。脳の制御が効かなくなると発汗コントロールも効かなくなるそうだ。その時から家で倒れるまで、倒れてもまだ汗はダラダラ出ていた。
さて、車を降り普通に歩いてコンビニに入り、アイスコーヒーを注文しようとした。そのコンビニは、ちゃんとした豆で挽いたアイスコーヒーを用意してあり、セルフサービスで入れる。
言葉が出ない!この時が一番びっくりした。「アイスコーヒーをください」のセリフが出ないのである。レジの前に立ち、何か言いたそうな眼をしているが、何もしゃべれなさそうだから、レジの人は障害者だと思ったであろう。こちらは声が出ないことが不思議感覚、一生懸命声を出そうとするんだがひとつも出ない。レジの人と相対したのは30秒くらいだろうか、手真似でアイスコーヒーを汲む位置を示し、やっとそれで通じた。その間はマジな眼をして口をパクパクしていたことだろう。金を払いアイスコーヒーを汲む。
口がきけないことになったならば、普通はひどいショックを覚えると思う。この時の俺は、既に脳みそもが朦朧の段階に入っていたのだろう。不思議に思うがさして深刻とも感じず、アイスコーヒーを持って車に戻った。
車に戻るとまた同じパターンである。どうしてもドライブに入らない。まだ買って2年しか経っていない車だけれど、こりゃ壊れたな、と思った。2,3分の格闘の後、何とかドライブに入り、壊れたと思っている車だから非常に慎重に運転し始めた。帰路の途中で試しに声を出してみれば、声は出る。では、話せなかったあれはいったい何だったんだ、と考えつつ、声が出ることに安堵を覚えていた。
左脳の脳虚血発作の場合、言語中枢が働かず、失語症に陥る場合があると言うことは後で知った。
本日はここまで。
今から1年ほど前、「一過性脳虚血発作」なるものを起こして倒れ、救急車で病院に運ばれそのまま1週間入院と言う羽目になった。倒れて数分で回復していたので、入院中は元気ピンピンしており、検査入院のような感じで、非常に退屈した。
一過性脳虚血発作と言うのは、脳梗塞の一過性みたいなもので、脳の血流が悪くなり、俺の場合は右半身が不随になった。倒れこんでからは2,3分で回復して右半身が動くようになった。これが長時間に渡ると脳梗塞となり、結果右半身は不随のままとなる。脳梗塞を起こす手前の大きな警告でもあり、一定期間大事を取らないと今度は本格的な脳梗塞を起こすことがあるらしい。
若い時は倒れるまで激しく練習すれば強くなっていくと思っていた。梶原一騎のスポ根漫画で育った俺の年代は皆そうだろう。「血と汗流し・・・♪」限界を超えて倒れるのである。そうすれば強くなれる。ところが年を取ると、本当に倒れて、はいそれーまーでーよ、の世界になることを思い知ってしまった。こりゃ笑い事だよね・・・、回復した今から思えば。
その日は土曜日、暑い日差しの中午前中は芝刈りをしていた。汗をダラダラ出しながら、ビールを飲みつつ。休みの日に昼間からビールを飲むと言うのは俺の最大の楽しみである。暑いし、芝刈りもやっているし、故にビールも旨い。夜の7時から空手稽古に道場に車を運転して行かねばならなかった。ビールは進んだが、酔いも醒まさねばならない。そこで芝刈りを終えてきれいになった庭で、酔い覚ましの空手自主トレを始めた。突きの移動、蹴りの移動、各々数往復。ガラスに映る自分の姿を見つつ、技がきれいに出ているかの確認。そんなこんなで、かなりみっちりと1時間位はやったと思う。暑い日だったからその間も汗がバンバン噴き出ていた。
ビールの酔いと自主トレの疲れで、休憩としてごろごろしていると眠たくなり、トローンと気持ちのよい午睡に入った。みっちり3時間以上の熟睡だ。起きた時は午後6時。7時からの道場稽古に出る為には、もう出発しなければいけない時間だった。
非常にのどが渇いていた。トレーニングして寝て起きた所なので身体も非常にけだるい。道場に行く途中、飲むヨーグルトを買って渇きを癒した。今から思えば、その時スポーツ飲料をごくごく飲んでいれば、倒れなかったかもしれない。しかしまあそれで、のどの渇きは無くなって、いつものように500mlのスポーツ飲料を道場前の自動販売機で買って持って行った。
道場稽古。外が暑かったのでエアコンが入っていた。ところがこのエアコン、大変効きが悪い。そんなに涼しくはならないし、大勢が練習し出すと、その熱気で室温も上がる。ところが何とかエアコンを効かそうとして窓を閉め切っているので、基本稽古が終わった後、俺は酸欠状態も感じたし、そもそも暑い。もう暑くてもよいからと片っぱしから窓を開けた。外も暑いが中は熱気でもっと暑くなっていた、おまけに締め切りの酸欠。
暑い中、いつもの稽古、型から約束組手、そしてスパーリングと一連をやった。いつものごとく汗かきの俺は汗だくだ。
稽古が終わり、道場でしばらく休憩の談笑をした後、車に向かい帰り道を運転した。何故かスピードが出る。今から思えば、右半身のコントロールが段々効かなくなり始めて、細かいアクセルコントロールができなくなっていたということだ。右折すべき交差点に入り、ブレーキを踏んで止めているつもりがまだ車が止まらず動き出そうとしていたので、こりゃ危ないと思い、ギアをパーキングに入れて止めた。
さて、直進の車が無くなった時にパーキングからドライブにギアを入れようとするのだが、ギヤが動かない。全く不思議だった。これも今から思えば、右足でブレーキを踏んでいるつもりが踏んでいなかったことが原因だ。ブレーキを踏んでおかないとギアはドライブには入らない。
信号を2,3回パスしたと思う。俺の車は右折レーンに入って止ったまま。本人はなんでギヤがドライブに入らないのかと頭をひねり、ギア相手に格闘していた。後ろにつけていた車は、始めのうちは待っているが、信号がまた青信号になり、直進の車がいなくなって右折ができるのに動かない車を見て、故障車だと思い、諦めて直進レーンに車線変更しながら行くか、右折レーンを大廻りして俺の前を通って行った。クラクションは一切ならなかったから、皆紳士だったんだねぇ。
やっとこさドライブに入ったのでソロソロと右折して普通に走る。普通に走ることはまだできたようだ。信号で止まり左折することもできていた。相変わらず汗がダラダラと出、のども渇いていたのでコンビニに入った。脳の制御が効かなくなると発汗コントロールも効かなくなるそうだ。その時から家で倒れるまで、倒れてもまだ汗はダラダラ出ていた。
さて、車を降り普通に歩いてコンビニに入り、アイスコーヒーを注文しようとした。そのコンビニは、ちゃんとした豆で挽いたアイスコーヒーを用意してあり、セルフサービスで入れる。
言葉が出ない!この時が一番びっくりした。「アイスコーヒーをください」のセリフが出ないのである。レジの前に立ち、何か言いたそうな眼をしているが、何もしゃべれなさそうだから、レジの人は障害者だと思ったであろう。こちらは声が出ないことが不思議感覚、一生懸命声を出そうとするんだがひとつも出ない。レジの人と相対したのは30秒くらいだろうか、手真似でアイスコーヒーを汲む位置を示し、やっとそれで通じた。その間はマジな眼をして口をパクパクしていたことだろう。金を払いアイスコーヒーを汲む。
口がきけないことになったならば、普通はひどいショックを覚えると思う。この時の俺は、既に脳みそもが朦朧の段階に入っていたのだろう。不思議に思うがさして深刻とも感じず、アイスコーヒーを持って車に戻った。
車に戻るとまた同じパターンである。どうしてもドライブに入らない。まだ買って2年しか経っていない車だけれど、こりゃ壊れたな、と思った。2,3分の格闘の後、何とかドライブに入り、壊れたと思っている車だから非常に慎重に運転し始めた。帰路の途中で試しに声を出してみれば、声は出る。では、話せなかったあれはいったい何だったんだ、と考えつつ、声が出ることに安堵を覚えていた。
左脳の脳虚血発作の場合、言語中枢が働かず、失語症に陥る場合があると言うことは後で知った。
本日はここまで。
2011年6月5日日曜日
久しぶりの道場稽古
本日は2週間ぶりに道場稽古に参加した。俺が参加できるのは土日しかなく、先週はサボってしまったということ。どうも最近、昼トレも気が進まず休みがちだし、気合がのっていない。まあ、結果として周期的に来ることがあるモノだ。何となく気を弱くしてしまう時期。
フルコン黒帯を取ってもう2年近く経ち、目的喪失のようなものがジワリと来ているのかもしれない。このブログでは、型を修めようとか色々言ってはいるし、何の為の空手かを考えたことも数度。それはそうなんだが、仕事で色々難しいことがあると、昼トレをせずに考えなければいけないし、休みの日もアレコレ考えつつ、ビールを昼間から飲んでいると、車を運転して行けなくなる。
これは本末転倒であるが、実際に起きているからしょーがないと言うか、なんとかせねばイカン。自分を囲む状況が厳しい時ほど空手に接して、己を修めることが肝要であるはずなんだが。
まあ、それでも昨日は昼間からビール飲んでサボったが、今日は行かねばイカンとして何とか行った。行ってみると、汗を流し、頑張っている中年の同輩の姿にも接し、稽古してよかったとなる。
本日の稽古は、基本から型、約束組手からスパーリング、最後に多少の補強という典型的なメニューであった。俺は指導員なので、型の稽古からはずれて、指導する側にまわった。
指導したことは、多くはないがポイントは付いていると思う。
型に関しては、蹴りの引き足を確実に引くこと。蹴りっぱなしでそのまま落とし歩を進めるのではなく、きちんと膝のかい込までのポジションに引かなければならない。それが蹴りをコントロールすることであるし、そうやっていると切れが出てくる。
約束組手は、中学生の白帯相手に指導。
受けは、手首を柔らかくひねり、最小動作で相手の攻撃の軌道を変えること。はねのけるのではなく、円の動きで受ける。そうすると受けられた側も痛くない。最小動作で受ける為、次の攻撃がただちに可能である。
蹴りに対する受けは、それに加えて間合いコントロールを重視する。その場にいると当たる蹴りも、後屈になる感じで数センチ腰を引けば当たらない。それでも当たるようならば、少しフットワークで下がる。いずれにしても強い蹴りを強いままの状態で受けることはできない。当たらない間合いにして、伸びきったところを小さく払う。
崩し技の約束組手もあるが、崩し技は引くことによって崩すことが肝要。相手の横に入り、相手を振り回すことではない。そんなことをするとこちらも力がいるし、振り回すと態勢も乱れる。相手の横に入って体を密着し、相手が正面におっとっととなるくらい、相手の正面の方向に向けて掴んで引く。それで相手のバランスを崩しながら、自分は回転し、崩した相手の首を下に押さえつけながら廻る。崩されてバランスを失った所をさらに首を下に押さえつけられて、相手からみると振り回されるから、完全にバランスを失い、上手く極まるとそれだけで相手はこけそうになる。廻った後、まだ首根っこを押さえているので、それに向けて膝蹴りをし、その為相手の顔面が上に上がった所を、今度は上からの肘打ちで後頭部をたたき落とすというような、殺し技の約束組手である。
中学生相手にそのような解説をした。少年部から上がってきた子供たちなので、既に結構うまい。ただ形だけでやるのではなく、技の意味を知ることが大切だとしての、解説だった。
約束組手を自由組手の中で、本当は使いたいのだが、俺も上手くいかぬ。サバキの体系を使いこなせないと、相変わらずパワーに依存する組手になる。パワーは年を取ると衰えるのが分かり切っている。サバキを組手で使うのは難しいね。どうすればよいのであろうか。前に書いた文章では、万回繰り返すことだ、とした。それしかないのかね・・・。
パワーを鍛えるのは難しくはない。ウェイトをせっせとやり、サンドバッグをフルパワーで蹴る。ただ組手が上手くなるこ為には、がよく分からぬ。まったく、どうすればよいのだろうか。少年部から来た中学生達は、たいてい組手が上手い。本当に感心する。小さい頃から場数を踏み、星の数ほどスパーリングをやって来た為であろう。少年部の稽古が終わった後、母親たちの指導により、何回となくスパーリングをやらされていた。こういうのも毎日の努力と言うものだろう。
フルコン黒帯を取ってもう2年近く経ち、目的喪失のようなものがジワリと来ているのかもしれない。このブログでは、型を修めようとか色々言ってはいるし、何の為の空手かを考えたことも数度。それはそうなんだが、仕事で色々難しいことがあると、昼トレをせずに考えなければいけないし、休みの日もアレコレ考えつつ、ビールを昼間から飲んでいると、車を運転して行けなくなる。
これは本末転倒であるが、実際に起きているからしょーがないと言うか、なんとかせねばイカン。自分を囲む状況が厳しい時ほど空手に接して、己を修めることが肝要であるはずなんだが。
まあ、それでも昨日は昼間からビール飲んでサボったが、今日は行かねばイカンとして何とか行った。行ってみると、汗を流し、頑張っている中年の同輩の姿にも接し、稽古してよかったとなる。
本日の稽古は、基本から型、約束組手からスパーリング、最後に多少の補強という典型的なメニューであった。俺は指導員なので、型の稽古からはずれて、指導する側にまわった。
指導したことは、多くはないがポイントは付いていると思う。
型に関しては、蹴りの引き足を確実に引くこと。蹴りっぱなしでそのまま落とし歩を進めるのではなく、きちんと膝のかい込までのポジションに引かなければならない。それが蹴りをコントロールすることであるし、そうやっていると切れが出てくる。
約束組手は、中学生の白帯相手に指導。
受けは、手首を柔らかくひねり、最小動作で相手の攻撃の軌道を変えること。はねのけるのではなく、円の動きで受ける。そうすると受けられた側も痛くない。最小動作で受ける為、次の攻撃がただちに可能である。
蹴りに対する受けは、それに加えて間合いコントロールを重視する。その場にいると当たる蹴りも、後屈になる感じで数センチ腰を引けば当たらない。それでも当たるようならば、少しフットワークで下がる。いずれにしても強い蹴りを強いままの状態で受けることはできない。当たらない間合いにして、伸びきったところを小さく払う。
崩し技の約束組手もあるが、崩し技は引くことによって崩すことが肝要。相手の横に入り、相手を振り回すことではない。そんなことをするとこちらも力がいるし、振り回すと態勢も乱れる。相手の横に入って体を密着し、相手が正面におっとっととなるくらい、相手の正面の方向に向けて掴んで引く。それで相手のバランスを崩しながら、自分は回転し、崩した相手の首を下に押さえつけながら廻る。崩されてバランスを失った所をさらに首を下に押さえつけられて、相手からみると振り回されるから、完全にバランスを失い、上手く極まるとそれだけで相手はこけそうになる。廻った後、まだ首根っこを押さえているので、それに向けて膝蹴りをし、その為相手の顔面が上に上がった所を、今度は上からの肘打ちで後頭部をたたき落とすというような、殺し技の約束組手である。
中学生相手にそのような解説をした。少年部から上がってきた子供たちなので、既に結構うまい。ただ形だけでやるのではなく、技の意味を知ることが大切だとしての、解説だった。
約束組手を自由組手の中で、本当は使いたいのだが、俺も上手くいかぬ。サバキの体系を使いこなせないと、相変わらずパワーに依存する組手になる。パワーは年を取ると衰えるのが分かり切っている。サバキを組手で使うのは難しいね。どうすればよいのであろうか。前に書いた文章では、万回繰り返すことだ、とした。それしかないのかね・・・。
パワーを鍛えるのは難しくはない。ウェイトをせっせとやり、サンドバッグをフルパワーで蹴る。ただ組手が上手くなるこ為には、がよく分からぬ。まったく、どうすればよいのだろうか。少年部から来た中学生達は、たいてい組手が上手い。本当に感心する。小さい頃から場数を踏み、星の数ほどスパーリングをやって来た為であろう。少年部の稽古が終わった後、母親たちの指導により、何回となくスパーリングをやらされていた。こういうのも毎日の努力と言うものだろう。
頑張れ、という言葉
「頑張れ」という言葉がある。東北大震災の被災者には、その言葉を言うなという論調がある。彼の方々は肉親を失い、既に悲嘆のどん底にあり、現在の大変不自由な避難生活に耐え、既に十分過ぎるほど頑張っているのである。それを直接の被害を受けていない第3者が軽々しく言うべきではない、と。
そういう論であると思う。被害の枠外にいる我々は、そういう言葉ではなく、行動において援助し支援するべきではあろう。しかしながら、言葉としてはどういう言葉を出せばよいのか。「頑張れ」はダメなのではあろうか。
私はそう言われたいと思う。「頑張れ」という言葉ではなく、「頑張れ」という言葉を発する人の顔や姿を感じて、そう言われたいと思う。口だけで言っている人がいれば、そんなことはすぐ分かる。発する言葉ではなく、そこにある心情が励みになるのである。
ある不運、不幸な境遇にある人に励ましの言葉を向ける時、自分がその通りの境遇にならない限り、真に言葉をかけられない、と思ったことはかつて何度でもある。平穏な生活を送っている自分は、不運な彼に同情する。同情を伝えることには多少の意義もあろうが、さらに、力になることを伝えたいと考える。そして彼自身に対しては、やはり「頑張れ」と言うのである。そう励まさざるを得ない。彼自身が力強く復帰しない限りは何にもならないから。
「頑張れ」という言葉は、少なくとも相手の顔を見て言う言葉なのであろう。不特定の多数ではなく、きちんと特定できる個人または小グループに向けて。
そういう論であると思う。被害の枠外にいる我々は、そういう言葉ではなく、行動において援助し支援するべきではあろう。しかしながら、言葉としてはどういう言葉を出せばよいのか。「頑張れ」はダメなのではあろうか。
私はそう言われたいと思う。「頑張れ」という言葉ではなく、「頑張れ」という言葉を発する人の顔や姿を感じて、そう言われたいと思う。口だけで言っている人がいれば、そんなことはすぐ分かる。発する言葉ではなく、そこにある心情が励みになるのである。
ある不運、不幸な境遇にある人に励ましの言葉を向ける時、自分がその通りの境遇にならない限り、真に言葉をかけられない、と思ったことはかつて何度でもある。平穏な生活を送っている自分は、不運な彼に同情する。同情を伝えることには多少の意義もあろうが、さらに、力になることを伝えたいと考える。そして彼自身に対しては、やはり「頑張れ」と言うのである。そう励まさざるを得ない。彼自身が力強く復帰しない限りは何にもならないから。
「頑張れ」という言葉は、少なくとも相手の顔を見て言う言葉なのであろう。不特定の多数ではなく、きちんと特定できる個人または小グループに向けて。
2011年6月4日土曜日
歯が折れた話
小生のよくない所。3週間ぶりに道場稽古に出て、しかも久しぶりに組手稽古に参加したのでついつい、ほぼ思い切りやってしまい、色帯の後輩を痛めてしまった。組手と言ってもローキックのみの限定組手であり、相手もきちっと受けているのでまあよかろうととして、それ程力の加減をせずに普通にスピードとパワーを入れたローキックをしていた所、終わってから彼は膝を痛めたように座り込んだ。申し訳なし。大丈夫との返答を得て多少は安心したが、限定組手とは言え相手が受けているから大丈夫とは思わずに、手加減をしなければならない。
その前にパンチのみの限定組手を別の相手とやったが、その場合は多少加減をしていた。その時の相手のガタイより一回り大きい小生は、パンチで押し込もうとすれば、まあいつでもできるので、相手の出方を見つつそれなりにやっていた。
ただ、ローキックオンリーの限定組手となると特に工夫する所も少なく、最初は相手の技を受けてはいたが、その内ポンポンと出す小生のローキックに相手は防戦一方となった。ただし相手もそれなりにうまいのでちゃんと受けている。また体重もほぼ同じだ。だからまあよいとして力をより入れて蹴るようになった所、終わってみれば、である。小生の脛は相手の膝より固かったようだ。
そう言えば、最近はあまり脛を鍛えていない。通りがかりの鉄骨を蹴ってもいないし、サンドバッグ稽古も少なくなった。またやっとかんとな。脛の蹴り味が最もよいのは道路の標識である。適度に少ししなってくれてよい。ただ人目がない所でやらないと、当然変な奴として警戒されるだろうな。
さて、脛を鍛えることをサボってはいるものの、既に相手の膝よりも固い。
と、話していても面白くもなんともないので、今日はもう少し書こう。
小生の歯が折れた時の話。こちらが痛い目に合った時の話である。
昔、大学空手道部で、寸止め(伝統派)空手をやっていた頃のこと。
一本ずつ二人の人間が折ったので、前歯は2本欠けた。それ以前に小学生時代に遊んでいてこけた時に一本折ったので、計3本の前歯がない。今は前歯全域をブリッジにして、その欠落した3本を賄っている。欠落した3本をブリッジにて歯があるようにする為に、その両脇3本、左1本、右2本を細く削った後、上から計6本の歯のブリッジをかぶせている。一度このブリッジを新調する為に取った時には前歯全体が無いようで、上唇が奥に引っ込み縦皺の出た老人の唇になり、フガフガしゃべる羽目になった。
小生の歯を折った奴は、二人とも空手が弱く経験年数も初心者に毛の生えた程度だった。いずれも小生がよけてくれると思ったのか、いやいやそれ以前に何かせねばやられると察知して思わず出した上段突きであったのだろう。余裕を以て組手していることはつまり、油断していることであり、まともに入ってしまった。伝統派の寸止め空手であるから止めないといけないのだが、しょーがない。相手はどうせ小生に受けられるかよけられるかだから、追いつめられて放った。
ありきたりの言葉だが、油断大敵だ。
仕事での怪我も交通事故も、慣れたことをやっていて余裕をかましている時に起きやすい。そういうもんだというのが改めてよく分かる。自覚的に注意を払っている時には事故は起きない。空手でも強い奴と緊張感を以て闘うときは、寸止め空手の場合はきちんと互いに止めるし、例え当たったとしても、相手は止める途中であり、またこちらも少しかわしているから大きな怪我はしない。唇を切るくらいだ。
まあ、そういうもんだ。
大学2年の時に1本歯を折られ、それから入れ歯で過ごし、現役を引退した時にもうよかろうとブリッジを作った。その後OBとして新人に毛の生えた相手の相手をしたときに、ブリッジごと3本目の歯を折られた。ブリッジを作った為に折れた歯の隣の歯は細く削ってかぶしているもんね。その細い歯が折れた。
通算3本目の歯が折れ、同時にブリッジが壊された時はもうがっくりだ。今から30年前、15万くらいしたブリッジが壊されて、なおかつ歯抜け顔でしばらく暮さねばならなかった。痛みよりも経済的なショックが大きかったなぁ。
小生が今フルコン空手をやっているのは、もうブリッジを壊されたくないし、また新たに歯を折られたくないからである。上段の突きがないフルコンは、寸止めだとしても上段突きがある伝統派よりは、はるかに歯を折られる危険性は少ない。破壊力のあるフルコンの蹴りや突きが当たってしまえばしょうがないが、その確率は伝統派空手よりはかなり低い。
格闘としてどちらが強いだろうかと言えば、両方をやった自分としては、フルコン空手に軍配を上げる。ただ一瞬の上段突きで気絶してしまえば、そうするだけの力量のある伝統派の空手家がいれば、それはそれで非常に強い。グローブをつけてはいるが顔面パンチを許しているムエタイやキックボクシングの方がもっと強いとは言えるが、もう、こちとら歯を折られることはコリゴリであり、顔面パンチに関しては御免したい。
30年前の大学空手道部で、紅顔の美少年は歯が折れ鼻も少し陥没してしまった。鼻が曲がり鼻中隔矯正手術をやり削られた為にドボンと低くなった話はまたその内に。空手で多くのことを学び得たが、外見のよさ(?)は失ってしまった。学生空手を引退してからしばらくして差し引きどうだったかを考えたこともあった。空手で根性と格闘術は身につけた。失ったものは紅顔と、調子のよさと協調性みたいなものである。
前にも書いたが「小乗的」な空手家の俺にとって、勝つか負けるかの勝負が舞台であり、そこには協調性みたいなものはない。そういう感じで会社生活をおくったら、必死で仕事すればするほど上司と喧嘩してしまい、ひどい時期があった。
本日の話。若く血気盛んで真面目に空手に打ち込んで歯を2本失った。油断している時に失った。本当にきちんと気合を入れて勝負するなら、例え何かを失ったとしても、そのことが逆に教訓になり己の成長の糧となる事はよく分かっている。
だから、油断大敵!
油断は反省にはなるんだけど、得るものは無し。
その前にパンチのみの限定組手を別の相手とやったが、その場合は多少加減をしていた。その時の相手のガタイより一回り大きい小生は、パンチで押し込もうとすれば、まあいつでもできるので、相手の出方を見つつそれなりにやっていた。
ただ、ローキックオンリーの限定組手となると特に工夫する所も少なく、最初は相手の技を受けてはいたが、その内ポンポンと出す小生のローキックに相手は防戦一方となった。ただし相手もそれなりにうまいのでちゃんと受けている。また体重もほぼ同じだ。だからまあよいとして力をより入れて蹴るようになった所、終わってみれば、である。小生の脛は相手の膝より固かったようだ。
そう言えば、最近はあまり脛を鍛えていない。通りがかりの鉄骨を蹴ってもいないし、サンドバッグ稽古も少なくなった。またやっとかんとな。脛の蹴り味が最もよいのは道路の標識である。適度に少ししなってくれてよい。ただ人目がない所でやらないと、当然変な奴として警戒されるだろうな。
さて、脛を鍛えることをサボってはいるものの、既に相手の膝よりも固い。
と、話していても面白くもなんともないので、今日はもう少し書こう。
小生の歯が折れた時の話。こちらが痛い目に合った時の話である。
昔、大学空手道部で、寸止め(伝統派)空手をやっていた頃のこと。
一本ずつ二人の人間が折ったので、前歯は2本欠けた。それ以前に小学生時代に遊んでいてこけた時に一本折ったので、計3本の前歯がない。今は前歯全域をブリッジにして、その欠落した3本を賄っている。欠落した3本をブリッジにて歯があるようにする為に、その両脇3本、左1本、右2本を細く削った後、上から計6本の歯のブリッジをかぶせている。一度このブリッジを新調する為に取った時には前歯全体が無いようで、上唇が奥に引っ込み縦皺の出た老人の唇になり、フガフガしゃべる羽目になった。
小生の歯を折った奴は、二人とも空手が弱く経験年数も初心者に毛の生えた程度だった。いずれも小生がよけてくれると思ったのか、いやいやそれ以前に何かせねばやられると察知して思わず出した上段突きであったのだろう。余裕を以て組手していることはつまり、油断していることであり、まともに入ってしまった。伝統派の寸止め空手であるから止めないといけないのだが、しょーがない。相手はどうせ小生に受けられるかよけられるかだから、追いつめられて放った。
ありきたりの言葉だが、油断大敵だ。
仕事での怪我も交通事故も、慣れたことをやっていて余裕をかましている時に起きやすい。そういうもんだというのが改めてよく分かる。自覚的に注意を払っている時には事故は起きない。空手でも強い奴と緊張感を以て闘うときは、寸止め空手の場合はきちんと互いに止めるし、例え当たったとしても、相手は止める途中であり、またこちらも少しかわしているから大きな怪我はしない。唇を切るくらいだ。
まあ、そういうもんだ。
大学2年の時に1本歯を折られ、それから入れ歯で過ごし、現役を引退した時にもうよかろうとブリッジを作った。その後OBとして新人に毛の生えた相手の相手をしたときに、ブリッジごと3本目の歯を折られた。ブリッジを作った為に折れた歯の隣の歯は細く削ってかぶしているもんね。その細い歯が折れた。
通算3本目の歯が折れ、同時にブリッジが壊された時はもうがっくりだ。今から30年前、15万くらいしたブリッジが壊されて、なおかつ歯抜け顔でしばらく暮さねばならなかった。痛みよりも経済的なショックが大きかったなぁ。
小生が今フルコン空手をやっているのは、もうブリッジを壊されたくないし、また新たに歯を折られたくないからである。上段の突きがないフルコンは、寸止めだとしても上段突きがある伝統派よりは、はるかに歯を折られる危険性は少ない。破壊力のあるフルコンの蹴りや突きが当たってしまえばしょうがないが、その確率は伝統派空手よりはかなり低い。
格闘としてどちらが強いだろうかと言えば、両方をやった自分としては、フルコン空手に軍配を上げる。ただ一瞬の上段突きで気絶してしまえば、そうするだけの力量のある伝統派の空手家がいれば、それはそれで非常に強い。グローブをつけてはいるが顔面パンチを許しているムエタイやキックボクシングの方がもっと強いとは言えるが、もう、こちとら歯を折られることはコリゴリであり、顔面パンチに関しては御免したい。
30年前の大学空手道部で、紅顔の美少年は歯が折れ鼻も少し陥没してしまった。鼻が曲がり鼻中隔矯正手術をやり削られた為にドボンと低くなった話はまたその内に。空手で多くのことを学び得たが、外見のよさ(?)は失ってしまった。学生空手を引退してからしばらくして差し引きどうだったかを考えたこともあった。空手で根性と格闘術は身につけた。失ったものは紅顔と、調子のよさと協調性みたいなものである。
前にも書いたが「小乗的」な空手家の俺にとって、勝つか負けるかの勝負が舞台であり、そこには協調性みたいなものはない。そういう感じで会社生活をおくったら、必死で仕事すればするほど上司と喧嘩してしまい、ひどい時期があった。
本日の話。若く血気盛んで真面目に空手に打ち込んで歯を2本失った。油断している時に失った。本当にきちんと気合を入れて勝負するなら、例え何かを失ったとしても、そのことが逆に教訓になり己の成長の糧となる事はよく分かっている。
だから、油断大敵!
油断は反省にはなるんだけど、得るものは無し。
2011年5月17日火曜日
中年のつぶやき→大仰なこと
会社にて。節電でエアコンを止めると室温が上がり、暑い。なにやらボーっとしてくる。今時のオフィスは風通しもないし、PCは至る所にあり、これが温度を上げる。会議室では人いきれと持ちこんだノートPCで、頭脳はボー二つだ。
社内食堂。ラーメンを汗だくですすって食べる。それまでにトレーニングして体が発汗し、なおかつ熱い食い物だからもう大変だ。滝のように汗が流れる。昼飯前にトレーニングするとたいてい食欲がなくなり、手軽に食べられるものとしてラーメンを選ぶのが大半。定食はヘビーに見えてどうもイカン。特に食欲もないのだが、食べておかねばならないとして熱意と喜びのない食事を取る。面倒くさいからたいていラーメンとなる。あるいはうどん、そば。
トレーニングしても、このように炭水化物の食事ばかりだと筋肉にとってよくはなく、筋肉がつかないばかりか、単に太るようになる。もう成長の為にカロリーを必要とする若い体ではない。今も腹筋は100回は平気で出来るが、腹周りには脂肪が随分付いている。正しく言えば、腹筋の力と腹周りの脂肪の量は関係なく、要するに成長(最早ないが)と活動に余った炭水化物のエネルギーが脂肪と化して付いている訳だ。
禁煙して口寂しく、毎日ガムとチョコレートを食べるようになって体脂肪率は20弱から23強まで増えてしまった。トレーニングの量はさほど変化なし。体重が82Kから85Kまで増えたのは、ひとえに脂肪か・・・。でも負荷は増えているから筋肉も増えていると思うんだが、腹周りもデブっとなってしまった。まあ、これから夏を迎えて汗っかきの俺が大いに汗をかき、夏バテして痩せる・・・と言うか体が絞れることを期待しよう。あー、汗みどろになるのは不愉快なんだが、しょーがないね、ウェイトと言えどもトレーニングだから夏の暑い中では汗が噴出する。
ちゃんと言っておくならば、世間的な中年太りとは吾輩、全く異なり、182cm、85kで筋肉のついた堂々たる体躯である。ただちょっと腹周りに脂肪がつき、腹筋がかろうじて6つに割れているのが脂肪の柔らかい皮膚を通して感じ取れると言うか、照明の具合によりそう見えるという程度だ。肩や胸は筋肉が出ているから、問題は腹と背中だね、脂肪が付いているのは。背中も懸垂で鍛えているんだが、この間鏡に映すと、割合丸みを帯びているように見えた。ただ何と言っても腹だ、まったく。腹筋が軽く100回できるのに、贅肉が厚い。
会社では、このように毎日昼休みにトレーニングをしている。週末は、やっと時間ができ、道場に通っている。週日は連日残業であり、道場には行けない。
さて、俺は何のために日々せっせとトレーニングして、空手をしているかである。トレーニングの目的は空手に強くなる為。では、なんで空手を続けているのか。
土日の休みの日は、道場に行って稽古することが最も大事なことであり、それ以外の時間はダラダラと休息よろしく、昼寝をしたりビデオを見たり、時々まともな読書をし、また多くはWebサーフィンで何やら面白いことはないかと探る時間である。考えてみれば学生時代、あまりに稽古が厳しく、道場に行く気力を奮い立たせる為に、昼から授業をさぼり、空手バカ一代や明日のジョーを何度となく喫茶店で読んでいた。空手をやる為に、他の時間があった。このことが学生時代も今も変わらない。空手をする為に他の時間を、やる気を奮い立たせる為にとか、稽古に備えて体を休めることに用いるということだ。
本当におそまきながら最近やっと分かったことがある。
空手をやることが最終目的ではないと言うこと。空手は己の心身の修練である。プロの格闘家になり、闘いに勝つことが生活を維持し、また人生の大きな目標になるのなら話は多少変わってくるが、俺の場合はもうこんな年では無理だ。確かに学生時代は試合で勝つことは目標であった。ただよく考えればそれは人生の目的ではない。
しかるに、週末は道場に行くことのみが・・・無論稽古は大変だし、そこに行く気力が必要だが・・・目的化していないか? 空手は己の人生の修練の道であり、本来ならば空手をきちっと修めているから、「あの人の考え方はりっぱだし筋も通り、行動も正しい」的なことになるべきではないのか?
俺は空手をやることを目的化していないか? 土日に道場に行くことの為に、他の時間をダラダラ、休憩と称して無駄に過ごしていると言わざるを得ない。空手が心身を鍛え律するとするならば、空手をやっていない時間の行動の方がよほど大事ではないだろうか。
と、最近・・・この年になって・・・・やっと思い至った。空手を修めると言うことを、ずっと非常に大事なことだと考えてきた。空手を通して成長してきたことも、きっと多くある。ただ、空手をすること、修めること自体が人生の目的ではない。
俺の同輩に、今でも空手を続けている立派な男がいる。学生時代、学生は空手と勉学のみをすればよし、と言いきって、そうした。司法試験に受かり、責任のある地位に就き、大きな仕事を成しながら空手も熱心に続けている。卒業してから型も多く覚え、演武会で見事に見せている。
俺も彼も空手を「愛する」。俺と彼の違いは、俺はあまりにも空手を目的化した。詰まる所空手をひたむきにやることでもう満足してしまった。そうではなく空手は、やることにより、己の人生を深め、豊かにするものである。そういう風に捉えて、その果実を作らなければならない。
空手は、空手道というように、道であり、どれだけやっても極意にたどり着けない何らかのものである。道を歩むという考えは大事である。それは格闘の道であり、己を修める道であり、世に何らか善きことを成す道であり、色々だ。道であるということ、空手をやることが目的ではないということ。空手を通して歩む道を空手道と言うのであろう。
まず、今週末からは、道場稽古も行くが、それ以外の時間をダラダラ休息に充てるのを止め、女房の手伝いをしよう。掃除・料理だね。そこからだ。善きこと?を成しつつ空手もする。空手道を歩むからには、空手の技の修練やトレーニングだけではない。
社内食堂。ラーメンを汗だくですすって食べる。それまでにトレーニングして体が発汗し、なおかつ熱い食い物だからもう大変だ。滝のように汗が流れる。昼飯前にトレーニングするとたいてい食欲がなくなり、手軽に食べられるものとしてラーメンを選ぶのが大半。定食はヘビーに見えてどうもイカン。特に食欲もないのだが、食べておかねばならないとして熱意と喜びのない食事を取る。面倒くさいからたいていラーメンとなる。あるいはうどん、そば。
トレーニングしても、このように炭水化物の食事ばかりだと筋肉にとってよくはなく、筋肉がつかないばかりか、単に太るようになる。もう成長の為にカロリーを必要とする若い体ではない。今も腹筋は100回は平気で出来るが、腹周りには脂肪が随分付いている。正しく言えば、腹筋の力と腹周りの脂肪の量は関係なく、要するに成長(最早ないが)と活動に余った炭水化物のエネルギーが脂肪と化して付いている訳だ。
禁煙して口寂しく、毎日ガムとチョコレートを食べるようになって体脂肪率は20弱から23強まで増えてしまった。トレーニングの量はさほど変化なし。体重が82Kから85Kまで増えたのは、ひとえに脂肪か・・・。でも負荷は増えているから筋肉も増えていると思うんだが、腹周りもデブっとなってしまった。まあ、これから夏を迎えて汗っかきの俺が大いに汗をかき、夏バテして痩せる・・・と言うか体が絞れることを期待しよう。あー、汗みどろになるのは不愉快なんだが、しょーがないね、ウェイトと言えどもトレーニングだから夏の暑い中では汗が噴出する。
ちゃんと言っておくならば、世間的な中年太りとは吾輩、全く異なり、182cm、85kで筋肉のついた堂々たる体躯である。ただちょっと腹周りに脂肪がつき、腹筋がかろうじて6つに割れているのが脂肪の柔らかい皮膚を通して感じ取れると言うか、照明の具合によりそう見えるという程度だ。肩や胸は筋肉が出ているから、問題は腹と背中だね、脂肪が付いているのは。背中も懸垂で鍛えているんだが、この間鏡に映すと、割合丸みを帯びているように見えた。ただ何と言っても腹だ、まったく。腹筋が軽く100回できるのに、贅肉が厚い。
会社では、このように毎日昼休みにトレーニングをしている。週末は、やっと時間ができ、道場に通っている。週日は連日残業であり、道場には行けない。
さて、俺は何のために日々せっせとトレーニングして、空手をしているかである。トレーニングの目的は空手に強くなる為。では、なんで空手を続けているのか。
土日の休みの日は、道場に行って稽古することが最も大事なことであり、それ以外の時間はダラダラと休息よろしく、昼寝をしたりビデオを見たり、時々まともな読書をし、また多くはWebサーフィンで何やら面白いことはないかと探る時間である。考えてみれば学生時代、あまりに稽古が厳しく、道場に行く気力を奮い立たせる為に、昼から授業をさぼり、空手バカ一代や明日のジョーを何度となく喫茶店で読んでいた。空手をやる為に、他の時間があった。このことが学生時代も今も変わらない。空手をする為に他の時間を、やる気を奮い立たせる為にとか、稽古に備えて体を休めることに用いるということだ。
本当におそまきながら最近やっと分かったことがある。
空手をやることが最終目的ではないと言うこと。空手は己の心身の修練である。プロの格闘家になり、闘いに勝つことが生活を維持し、また人生の大きな目標になるのなら話は多少変わってくるが、俺の場合はもうこんな年では無理だ。確かに学生時代は試合で勝つことは目標であった。ただよく考えればそれは人生の目的ではない。
しかるに、週末は道場に行くことのみが・・・無論稽古は大変だし、そこに行く気力が必要だが・・・目的化していないか? 空手は己の人生の修練の道であり、本来ならば空手をきちっと修めているから、「あの人の考え方はりっぱだし筋も通り、行動も正しい」的なことになるべきではないのか?
俺は空手をやることを目的化していないか? 土日に道場に行くことの為に、他の時間をダラダラ、休憩と称して無駄に過ごしていると言わざるを得ない。空手が心身を鍛え律するとするならば、空手をやっていない時間の行動の方がよほど大事ではないだろうか。
と、最近・・・この年になって・・・・やっと思い至った。空手を修めると言うことを、ずっと非常に大事なことだと考えてきた。空手を通して成長してきたことも、きっと多くある。ただ、空手をすること、修めること自体が人生の目的ではない。
俺の同輩に、今でも空手を続けている立派な男がいる。学生時代、学生は空手と勉学のみをすればよし、と言いきって、そうした。司法試験に受かり、責任のある地位に就き、大きな仕事を成しながら空手も熱心に続けている。卒業してから型も多く覚え、演武会で見事に見せている。
俺も彼も空手を「愛する」。俺と彼の違いは、俺はあまりにも空手を目的化した。詰まる所空手をひたむきにやることでもう満足してしまった。そうではなく空手は、やることにより、己の人生を深め、豊かにするものである。そういう風に捉えて、その果実を作らなければならない。
空手は、空手道というように、道であり、どれだけやっても極意にたどり着けない何らかのものである。道を歩むという考えは大事である。それは格闘の道であり、己を修める道であり、世に何らか善きことを成す道であり、色々だ。道であるということ、空手をやることが目的ではないということ。空手を通して歩む道を空手道と言うのであろう。
まず、今週末からは、道場稽古も行くが、それ以外の時間をダラダラ休息に充てるのを止め、女房の手伝いをしよう。掃除・料理だね。そこからだ。善きこと?を成しつつ空手もする。空手道を歩むからには、空手の技の修練やトレーニングだけではない。
2011年5月8日日曜日
白髪染めから、型へ?
久しぶりに風呂でスクワット150回。スクワットはかなり大変なので中々やる気がせず、せめて一日おきとしたいが、実際には3日に1回弱であろう。150回続けてはできないので、50回ずつ3セットの計である。
習慣としてスクワットをやり始めて数カ月が経つが、中々一息に100回はできない。ゆっくりとならばできるんだが、1秒に1回という程度のスピードだと、息が上がるのと筋肉が消耗しきるのとほぼ同時に来る。今の所70回で一休みして残る30回をこなすパターンが多い。数か月経ったがあまり進歩がないね。
本日は、髪の毛を染めたので、それを洗い流しながら、50回2セット。体を洗いつつさらに50回。この「ながら」スクワットと言うのも、スクワットだけに集中すると大変しんどく、単調な動きにさらに滅入るので、風呂場で髪や体を洗いながらやることが多くなった、ということ。
髪の毛を染めると言っても白髪染めである。もともと若い時から白髪が多く、もう52歳だからほとんど白髪だと思うが、時折染めているので実際どこまで白髪になっているのかは不明である。生え際はほとんど白髪。40代中盤の頃、道場の鏡の前で稽古し出した時、頭の白いオヤジがエッチラオッチラやっているのが、健気に思え、そう思うことが情けなくなったので、染め始めた。
本日は、かなりゆるかったが、道場稽古もやりスクワットもしたのでまあまあよしとする。
時折、まるで周期的に考え込んでしまうんだが、何の為の空手か?何の為にこうやって日々鍛えようとしているのか?またぞろ、この問いが出る。このブログでも今まで2回書いた。同じ問いを発し、同じ答えを得る。まだ分からぬ。
少し伝統型を学ぼうと思い始めている。何の為の空手かの答えの一つは、動禅としてである。空なる動き、動きの中の空とは? 空なる動きの中に胆力を練る。そう書くと禅坊主から喝だろうけれど。禅とはなにも求めずただあるがままに座すことだろうから。
とは言え、俺としては空手を通じて何らかを求める。動禅と言えば、やはり型であろう。
平安と言う型があるが、あれがどうにも馴染めぬというか、覚える気がしない。糸洲先生が体育として考えた型であることを知っているが為に、格闘のエッセンスとして在る型では無いような気がしてならぬ。ではナイファンチ?いずれ会得すべし。難しそうな型だなあ。冨名腰先生が空手を始めた時に3年間、この型のみをやり続けることを課せられたそうだ。動きの解釈が難しそうである。
習慣としてスクワットをやり始めて数カ月が経つが、中々一息に100回はできない。ゆっくりとならばできるんだが、1秒に1回という程度のスピードだと、息が上がるのと筋肉が消耗しきるのとほぼ同時に来る。今の所70回で一休みして残る30回をこなすパターンが多い。数か月経ったがあまり進歩がないね。
本日は、髪の毛を染めたので、それを洗い流しながら、50回2セット。体を洗いつつさらに50回。この「ながら」スクワットと言うのも、スクワットだけに集中すると大変しんどく、単調な動きにさらに滅入るので、風呂場で髪や体を洗いながらやることが多くなった、ということ。
髪の毛を染めると言っても白髪染めである。もともと若い時から白髪が多く、もう52歳だからほとんど白髪だと思うが、時折染めているので実際どこまで白髪になっているのかは不明である。生え際はほとんど白髪。40代中盤の頃、道場の鏡の前で稽古し出した時、頭の白いオヤジがエッチラオッチラやっているのが、健気に思え、そう思うことが情けなくなったので、染め始めた。
本日は、かなりゆるかったが、道場稽古もやりスクワットもしたのでまあまあよしとする。
時折、まるで周期的に考え込んでしまうんだが、何の為の空手か?何の為にこうやって日々鍛えようとしているのか?またぞろ、この問いが出る。このブログでも今まで2回書いた。同じ問いを発し、同じ答えを得る。まだ分からぬ。
少し伝統型を学ぼうと思い始めている。何の為の空手かの答えの一つは、動禅としてである。空なる動き、動きの中の空とは? 空なる動きの中に胆力を練る。そう書くと禅坊主から喝だろうけれど。禅とはなにも求めずただあるがままに座すことだろうから。
とは言え、俺としては空手を通じて何らかを求める。動禅と言えば、やはり型であろう。
平安と言う型があるが、あれがどうにも馴染めぬというか、覚える気がしない。糸洲先生が体育として考えた型であることを知っているが為に、格闘のエッセンスとして在る型では無いような気がしてならぬ。ではナイファンチ?いずれ会得すべし。難しそうな型だなあ。冨名腰先生が空手を始めた時に3年間、この型のみをやり続けることを課せられたそうだ。動きの解釈が難しそうである。
昔話、合宿
30年経っても覚えている光景がある。全関西学生選手権の準々決勝、準決勝、3位決定戦の3つの試合。さらにその前年のベスト16での試合、また遡って20歳の時の対外試合の初陣。そうこう思い出そうとすると、大学1年の夏合宿で初めて組手をやった時の風景等、どんどん情景が思い浮かんでくる。
大学を卒業し就職して30年が経つが、その間に覚えている光景よりも何たる数の多さ、鮮明さであろうか、だ。
若い感受性の中で、もっとも激しい肉体の鍛錬と、恐怖を伴う闘いの日々、その間を通じて同輩、先輩、後輩や好敵手との交わり、心身活動の濃い時期であった。それは自ら生んだ訳ではなく、その世界に入る選択をして、入るとそうなった。
大学1年の夏合宿。ヘロヘロになる練習。筋肉痛が酷くなり、痛いところを庇うとまた別の所が筋肉痛になり、もう全身痛くない所はないという状態だった。それでも動き出して汗をかきだすと多少は痛みが和らいだ。練習に臨んでいる人間の精神力なのか、それとも筋肉の温度が上がると痛みが物理的に減るのかよく分からぬ。合宿は4年間を通していつもそうだった。
あの・・・、朝起きて動き出した時の全身筋肉痛、なんでここまでして動かなければいけないのか、苦痛であり、拷問のように感じていた。少しの休憩を挟んで午前の本格練習、それから昼寝をして夕方の練習に臨む時等、その都度体が冷えているから同様の全身筋肉痛があった。その度合いは1回生のころとさして変わらなかったようには思う。ただ、精神と言うか神経が、それが普通であると言っていた為、上級生になるに従って鈍感になって行った。まあ、そういうもんだ、と。
夏合宿で初めて組手をした。それまで苦しい練習を支えあってと言うか、弱音や痛みを言い合うことで互いに耐えてきた同輩と、今度はいきなり闘う羽目になった。これは不条理である。同志が敵となる。最初は皆、組手には素人だから、まあ変なもんだ。恐そうに技を出してはすぐ下がったり、やられるまえにやろうとして、しゃにむに手数を出して押して行ったり。個人個人の性格が出る。
結果、脛の細いほうの骨を骨折した奴、顔面に当たって鼻の骨が折れた奴、各1名が出た。今なら大慌てであろうが、当時は・・・、誰も慌てない。上級生は何らか考えたことだろうが、1回生の我々は自分のことで精一杯であり、大して心配しなかったように記憶している。脛の細いほうの骨を骨折した奴は合宿から戻って医者に行って初めてそう分かった。かなり痛かったであろうが、我慢していたのであろう。鼻が折れた奴も、折れたのは最終日であり、その日に合宿先近くの医者に行ったが、応急措置として、鼻を覆う大きなガーゼをして戻ってきただけだった。その後合宿打ち上げコンパに彼は参加して芸を披露していた。
残念ながら彼らは夏合宿を最後に空手道部を辞めてしまった。実際負傷してみれば、重く考えさせることがあるのだろう。30年以上前だが今でも彼らの顔を覚えている。野蛮と言うか、怪我することは武道には当たり前の付き物としていた時代感覚だった。
体を苛め抜くように鍛えたあの日々。激しければ激しいほど、辛ければ辛いほど強くなる気がしていた若い時代である。
大学を卒業し就職して30年が経つが、その間に覚えている光景よりも何たる数の多さ、鮮明さであろうか、だ。
若い感受性の中で、もっとも激しい肉体の鍛錬と、恐怖を伴う闘いの日々、その間を通じて同輩、先輩、後輩や好敵手との交わり、心身活動の濃い時期であった。それは自ら生んだ訳ではなく、その世界に入る選択をして、入るとそうなった。
大学1年の夏合宿。ヘロヘロになる練習。筋肉痛が酷くなり、痛いところを庇うとまた別の所が筋肉痛になり、もう全身痛くない所はないという状態だった。それでも動き出して汗をかきだすと多少は痛みが和らいだ。練習に臨んでいる人間の精神力なのか、それとも筋肉の温度が上がると痛みが物理的に減るのかよく分からぬ。合宿は4年間を通していつもそうだった。
あの・・・、朝起きて動き出した時の全身筋肉痛、なんでここまでして動かなければいけないのか、苦痛であり、拷問のように感じていた。少しの休憩を挟んで午前の本格練習、それから昼寝をして夕方の練習に臨む時等、その都度体が冷えているから同様の全身筋肉痛があった。その度合いは1回生のころとさして変わらなかったようには思う。ただ、精神と言うか神経が、それが普通であると言っていた為、上級生になるに従って鈍感になって行った。まあ、そういうもんだ、と。
夏合宿で初めて組手をした。それまで苦しい練習を支えあってと言うか、弱音や痛みを言い合うことで互いに耐えてきた同輩と、今度はいきなり闘う羽目になった。これは不条理である。同志が敵となる。最初は皆、組手には素人だから、まあ変なもんだ。恐そうに技を出してはすぐ下がったり、やられるまえにやろうとして、しゃにむに手数を出して押して行ったり。個人個人の性格が出る。
結果、脛の細いほうの骨を骨折した奴、顔面に当たって鼻の骨が折れた奴、各1名が出た。今なら大慌てであろうが、当時は・・・、誰も慌てない。上級生は何らか考えたことだろうが、1回生の我々は自分のことで精一杯であり、大して心配しなかったように記憶している。脛の細いほうの骨を骨折した奴は合宿から戻って医者に行って初めてそう分かった。かなり痛かったであろうが、我慢していたのであろう。鼻が折れた奴も、折れたのは最終日であり、その日に合宿先近くの医者に行ったが、応急措置として、鼻を覆う大きなガーゼをして戻ってきただけだった。その後合宿打ち上げコンパに彼は参加して芸を披露していた。
残念ながら彼らは夏合宿を最後に空手道部を辞めてしまった。実際負傷してみれば、重く考えさせることがあるのだろう。30年以上前だが今でも彼らの顔を覚えている。野蛮と言うか、怪我することは武道には当たり前の付き物としていた時代感覚だった。
体を苛め抜くように鍛えたあの日々。激しければ激しいほど、辛ければ辛いほど強くなる気がしていた若い時代である。
懐かしの場所にて
田舎に帰省し、久しぶりに大学の空手道部の練習に参加した。OBになってから何度か参加はしたが、指導することが中心だった。今回は指導は抜きにしてフルに学生と同じメニューをこなそうと最初から考えており、どこまで体が持つのか試すことが実は楽しみであった。文字通り練習に参加したということであり、そういう意味では30年ぶりの体験である。
52歳のオヤジが20歳前後の若人と2時間半、同じ練習をこなした。基本稽古の所、蹴りの回数が多く、1度ばかり息切れがしてついていけない所があったが、それ以外は最後の補強に至るまで同じことをやった。まあ俺もたいしたもんだと、とりあえずは誇ることにしよう。
一方でこの程度の練習であるのならば、若かりし頃の俺はなぜあれ程消耗していたのか、と考えてしまう。練習は非常に辛いという記憶が濃く、道場に行くのが非常にいやであった。
現代の練習と30年以上前の練習の大きな違いは、移動の有る無しであろう。あの当時の延々と続いた移動稽古は本当に苦しかった。広い武道場にて、四股立ち順突きと逆突きの各2報復で計4往復。前屈も同様。猫足立ち前蹴り2往復に送り足による蹴り2往復。30分以上みっちり移動稽古をやっていた。腰が少しでも高いと先輩から怒られ、また自分がその立場にたつと同じように怒った。汗をダラダラ流し、腰を落とした下半身はぶるぶると震え、それでもさらに腰を落とせと言われる。顔は苦しさで歪み、もはや泣きそう。我慢の限界というものを常時味わっていた。
あの移動稽古は一体何だったのだろうか? 現役諸氏のフットワークや型の披露を見ても十分安定しているし、形になっていると思う。延々と苦しい移動がなくても空手の技は伸びると言うことであろうか。
現在通っているフルコン道場でも基本の移動は短い。そもそも道場がせまい為前屈ならば3歩足を送るのが精一杯であり、即廻れとなる。そんな稽古でも若い道場生は十分下半身が安定している上手い技を出せる。うーんやっぱり考えるね、俺の青春の、あの過酷な移動稽古は意味があったのだろうか?
移動稽古は下半身の鍛錬であると言えるが、そもそも空手の立ち方そのものである。猫足で構えて蹴りを放ち、前屈で突きを出す。四股立ちで相手の技を受けて返す。この立ち方そのものが空手の闘いの中に使われない限りは、単なる下半身の鍛錬にしかならない。そして今や試合でこれらの立ち方が正確に使われることはない。空手の型はすべてこれらの立ち方で構成されている。三戦立ち、後屈立ち、結び立ち等も加えて。つまり型の動きを実戦で使えない限りは、これらの立ち方の意味は伝統の中に形骸としてある「型」にしかないことになる。
あえて「型」を実戦の形骸と述べた。素直な疑問は型の動きが組手の闘いの中になぜ出てこないのだろうか、ということだ。伝統派からフルコンに至るまで通算10年以上やっている俺にしても、特に不思議に思わず、「型」と「組手」を別物として端から捉えている。だいたい型によくある裏拳打ちをやっても組手試合では有効打としてとらないではないか。
「型」の動きと「実戦」あるいは「組手」は、いずれあらためて考えたい。
現在の組手では、フットワークを用いたボクシングスタイルの立ち方(フルコン)や、前後に少し広めにとり重心をほぼ中央にした伝統派空手の組手構えとなり、上記の空手伝統の立ち方はまず用いられない。従ってわが青春の移動稽古は下半身の鍛錬にのみあったようだ、なんともはや。
・・・・・・・・
我が空手道部の現在の練習に占める割合の最も大きいのは、かかり稽古であった。4人くらいが、キックミットを持って立っている中を、残りの者は列を成し、順突きでミットを突いていく。列を移りながらひとしきり順突きをやった後は、逆突き、中段蹴り、上段蹴りと技を変え同様にする。
単発でやるからには破壊力第一である。余計な力を入れずにスピードと極めを重視して、突きにしろ蹴りにしろ突き刺すようにしなければいけない。当てた時に最も破壊力が出るようになっているかどうか、チェックしながら何本もやる。
次にミットを置いて、構えた相手に対して連続技のかかり稽古。この場合、伝統派は寸止めしないといけないので注意が必要だ。普段フルコンをやっている俺は細心の注意を払った。
俺は学生時代に歯を2本折り、鼻を曲げている。相手の上段が止らなかった。その後、歯は3度作りなおしたのでのべ数十万かかっているし、鼻に関してはクランクになった通気路の為、鼻中隔矯正手術をしても慢性鼻炎で片側が常に詰まっている。今フルコンをやっているのは、上段突きありの伝統派の方が確率的に危険であるから避けたということもある。もう歯のブリッジを作りかえるのは嫌だし、鼻は骨を削っているのでさらに曲がり陥没しやすいので、顔面パンチはご免だ。
かかり稽古に戻る。
技については昔のようなスピードはなかったことだろう。昔、自分で鏡に映して技を点検していたが、自分でも見えないようなスピードで突けた頃があった。蹴りも小さく足を折りたたんで非常に速く突き刺すように出す蹴りができていた。
今回やってみて、中段の回し蹴りや前蹴りを止めるには止められるが、その後の引き足を早くするところまでは考えがまわらなかった。まあ、止めただけでやんわりと引いていた為、試合では取ってくれそうにない技になっていただろうな。伝統派空手では、突きも蹴りもスパッと繰り出しスパッと引いて残心を取ることが肝要。切れ味が大切だ。伸ばせば切れていること。これはフルコンでも取り入れるべき点であり、普段意識して身につける必要がある。
1,2パンチから左上段回し蹴りや右上段回し蹴りの連続技も試した。一つ一つの技の破壊力はあるとは思うが、切れ味を出す速さが足りない。連続技の間隔を短くし、速い動きの中で、出す技がそれ以上遥かに速くなければならない。それは単に手による突きの速さではなく、体全体の無駄のない動きを合算した速さである。ゆっくりと移動していると次に繰り出す技のスピードも鈍りがちになってしまう。速い移動と体の回転、そして速い技を出そうとする心構えが大切である。これはフルコン組手の際にも俺の足りない所だ。移動がスローモーだから次の技も大きくスローモーになりがちだ。力を抜くことはスローモーにすることではない。動きと技は速いんだが、最後の極めを意識的にはずすことが、力を抜いたスパーリングだ。逆に言えば極めた時には相手を倒せなければならない。
技と動きの「切れ味」をキーワードとして常に頭に置くこと。
最後に腹筋100回、背筋100回、拳立て60回の補強をした。若い頃には決してなかったんだが、腹筋100回だと80回くらいから非常に腰が凝ったようになり鈍痛を覚える。腹筋自体はまだまだOK。なるべく背中を丸めて腹筋のみを使うようにしているのだが、もうこれは年のせいでしょうがないのであろう。従って自主トレでは回数が比較的少なくても鍛えられるV字腹筋をよくやる。腰が凝る前に腹筋が消耗してよく鍛えられる。
30年ぶりの大学での練習。文字通り血と汗を流した、かつてと同じ道場にて。かつての先輩、同輩、後輩たちの顔が浮かぶ。皆もういい年のおっさんだろうが、当時のままの若さにて鮮明に思い出せる。俺の人生においてこれほど強烈な記憶の一群を残している場所はない。
これからの若い現役諸君の健闘を祈る。闘いは試合だけではなく、人生の諸局面に在り、勝つこともあれば負けることもある。勝って謙虚に前を見、負けて学ぶことを積み重ねることだ。
52歳のオヤジが20歳前後の若人と2時間半、同じ練習をこなした。基本稽古の所、蹴りの回数が多く、1度ばかり息切れがしてついていけない所があったが、それ以外は最後の補強に至るまで同じことをやった。まあ俺もたいしたもんだと、とりあえずは誇ることにしよう。
一方でこの程度の練習であるのならば、若かりし頃の俺はなぜあれ程消耗していたのか、と考えてしまう。練習は非常に辛いという記憶が濃く、道場に行くのが非常にいやであった。
現代の練習と30年以上前の練習の大きな違いは、移動の有る無しであろう。あの当時の延々と続いた移動稽古は本当に苦しかった。広い武道場にて、四股立ち順突きと逆突きの各2報復で計4往復。前屈も同様。猫足立ち前蹴り2往復に送り足による蹴り2往復。30分以上みっちり移動稽古をやっていた。腰が少しでも高いと先輩から怒られ、また自分がその立場にたつと同じように怒った。汗をダラダラ流し、腰を落とした下半身はぶるぶると震え、それでもさらに腰を落とせと言われる。顔は苦しさで歪み、もはや泣きそう。我慢の限界というものを常時味わっていた。
あの移動稽古は一体何だったのだろうか? 現役諸氏のフットワークや型の披露を見ても十分安定しているし、形になっていると思う。延々と苦しい移動がなくても空手の技は伸びると言うことであろうか。
現在通っているフルコン道場でも基本の移動は短い。そもそも道場がせまい為前屈ならば3歩足を送るのが精一杯であり、即廻れとなる。そんな稽古でも若い道場生は十分下半身が安定している上手い技を出せる。うーんやっぱり考えるね、俺の青春の、あの過酷な移動稽古は意味があったのだろうか?
移動稽古は下半身の鍛錬であると言えるが、そもそも空手の立ち方そのものである。猫足で構えて蹴りを放ち、前屈で突きを出す。四股立ちで相手の技を受けて返す。この立ち方そのものが空手の闘いの中に使われない限りは、単なる下半身の鍛錬にしかならない。そして今や試合でこれらの立ち方が正確に使われることはない。空手の型はすべてこれらの立ち方で構成されている。三戦立ち、後屈立ち、結び立ち等も加えて。つまり型の動きを実戦で使えない限りは、これらの立ち方の意味は伝統の中に形骸としてある「型」にしかないことになる。
あえて「型」を実戦の形骸と述べた。素直な疑問は型の動きが組手の闘いの中になぜ出てこないのだろうか、ということだ。伝統派からフルコンに至るまで通算10年以上やっている俺にしても、特に不思議に思わず、「型」と「組手」を別物として端から捉えている。だいたい型によくある裏拳打ちをやっても組手試合では有効打としてとらないではないか。
「型」の動きと「実戦」あるいは「組手」は、いずれあらためて考えたい。
現在の組手では、フットワークを用いたボクシングスタイルの立ち方(フルコン)や、前後に少し広めにとり重心をほぼ中央にした伝統派空手の組手構えとなり、上記の空手伝統の立ち方はまず用いられない。従ってわが青春の移動稽古は下半身の鍛錬にのみあったようだ、なんともはや。
・・・・・・・・
我が空手道部の現在の練習に占める割合の最も大きいのは、かかり稽古であった。4人くらいが、キックミットを持って立っている中を、残りの者は列を成し、順突きでミットを突いていく。列を移りながらひとしきり順突きをやった後は、逆突き、中段蹴り、上段蹴りと技を変え同様にする。
単発でやるからには破壊力第一である。余計な力を入れずにスピードと極めを重視して、突きにしろ蹴りにしろ突き刺すようにしなければいけない。当てた時に最も破壊力が出るようになっているかどうか、チェックしながら何本もやる。
次にミットを置いて、構えた相手に対して連続技のかかり稽古。この場合、伝統派は寸止めしないといけないので注意が必要だ。普段フルコンをやっている俺は細心の注意を払った。
俺は学生時代に歯を2本折り、鼻を曲げている。相手の上段が止らなかった。その後、歯は3度作りなおしたのでのべ数十万かかっているし、鼻に関してはクランクになった通気路の為、鼻中隔矯正手術をしても慢性鼻炎で片側が常に詰まっている。今フルコンをやっているのは、上段突きありの伝統派の方が確率的に危険であるから避けたということもある。もう歯のブリッジを作りかえるのは嫌だし、鼻は骨を削っているのでさらに曲がり陥没しやすいので、顔面パンチはご免だ。
かかり稽古に戻る。
技については昔のようなスピードはなかったことだろう。昔、自分で鏡に映して技を点検していたが、自分でも見えないようなスピードで突けた頃があった。蹴りも小さく足を折りたたんで非常に速く突き刺すように出す蹴りができていた。
今回やってみて、中段の回し蹴りや前蹴りを止めるには止められるが、その後の引き足を早くするところまでは考えがまわらなかった。まあ、止めただけでやんわりと引いていた為、試合では取ってくれそうにない技になっていただろうな。伝統派空手では、突きも蹴りもスパッと繰り出しスパッと引いて残心を取ることが肝要。切れ味が大切だ。伸ばせば切れていること。これはフルコンでも取り入れるべき点であり、普段意識して身につける必要がある。
1,2パンチから左上段回し蹴りや右上段回し蹴りの連続技も試した。一つ一つの技の破壊力はあるとは思うが、切れ味を出す速さが足りない。連続技の間隔を短くし、速い動きの中で、出す技がそれ以上遥かに速くなければならない。それは単に手による突きの速さではなく、体全体の無駄のない動きを合算した速さである。ゆっくりと移動していると次に繰り出す技のスピードも鈍りがちになってしまう。速い移動と体の回転、そして速い技を出そうとする心構えが大切である。これはフルコン組手の際にも俺の足りない所だ。移動がスローモーだから次の技も大きくスローモーになりがちだ。力を抜くことはスローモーにすることではない。動きと技は速いんだが、最後の極めを意識的にはずすことが、力を抜いたスパーリングだ。逆に言えば極めた時には相手を倒せなければならない。
技と動きの「切れ味」をキーワードとして常に頭に置くこと。
最後に腹筋100回、背筋100回、拳立て60回の補強をした。若い頃には決してなかったんだが、腹筋100回だと80回くらいから非常に腰が凝ったようになり鈍痛を覚える。腹筋自体はまだまだOK。なるべく背中を丸めて腹筋のみを使うようにしているのだが、もうこれは年のせいでしょうがないのであろう。従って自主トレでは回数が比較的少なくても鍛えられるV字腹筋をよくやる。腰が凝る前に腹筋が消耗してよく鍛えられる。
30年ぶりの大学での練習。文字通り血と汗を流した、かつてと同じ道場にて。かつての先輩、同輩、後輩たちの顔が浮かぶ。皆もういい年のおっさんだろうが、当時のままの若さにて鮮明に思い出せる。俺の人生においてこれほど強烈な記憶の一群を残している場所はない。
これからの若い現役諸君の健闘を祈る。闘いは試合だけではなく、人生の諸局面に在り、勝つこともあれば負けることもある。勝って謙虚に前を見、負けて学ぶことを積み重ねることだ。
2011年4月26日火曜日
道場が使えず退屈
東北大震災以降、会社の道場のある建物が使用禁止になり、しばらく会社ではサンドバッグを蹴っていない。地震で少し損傷した部分は修理が終わったのになぜ今だ使用禁止かどうかは、どうも大変お役所的な総務の判断であり、納得がいかないようなしょうがないような諦めの気持ちである。
建物が直っているのに使わせない理由の一つに、計画停電があった。近所が停電しているにも関わらず、会社が煌々と電気を灯していてはまずかろう、と。計画停電が終わった後は、レクレーション活動の自粛の一環としてある。ただねー、日常活動としてやっているクラブ活動を自粛することに意義があるのだろうか。プロ野球やサッカーも始まったではないか。
会社活動の再開に管理部門があまりに忙しくて、一旦禁止をした後では、クラブ活動の再開を議論する時間も取れずに、あるいはそういう動機がなくて意思決定が後回しにされていると言うのが実際のところであろう。勝手に施設を使わせてくれればよいのだが、それを決めるに、何人もの意思決定者を念のために通らねばならないお役所的なことがあるのであるかもしれない。
そろそろ痺れを切らして、「使用禁止」の張り紙を無視して入り、練習をし出しそうな気がする。
本日も、会社のジムで昼トレを行う。道場もあるしジムもあり恵まれている環境だ。ただジムにはサンドバッグはないし、空手稽古を大っぴらにやる訳にはいかず、普通にマシンによるウェイトトレーニングとマットスペースにて腹筋・背筋・屈伸といったことをやるだけである。いつもは1日おきにジム、道場と行っていたので、毎日ジムだとどうも飽きる。
本日はいつもの定番メニュー
建物が直っているのに使わせない理由の一つに、計画停電があった。近所が停電しているにも関わらず、会社が煌々と電気を灯していてはまずかろう、と。計画停電が終わった後は、レクレーション活動の自粛の一環としてある。ただねー、日常活動としてやっているクラブ活動を自粛することに意義があるのだろうか。プロ野球やサッカーも始まったではないか。
会社活動の再開に管理部門があまりに忙しくて、一旦禁止をした後では、クラブ活動の再開を議論する時間も取れずに、あるいはそういう動機がなくて意思決定が後回しにされていると言うのが実際のところであろう。勝手に施設を使わせてくれればよいのだが、それを決めるに、何人もの意思決定者を念のために通らねばならないお役所的なことがあるのであるかもしれない。
そろそろ痺れを切らして、「使用禁止」の張り紙を無視して入り、練習をし出しそうな気がする。
本日も、会社のジムで昼トレを行う。道場もあるしジムもあり恵まれている環境だ。ただジムにはサンドバッグはないし、空手稽古を大っぴらにやる訳にはいかず、普通にマシンによるウェイトトレーニングとマットスペースにて腹筋・背筋・屈伸といったことをやるだけである。いつもは1日おきにジム、道場と行っていたので、毎日ジムだとどうも飽きる。
本日はいつもの定番メニュー
- 腹筋100回、背筋60回。いつもならV字腹筋60回だが腹筋マシンが空いていたので普通に足固定の腹筋をする。たいてい80回くらいで腰が凝ってくる。若い時は決してなかった。200回やっても大丈夫であり、平らでやると腹筋に負荷もかからないので、延々とできるような気がした。今は腹筋が疲れる前に腰が凝ってしまい、回数を伸ばす気が起きない。
- バタフライ、8,6,4の3セット。もう最重量でやっているから今ひとつおもしろくない。普通ならば負荷を上げている所だ。負荷を上げれば筋肉も増えることてきめんであるが、リクエストしても重しを買ってくれないだろうな。MAXでやっているのは俺くらいであろうから。ちなみに145Kだ。これがマシンのMAX重量。
- 懸垂3種、各10回だが、最後は7回でくたばった。ある時、バタフライで胸の筋肉が結構ついてよしよしと思い鏡に映してみたところ、腕が細いのが分かり真面目にやり出した種目である。結果、割合腕が太くなった。この種目が一番筋肉疲労と膨張を感じる。
- ダンベルショルダープレス、7、4回でくたばった。今はこのダンベルの荷重がかなり重めでやっているので、唯一無理な負荷でやっている感あり。立ってやるので腰が痛い。座ってやればいいんだが、そうするとかなり重いのを持っている為、後ろにひっくり返りそうな気がして気が進まない。
- レッグエクステンション、10回3セット。重りが軽い為片足で右左交互に行う。これは鼻歌混じりだ。負荷MAXでこれ以上増やせないから、これからはせいぜいフルストロークで戻す時にゆっくり戻すことにしてトレーニングし甲斐を出そう。
- 真向法、3週間前に痛めた右もも裏側筋が痛くて、あまり開脚前屈できず。年をとると治るのが遅い、と言うか、痛めてもやっているから直らない?
2011年4月25日月曜日
息子、鏡
子供を育てると言うのは難しい。最近よく思う。小学・中学の時は父親として鷹揚に構えており、「勉強せよ」と口うるさく言う母親をなだめていた。中学3年くらいからか、息子は母親の小言は聞かないらしく、父親に言えと言うので今度は父親が口やかましくなった。
すんなりと言うことを聞き、勉強に部活動に日々の暮らしに結果が出れば、言った親としては、満足のいく限りであるが、全くそうではない所に問題がある。何度言っても言うことを聞かないことを知り、故によく怒るようになった。そうすると息子ももう高校1年であるから、生意気に色々屁理屈をこねて従わない。それを感じるとなおさら怒る。だいたい親の言うことの方が理があり正しい。それを何故理解しようとしないのかが不思議である。言うて聞かせるのか、怒って従わせるのか、両方を場面によって使い分けているつもりではあるが、まあ怒っている方が多い。3遍同じことを言ってもできない場合は怒る。それが大半だ。
俺たちの若い頃は梶原漫画に育てられた。スポーツに勉強に、或いは不良道でも、上には上があり、各道で上を目指そうと思えば非常に努力を要し、その努力を貴重なものとする価値観であった。主人公とライバル達の競い合う世界だった。
だから努力せよと言う。向上心を持ってほしいと願う。いろんな場面でそういうことを述べるが、伝わらない。徒労を感じる。息子もくどく言われると面倒になるのだろう、「うんうん」と言う生返事をするだけで実行しない。そうなると余計に腹が立ち叱るようになる。少なくとも返事をしたのならば実行せよ、と。
その後、我が身を振り返る。45歳までは色んな困難も降って来ていたから、努力をしていたと思う。それ以降はどうもイカンな。息子は我が身の鏡であろうか。
俺は、息子の年代の時はかなり努力して勉強していた。その時の自分と今の息子を比べて足りないと思い、叱る。しかし息子の見ているのは現在の俺である。親である俺だ。俺が何となく仕事して、何となくのんびりと生活することに満足しているのならば、息子も今をそれでよしと思うであろう。そう考えれば息子の見本となろうとする親の方が大変だ。
やれやれ。上の考え方は正しいのだろうか。俺は父親を尊敬したが、それは父である時分の彼を尊敬した。父親の少年時代を想像して尊敬した訳ではない。だからやはり俺が堂々として正しく、自らの生き方で語らねばイカンのだろうね。
妻に、「小さくなったね」と半ば冗談で言われて数年が経つ。もう年もとったし、それでもよいかとしていたんだが。未来を切り開く気概が失われて、我が身を守るというか肯定するとなると「小さくなる」
うーーむ。50歳を過ぎて結構辛いね。空手はひたむきにやっているとは言えるが、仕事はもう若い奴には敵わぬことも分かるし、しかし若い奴と闘わねばいかんのか・・・。空手と同じ?
すんなりと言うことを聞き、勉強に部活動に日々の暮らしに結果が出れば、言った親としては、満足のいく限りであるが、全くそうではない所に問題がある。何度言っても言うことを聞かないことを知り、故によく怒るようになった。そうすると息子ももう高校1年であるから、生意気に色々屁理屈をこねて従わない。それを感じるとなおさら怒る。だいたい親の言うことの方が理があり正しい。それを何故理解しようとしないのかが不思議である。言うて聞かせるのか、怒って従わせるのか、両方を場面によって使い分けているつもりではあるが、まあ怒っている方が多い。3遍同じことを言ってもできない場合は怒る。それが大半だ。
俺たちの若い頃は梶原漫画に育てられた。スポーツに勉強に、或いは不良道でも、上には上があり、各道で上を目指そうと思えば非常に努力を要し、その努力を貴重なものとする価値観であった。主人公とライバル達の競い合う世界だった。
だから努力せよと言う。向上心を持ってほしいと願う。いろんな場面でそういうことを述べるが、伝わらない。徒労を感じる。息子もくどく言われると面倒になるのだろう、「うんうん」と言う生返事をするだけで実行しない。そうなると余計に腹が立ち叱るようになる。少なくとも返事をしたのならば実行せよ、と。
その後、我が身を振り返る。45歳までは色んな困難も降って来ていたから、努力をしていたと思う。それ以降はどうもイカンな。息子は我が身の鏡であろうか。
俺は、息子の年代の時はかなり努力して勉強していた。その時の自分と今の息子を比べて足りないと思い、叱る。しかし息子の見ているのは現在の俺である。親である俺だ。俺が何となく仕事して、何となくのんびりと生活することに満足しているのならば、息子も今をそれでよしと思うであろう。そう考えれば息子の見本となろうとする親の方が大変だ。
やれやれ。上の考え方は正しいのだろうか。俺は父親を尊敬したが、それは父である時分の彼を尊敬した。父親の少年時代を想像して尊敬した訳ではない。だからやはり俺が堂々として正しく、自らの生き方で語らねばイカンのだろうね。
妻に、「小さくなったね」と半ば冗談で言われて数年が経つ。もう年もとったし、それでもよいかとしていたんだが。未来を切り開く気概が失われて、我が身を守るというか肯定するとなると「小さくなる」
うーーむ。50歳を過ぎて結構辛いね。空手はひたむきにやっているとは言えるが、仕事はもう若い奴には敵わぬことも分かるし、しかし若い奴と闘わねばいかんのか・・・。空手と同じ?
2011年4月20日水曜日
どうでもよい話、禁煙
昼休みに定番ウェイトをやる。一昨日からまた禁煙を始めているので、筋肉がつく気がする。煙草は不思議である。同じメニューでやっていても煙草を吸っていると筋肉がつかない。体重が少し減って均衡する。筋肉が落ちているのかもしれないが、ウェイトの負荷はあまり変わらない。煙草を止めると途端に体重が増える。口寂しさのガムやチョコレートの間食が増えるから体重も増えるのだが、ウェイトにより素直に筋肉も増えるのか、多少は負荷も上がっていく。
俺の喫煙時代の体重は83K。煙草を止めて3ヶ月ほど経つと87Kくらいになる。喫煙と禁煙時代は、その体重を行ったり来たりしていた。ウェイトの負荷も見た目の筋肉も、87Kの時は増える。その後、煙草を吸い始めたらウェイトの負荷は微減した、と言ってもよいかもだが、頸椎を痛めて左腕の力が半減したり、ベンチプレスのマシンが壊れて無くなったりして、同じ比較では述べられない。今は既にバタフライなぞはMAX負荷でやっているので、煙草を吸おうが止めようがMAX負荷である。
一日の疲れは、煙草を吸う吸わないでずいぶん異なる。一日に40本以上吸っていた時は、仕事を終えて家に帰った時はどっぷりと疲れていて、疲れた体に流し込むビールが旨かった。禁煙している時は、あまり疲れがなくてビールを飲んでも浸み渡らず、飲む量も減った。ヘビースモーカーは、仕事で疲れると言うよりも、多く吸う煙草自体が体を疲れさせる。でもその時のビールが旨いんだよね。
煙草を止めると持久力がついてスタミナも着くのかどうかは、今まであまり実感したことがない。サンドバッグ10ラウンド以上を頻繁にやっていた時は煙草も吸っていた。不謹慎にも数ラウンドやってから会社の道場の窓際で一服し、また再開するなど、内容は激しいが精神的には気楽というより自由であることをよしとしていた。それでも2分15ラウンドくらいはゼーゼー言いつつもこなしていた。会社の空手部は気楽でよい。マット敷きの道場はいつでも勝手に使える。柔軟をやりながら煙草を吸い、同時にビデオの空手教則を見るとか、勝手気ままにやる稽古の環境としては恵まれている。
さて、2か月前までに3カ月禁煙した。この2カ月は煙草復活して徐々に本数も増えてきた。それでもまだ1日10本くらいだ。1昨日よりまた禁煙。もとより煙草を吸わないことが望ましいのであるが、この文章で色々書いているところを見ると、煙草問題はまだ未練たらたらで解決はしていない。
禁煙してしばらく経ったときに、煙草を試しに吸ったことは何度もあるが、煙たいだけでたいして旨くはない。ところがその1,2本を何日も続けると旨くなると言うよりも、味わうべき味として習慣になり、5本が10本くらいに増えた時に、やはり旨くなる。困ったもんだ。
俺の喫煙時代の体重は83K。煙草を止めて3ヶ月ほど経つと87Kくらいになる。喫煙と禁煙時代は、その体重を行ったり来たりしていた。ウェイトの負荷も見た目の筋肉も、87Kの時は増える。その後、煙草を吸い始めたらウェイトの負荷は微減した、と言ってもよいかもだが、頸椎を痛めて左腕の力が半減したり、ベンチプレスのマシンが壊れて無くなったりして、同じ比較では述べられない。今は既にバタフライなぞはMAX負荷でやっているので、煙草を吸おうが止めようがMAX負荷である。
一日の疲れは、煙草を吸う吸わないでずいぶん異なる。一日に40本以上吸っていた時は、仕事を終えて家に帰った時はどっぷりと疲れていて、疲れた体に流し込むビールが旨かった。禁煙している時は、あまり疲れがなくてビールを飲んでも浸み渡らず、飲む量も減った。ヘビースモーカーは、仕事で疲れると言うよりも、多く吸う煙草自体が体を疲れさせる。でもその時のビールが旨いんだよね。
煙草を止めると持久力がついてスタミナも着くのかどうかは、今まであまり実感したことがない。サンドバッグ10ラウンド以上を頻繁にやっていた時は煙草も吸っていた。不謹慎にも数ラウンドやってから会社の道場の窓際で一服し、また再開するなど、内容は激しいが精神的には気楽というより自由であることをよしとしていた。それでも2分15ラウンドくらいはゼーゼー言いつつもこなしていた。会社の空手部は気楽でよい。マット敷きの道場はいつでも勝手に使える。柔軟をやりながら煙草を吸い、同時にビデオの空手教則を見るとか、勝手気ままにやる稽古の環境としては恵まれている。
さて、2か月前までに3カ月禁煙した。この2カ月は煙草復活して徐々に本数も増えてきた。それでもまだ1日10本くらいだ。1昨日よりまた禁煙。もとより煙草を吸わないことが望ましいのであるが、この文章で色々書いているところを見ると、煙草問題はまだ未練たらたらで解決はしていない。
禁煙してしばらく経ったときに、煙草を試しに吸ったことは何度もあるが、煙たいだけでたいして旨くはない。ところがその1,2本を何日も続けると旨くなると言うよりも、味わうべき味として習慣になり、5本が10本くらいに増えた時に、やはり旨くなる。困ったもんだ。
2011年4月18日月曜日
息子
また週末が終わった。土日連続して真面目に道場稽古へ行った。休みに何をしたかと尋ねられれば、空手の稽古をしたとしか答えられない。それ程、他には何もやっていない。テレビや録画しておいた映画のビデオを見てビールを飲んでいるのがほとんど。他はWebで新聞読んだり、多少読書したりである。こういう生活はいかにも休みを満喫しているのだが、少し問題ありだ。変化と新発見が無さすぎる。
子供が小さい時はよくどこかに出かけていた。ところが彼が中学になり部活動を始めると、土日とも部活であり、家族で出かけることはほとんど無くなった。父親との会話も少なくなり、その中でも口を開けば「ちゃんと勉強せよ」的な指導的小言となり、子供は嫌がるからさらに会話が少なくなる。
中学高校は親からの指導は嫌だろうね。俺もそうだった気がする。ところが大学生になると親が言うことが小言に聞こえなくなり、指導ならばちゃんと指導と聞こえるし、意見ならばまたそのように聞く。年を経ると言うのは不思議なものだが、息子には、きちんと大学には入ってもらわねばいけない為、指導が多くなる。彼にとっては聞きたくない小言だろう。
大学時代、空手を修行した時は、鬼先輩からあらゆる指導、説教、しごきに近いものまでもらっていた。それが当たり前の世界だよね。未熟な者は教えを受けるものだ。それが我が息子を見ると未熟であるくせに、親の言うことを聞かず、幼いと言うか愚かにも自分でやると言って、親からの知識、方法論をすべて拒絶する。聞く耳を持たないということだ。先人の方法論を学び、自分なりに理解した上で批判的に考えなければ成長はない。批判や疑問も持てないのなら、それは優れた方法論であることを認識して、その道を辿ることが修行の道となる。
そう言うことを説明しても、まるっきり分からないのだろうね。若くて未熟であることは、反逆であり反骨であり、だから新しい可能性を秘めていること、と思いたいが、我が息子を見ると愚かな方法を自らの小さなプライドや反抗心でやっていることが感じられ、心配ではある。
だけど父親の俺も、空手道場に行く以外は、上で書いたノホホン生活であるから、息子は我が鏡であるか・・・。うーーむ。
昨日の稽古、本日の稽古、特に記すことはなく、定番をこなした。
子供が小さい時はよくどこかに出かけていた。ところが彼が中学になり部活動を始めると、土日とも部活であり、家族で出かけることはほとんど無くなった。父親との会話も少なくなり、その中でも口を開けば「ちゃんと勉強せよ」的な指導的小言となり、子供は嫌がるからさらに会話が少なくなる。
中学高校は親からの指導は嫌だろうね。俺もそうだった気がする。ところが大学生になると親が言うことが小言に聞こえなくなり、指導ならばちゃんと指導と聞こえるし、意見ならばまたそのように聞く。年を経ると言うのは不思議なものだが、息子には、きちんと大学には入ってもらわねばいけない為、指導が多くなる。彼にとっては聞きたくない小言だろう。
大学時代、空手を修行した時は、鬼先輩からあらゆる指導、説教、しごきに近いものまでもらっていた。それが当たり前の世界だよね。未熟な者は教えを受けるものだ。それが我が息子を見ると未熟であるくせに、親の言うことを聞かず、幼いと言うか愚かにも自分でやると言って、親からの知識、方法論をすべて拒絶する。聞く耳を持たないということだ。先人の方法論を学び、自分なりに理解した上で批判的に考えなければ成長はない。批判や疑問も持てないのなら、それは優れた方法論であることを認識して、その道を辿ることが修行の道となる。
そう言うことを説明しても、まるっきり分からないのだろうね。若くて未熟であることは、反逆であり反骨であり、だから新しい可能性を秘めていること、と思いたいが、我が息子を見ると愚かな方法を自らの小さなプライドや反抗心でやっていることが感じられ、心配ではある。
だけど父親の俺も、空手道場に行く以外は、上で書いたノホホン生活であるから、息子は我が鏡であるか・・・。うーーむ。
昨日の稽古、本日の稽古、特に記すことはなく、定番をこなした。
2011年4月16日土曜日
倒れる
年なのに激しい運動をしていると今から書くことが起きることもある。御同輩、用心されよ。
6月下旬の非常に暑い日曜日だった。俺は午前中からビールを飲みつつ、庭の芝刈りに励んでいた。休みの日は何と言っても昼間からビールを飲むのが楽しみだ。庭は20坪くらいある。手押しの芝刈り機で行ったり来たり。暑い中汗が噴き出て、ビールが旨い。
その日は夕方から道場稽古に行くことにしていたので、酔いをさまさなければ車の運転ができない。そこで、酔いをさますことも兼ねて、芝目が刈り揃えられてきれいになった庭で空手の練習を始めた。前蹴りあげ、内回し・外回しをしながら庭を往復する移動稽古を入念に。天気はよく、気持ちがよい・・・が、汗も当然ダクダクとかく。上半身裸の短パンひとつある。パンチも入れたコンビネーションでまた移動稽古数種類。まあ、気ままにやるので、リラックスしてできる限り力を抜きながら、柔らかくやることを心掛ける。かれこれ1時間弱、大変いい自主稽古ができた。
そして昼飯。腹も膨れ、ほろ酔い加減でソファーに寝そべり、録画しておいた映画を見つつも、その内眠たくなってウトウトとする。たまらなく気持ちのよい休みの習慣である。何と幸せなことだ。
夕方目が覚めると体が非常にけだるい。稽古に行かねばならないので、今度は気を振り絞って起き出し車に乗った。随分喉が渇いていた。途中でヨーグルトを買って渇きを癒す。稽古中に飲むスポーツドリンクも買った。
稽古。道場にエアコンがあり、それを効かすために窓を閉め切っている中、基本稽古の30分が終わった。古いエアコンでそんなに冷やすこともできす、実際運動すると暑くて汗がダラダラ流れるし、皆が運動している中締め切っているので酸欠状態も感じ、窓を全開にした。酸欠状態は脱したが、これはこれで外の暑気も入ってきて暑い。基本の後、コンビネーション、スパーリングと一通り、汗をふんだんに流しながら稽古に励んだ。途中の休憩時間ではスポーツドリンクで水分補給。
稽古が終わってもダラダラ流れる汗は変わらず。まあ暑いし、年をとるに従い汗もかきやすくなるようで、しょーがない。
今日の稽古も終わった、と充実感をもって、帰り道を運転し始めた。少し妙な感覚があった。スピードを出すつもりがないのになぜかスピードが出る。ブレーキをかけてまたアクセルに足を戻す、とまたスピードが出る。何か変だなと思いつつ、右折する交差点へ入り止ろうとした。ところが止めたつもりが何故か動き出すので、こりゃイカンとしてパーキングにギアを入れた。
直進の車が切れ、右折信号になったのでさっさと右折すべくパーキングからドライブにシフトノブを入れようとしたが、これがなぜか入らない。ノブが動かない。あれれっ変だ。何で入らないのかと何度もノブを動かそうとしても動かなかった。
足でブレーキを踏んでいないとノブはパーキングからドライブに動かせないようになっている。この時、足の感覚がマヒし始めていて踏んでいるつもりが踏んでいなかったということである。
2回くらい信号をやり過ごした。俺の車だけが交差点の右折レーンにずっといて、動き出さない。後ろについていた車は、痺れを切らして直進レーンに戻って大回りで右折するとかした。ホーンが鳴り響かなかったのが不思議だ。故障車として皆認識して避けてくれたのであろう。
俺も、まだ新しい車が何でこんな所で故障するのか、と焦っていた。その内何とかドライブに入り、そろそろと動いて交差点から脱出した。故障したと思っているので、スピードも出さずに慎重に運転した。稽古の名残であろうか、汗がまだダラダラと流れていた。
いつも寄るコンビニに車を停め、アイスコーヒーを注文しようとしてレジの前に立った。そのコンビニはコーヒーを注文してカップをもらい、自分でいれる。ここでびっくり。なんと声が出てこない。俺はアイスコーヒーください、と言いたい。でも声が出ない。俺はレジの前で注文しようとして立っている、レジの若者は注文を受けようとして待っている、の変な時間をしばらく過ごした。多分口だけがパクパクあいていたとは思うが、目でコーヒーを入れる所を示し、指でも差したので、ようやく彼はカップを持ってきて俺に渡した。金を払いアイスコーヒーを入れる所に行った。
アイスコーヒーのカップを持って車に戻った。ここでまた一苦労。パーキングからバックに入らない。本当にこの車壊れた、弱ったなぁとしてしばらくシフトノブと格闘。数分後になんとか偶然に入って、やっとこさ車をバックさせ、ドライブに入れてまた運転し出した。運転しながらさっきは何で声が出なかったのかと思い、車の中で発声練習。ちゃんと声が出るのに安心したが、不思議なこともあるものだと思っていた。やっと家に着き、車を降り、ガレージから家の中に入り2階にあるリビングに行こうと階段を上ろうとした。ところが階段が登れない。右足に力が入らない。その内階段のたもとでへたり込んでしまった。おかしい。今度は起き上がろうとしても起き上がれない。ずるずると廊下で仰向けに寝そべってしまい、起き上がれない。
そうこうドタバタしている音を聞きつけ妻が階段を下りてきた。仰向けに寝て起きようとして起き上がれない俺に驚いている。その内俺の方は諦めてしまい、もう大の字だ。やっと気がついたのだが、右半身が麻痺している。寝ころびつつも身をよじり、左手で感覚のない右手をつまみあげてみた。本当に我が身ではない別物を拾い上げているようだった。
妻、息子に119番せよと指示。息子慌てて110番する。うーむ、ドジな奴だ。俺に対してはじっとしていろの指示。俺がまだドタバタしているようだったので、息子に俺の頭を押さえつけるように指示。顔も汗だくだったので、息子は人差し指一本で俺の額を押さえつけていた。まったく失敬な。まあ、俺の方ももう起き上がれないことは十分分かったので、息子の人差し指に額を押さえられれたまま、観念して仰向けに寝ていた。
3分から5分くらい経ったような時間感覚なんだが、右の指が動く感覚を得た。それから少しずつ感覚が戻り、やっと上体を起こしその場に座ることができた。
しばらくして救急車が到着。その時には立つこともできていたんだが、担架に乗せられて救急車の中へ。そして病院へ。もう十分回復してはいたが、点滴や検査を経てそのまま1週間入院するはめになった。病院に運び込まれた際に、看護師さんが書いたメモには「脳梗塞」とある。実際の病名は、一過性脳虚血発作である。
右半身不随の状態は、階段が登れない時から倒れこんで後の数分のみであり、それが過ぎたら脳への血流も戻り完全に回復していた。
入院中、iPhoneでWebサイトを色々調べ、一過性脳虚血発作に見られる症状がきちんと起きていることが分かった。発汗をコントロールできなくなり、失語になり、右半身不随になったということ。
今から思えば、完全に右半身不随になるのが家に帰ってからでよかった。帰り道の車の運転でも右足の感覚がかなり鈍ってしまい、ブレーキを踏んでいるつもりが踏んでいなくて、パーキングからドライブやバックにシフトできなかったということだ。しかしその後、アクセルを踏んで実際にスピードを慎重に保ちながらも運転できていたし、家に帰って、階段までは歩くことができていた。途中で起きた声が出ないと言う失語状態が大変おもしろい。アイスコーヒーくださいの一言が頭の中に準備されているのだが、声に出ないもどかしさ。レジの人としばらく見合う変な時だった。
CTスキャンを一回すれば診断は下せるのに、1週間も入院せねばならなかったのはどうも馬鹿げている。入院の終わりの方でやったCTによる血管造影では異常なし。ただ脳の血管が年のせいもあるがとげとげしく固く見えるそうな。血栓はどこにもなく、結局、脱水気味になり血液がドロドロに濃くなって脳の血流がスムーズに流れなくなったのが原因だそうだ。まあそんな所だろう。ビールは利尿作用があるから脱水作用を進める。暑い中汗だくになりながらの芝刈りと空手稽古。その後の昼寝、寝る間は水分を出しているのでこれまた脱水を進める。起きて喉の渇きを覚えた時に、すぐスポーツドリンク飲めばよいのに、なぜかヨーグルトを飲んだ。これでは水分の速やかな補給にならない。また稽古前半の酸欠状態と暑さによる大量の汗。稽古途中ではスポーツドリンクを飲んでいたが、すでに進んでいた脱水症状には足りなかったのであろう。もうその日は午前中から脱水になることのオンパレードだった。
脱水症状をなめちゃあいかんよな。脳梗塞になると大変だ。俺の場合は、一過性脳虚血発作という脳梗塞手前で終わったのでよかった。今から30年以上前は、より疲れるからということで運動しても水を飲むのは禁止だった。何と危ないことか。
退院後の翌日、会社の空手部の合同稽古にておっかなびっくり指揮を執った。2リットルのスポーツドリンクをがぶ飲みしつつ。退院即運動というのも、よくやるもんだ、ではあるが、入院期間中は5体全く健康であり力を持て余していたから、久しぶりの運動は、おっかなびっくりの感覚さえ除けば気持ちのよいものだった。
体が動いても脳がもたない、というのは衝撃の経験である。それまでは歯を食いしばって倒れるまで稽古をすることが強くなる王道であったのだが、これからはなんと本当に倒れてしまうということだ。運動にはある程度慎重にならなければいけないと思った。
それからもう10カ月経つ。あの時は、1日の行動がすべて脱水に繋がるものであり、その間マメに水分補給しなかったことが原因である。すべての行動が重なって初めて起きたものとしている。血管の老化を早めそうな煙草を止めればなおよいが、この10ヶ月間2回ほど禁煙にチャレンジし、今だうまくいっていない。
今はかつてと同じように普通に激しい稽古もしている。ただ、頭の隅で限界までの追い込みを控える気持ちがあるとは思う。もう年だもんね。やり過ぎて体を少々壊すのならまだしも、脳梗塞になって死ぬか半身不随は、当然ご免蒙りたい。
6月下旬の非常に暑い日曜日だった。俺は午前中からビールを飲みつつ、庭の芝刈りに励んでいた。休みの日は何と言っても昼間からビールを飲むのが楽しみだ。庭は20坪くらいある。手押しの芝刈り機で行ったり来たり。暑い中汗が噴き出て、ビールが旨い。
その日は夕方から道場稽古に行くことにしていたので、酔いをさまさなければ車の運転ができない。そこで、酔いをさますことも兼ねて、芝目が刈り揃えられてきれいになった庭で空手の練習を始めた。前蹴りあげ、内回し・外回しをしながら庭を往復する移動稽古を入念に。天気はよく、気持ちがよい・・・が、汗も当然ダクダクとかく。上半身裸の短パンひとつある。パンチも入れたコンビネーションでまた移動稽古数種類。まあ、気ままにやるので、リラックスしてできる限り力を抜きながら、柔らかくやることを心掛ける。かれこれ1時間弱、大変いい自主稽古ができた。
そして昼飯。腹も膨れ、ほろ酔い加減でソファーに寝そべり、録画しておいた映画を見つつも、その内眠たくなってウトウトとする。たまらなく気持ちのよい休みの習慣である。何と幸せなことだ。
夕方目が覚めると体が非常にけだるい。稽古に行かねばならないので、今度は気を振り絞って起き出し車に乗った。随分喉が渇いていた。途中でヨーグルトを買って渇きを癒す。稽古中に飲むスポーツドリンクも買った。
稽古。道場にエアコンがあり、それを効かすために窓を閉め切っている中、基本稽古の30分が終わった。古いエアコンでそんなに冷やすこともできす、実際運動すると暑くて汗がダラダラ流れるし、皆が運動している中締め切っているので酸欠状態も感じ、窓を全開にした。酸欠状態は脱したが、これはこれで外の暑気も入ってきて暑い。基本の後、コンビネーション、スパーリングと一通り、汗をふんだんに流しながら稽古に励んだ。途中の休憩時間ではスポーツドリンクで水分補給。
稽古が終わってもダラダラ流れる汗は変わらず。まあ暑いし、年をとるに従い汗もかきやすくなるようで、しょーがない。
今日の稽古も終わった、と充実感をもって、帰り道を運転し始めた。少し妙な感覚があった。スピードを出すつもりがないのになぜかスピードが出る。ブレーキをかけてまたアクセルに足を戻す、とまたスピードが出る。何か変だなと思いつつ、右折する交差点へ入り止ろうとした。ところが止めたつもりが何故か動き出すので、こりゃイカンとしてパーキングにギアを入れた。
直進の車が切れ、右折信号になったのでさっさと右折すべくパーキングからドライブにシフトノブを入れようとしたが、これがなぜか入らない。ノブが動かない。あれれっ変だ。何で入らないのかと何度もノブを動かそうとしても動かなかった。
足でブレーキを踏んでいないとノブはパーキングからドライブに動かせないようになっている。この時、足の感覚がマヒし始めていて踏んでいるつもりが踏んでいなかったということである。
2回くらい信号をやり過ごした。俺の車だけが交差点の右折レーンにずっといて、動き出さない。後ろについていた車は、痺れを切らして直進レーンに戻って大回りで右折するとかした。ホーンが鳴り響かなかったのが不思議だ。故障車として皆認識して避けてくれたのであろう。
俺も、まだ新しい車が何でこんな所で故障するのか、と焦っていた。その内何とかドライブに入り、そろそろと動いて交差点から脱出した。故障したと思っているので、スピードも出さずに慎重に運転した。稽古の名残であろうか、汗がまだダラダラと流れていた。
いつも寄るコンビニに車を停め、アイスコーヒーを注文しようとしてレジの前に立った。そのコンビニはコーヒーを注文してカップをもらい、自分でいれる。ここでびっくり。なんと声が出てこない。俺はアイスコーヒーください、と言いたい。でも声が出ない。俺はレジの前で注文しようとして立っている、レジの若者は注文を受けようとして待っている、の変な時間をしばらく過ごした。多分口だけがパクパクあいていたとは思うが、目でコーヒーを入れる所を示し、指でも差したので、ようやく彼はカップを持ってきて俺に渡した。金を払いアイスコーヒーを入れる所に行った。
アイスコーヒーのカップを持って車に戻った。ここでまた一苦労。パーキングからバックに入らない。本当にこの車壊れた、弱ったなぁとしてしばらくシフトノブと格闘。数分後になんとか偶然に入って、やっとこさ車をバックさせ、ドライブに入れてまた運転し出した。運転しながらさっきは何で声が出なかったのかと思い、車の中で発声練習。ちゃんと声が出るのに安心したが、不思議なこともあるものだと思っていた。やっと家に着き、車を降り、ガレージから家の中に入り2階にあるリビングに行こうと階段を上ろうとした。ところが階段が登れない。右足に力が入らない。その内階段のたもとでへたり込んでしまった。おかしい。今度は起き上がろうとしても起き上がれない。ずるずると廊下で仰向けに寝そべってしまい、起き上がれない。
そうこうドタバタしている音を聞きつけ妻が階段を下りてきた。仰向けに寝て起きようとして起き上がれない俺に驚いている。その内俺の方は諦めてしまい、もう大の字だ。やっと気がついたのだが、右半身が麻痺している。寝ころびつつも身をよじり、左手で感覚のない右手をつまみあげてみた。本当に我が身ではない別物を拾い上げているようだった。
妻、息子に119番せよと指示。息子慌てて110番する。うーむ、ドジな奴だ。俺に対してはじっとしていろの指示。俺がまだドタバタしているようだったので、息子に俺の頭を押さえつけるように指示。顔も汗だくだったので、息子は人差し指一本で俺の額を押さえつけていた。まったく失敬な。まあ、俺の方ももう起き上がれないことは十分分かったので、息子の人差し指に額を押さえられれたまま、観念して仰向けに寝ていた。
3分から5分くらい経ったような時間感覚なんだが、右の指が動く感覚を得た。それから少しずつ感覚が戻り、やっと上体を起こしその場に座ることができた。
しばらくして救急車が到着。その時には立つこともできていたんだが、担架に乗せられて救急車の中へ。そして病院へ。もう十分回復してはいたが、点滴や検査を経てそのまま1週間入院するはめになった。病院に運び込まれた際に、看護師さんが書いたメモには「脳梗塞」とある。実際の病名は、一過性脳虚血発作である。
右半身不随の状態は、階段が登れない時から倒れこんで後の数分のみであり、それが過ぎたら脳への血流も戻り完全に回復していた。
入院中、iPhoneでWebサイトを色々調べ、一過性脳虚血発作に見られる症状がきちんと起きていることが分かった。発汗をコントロールできなくなり、失語になり、右半身不随になったということ。
今から思えば、完全に右半身不随になるのが家に帰ってからでよかった。帰り道の車の運転でも右足の感覚がかなり鈍ってしまい、ブレーキを踏んでいるつもりが踏んでいなくて、パーキングからドライブやバックにシフトできなかったということだ。しかしその後、アクセルを踏んで実際にスピードを慎重に保ちながらも運転できていたし、家に帰って、階段までは歩くことができていた。途中で起きた声が出ないと言う失語状態が大変おもしろい。アイスコーヒーくださいの一言が頭の中に準備されているのだが、声に出ないもどかしさ。レジの人としばらく見合う変な時だった。
CTスキャンを一回すれば診断は下せるのに、1週間も入院せねばならなかったのはどうも馬鹿げている。入院の終わりの方でやったCTによる血管造影では異常なし。ただ脳の血管が年のせいもあるがとげとげしく固く見えるそうな。血栓はどこにもなく、結局、脱水気味になり血液がドロドロに濃くなって脳の血流がスムーズに流れなくなったのが原因だそうだ。まあそんな所だろう。ビールは利尿作用があるから脱水作用を進める。暑い中汗だくになりながらの芝刈りと空手稽古。その後の昼寝、寝る間は水分を出しているのでこれまた脱水を進める。起きて喉の渇きを覚えた時に、すぐスポーツドリンク飲めばよいのに、なぜかヨーグルトを飲んだ。これでは水分の速やかな補給にならない。また稽古前半の酸欠状態と暑さによる大量の汗。稽古途中ではスポーツドリンクを飲んでいたが、すでに進んでいた脱水症状には足りなかったのであろう。もうその日は午前中から脱水になることのオンパレードだった。
脱水症状をなめちゃあいかんよな。脳梗塞になると大変だ。俺の場合は、一過性脳虚血発作という脳梗塞手前で終わったのでよかった。今から30年以上前は、より疲れるからということで運動しても水を飲むのは禁止だった。何と危ないことか。
退院後の翌日、会社の空手部の合同稽古にておっかなびっくり指揮を執った。2リットルのスポーツドリンクをがぶ飲みしつつ。退院即運動というのも、よくやるもんだ、ではあるが、入院期間中は5体全く健康であり力を持て余していたから、久しぶりの運動は、おっかなびっくりの感覚さえ除けば気持ちのよいものだった。
体が動いても脳がもたない、というのは衝撃の経験である。それまでは歯を食いしばって倒れるまで稽古をすることが強くなる王道であったのだが、これからはなんと本当に倒れてしまうということだ。運動にはある程度慎重にならなければいけないと思った。
それからもう10カ月経つ。あの時は、1日の行動がすべて脱水に繋がるものであり、その間マメに水分補給しなかったことが原因である。すべての行動が重なって初めて起きたものとしている。血管の老化を早めそうな煙草を止めればなおよいが、この10ヶ月間2回ほど禁煙にチャレンジし、今だうまくいっていない。
今はかつてと同じように普通に激しい稽古もしている。ただ、頭の隅で限界までの追い込みを控える気持ちがあるとは思う。もう年だもんね。やり過ぎて体を少々壊すのならまだしも、脳梗塞になって死ぬか半身不随は、当然ご免蒙りたい。
2011年4月13日水曜日
ある週末
昨日の土曜日は二日酔い気味でどうも体調と気合が乗らず、稽古を休んだ。今日も朝寝を十分し過ぎて体がだるくなったが、何とか夕方からの稽古に参加した。稽古は定番メニュー、基本、コンビネーションの移動、型、約束組手、スパーリング。
約束組手は、
相手との技の掛け合いの研究をしないともうあまり伸びないだろうね。俺の場合、一人でサンドバッグをやる稽古が多く、スパーリングではその鍛えた技を力を入れて出しつつ、闘いをビビりながらも楽しむと言うか、そんな風にやっているだけなのでこのままでは伸びない。技を試すと言うか、相手の出方を注視しカンを養うというような研究心が必要だ。
「技の掛け合いの研究」を意識した稽古をしよう。そこには間合いの研究やフェイントの使い方も入る。何本かのコンビネーションの内、極めるのはどれか、とか。
一方でK1にしてもボクシングにしてもプロの試合を見ると、相手の隙を作る技と、当たれば相手もそれなりにダメージを受ける技がほぼ同一で、フェイントの為だけの技はかなり少ない。さすがはプロなんだちゅうことだ。技のストーリーを持ちつつ相手の反応に合わせて融通無碍に変化する。こう言うことを会得するにはどうすればよいのであろうか。ひたすら稽古であると言うのも分かるが。サラリーマン空手家としては、一日中稽古する時間と情熱はないので、何かしら科学的で効率のよいやり方と言うのがないのか、考える。
攻防を見せるビデオはある。それを見て研究して納得がいき自分に合った攻防の技があれば、それを普段の稽古で試すし、反復して身につけることがまずやることであるし、実はそれしかないかも。頭で納得した後、体が自然に動くには少なくとも1000回の反復が必要であろう。
一つ不思議なのは、宇城師範の言う身体脳であり気である。古伝の型を反復することが第一と言う。呼吸法はその中に入っていて、気を養うには呼吸であるらしい。このやり方には、上のように実際の技の攻防を反復することで身につけるという考え方がない。宇城師範の闘いを見ると、「先の先」「後の先」の両方で相手を制圧する。見ている限りは、相手が動く前に機先を制して自分が動いて制圧してしまうから「先の先」に見えるが、実の所、相手の気配を察知してそれが具体的な動きとなる前に制圧するから「後の先」であろう。
少なくとも本日言えることは、闘いに強くなる為にはスパーリングの量が必要であり、むやみに闘うのではなく研究しつつ行うことである。
約束組手は、
- 攻撃: 右下段回し。 受け: 脛受け、右下段で返し、さらに左上段
- 攻撃: 左中段回し。 受け: 脛受け+右腕添え、斜め前に出て右中段回し
- 攻撃: 左前蹴り。 受け: 左払いから裏投げ
相手との技の掛け合いの研究をしないともうあまり伸びないだろうね。俺の場合、一人でサンドバッグをやる稽古が多く、スパーリングではその鍛えた技を力を入れて出しつつ、闘いをビビりながらも楽しむと言うか、そんな風にやっているだけなのでこのままでは伸びない。技を試すと言うか、相手の出方を注視しカンを養うというような研究心が必要だ。
「技の掛け合いの研究」を意識した稽古をしよう。そこには間合いの研究やフェイントの使い方も入る。何本かのコンビネーションの内、極めるのはどれか、とか。
一方でK1にしてもボクシングにしてもプロの試合を見ると、相手の隙を作る技と、当たれば相手もそれなりにダメージを受ける技がほぼ同一で、フェイントの為だけの技はかなり少ない。さすがはプロなんだちゅうことだ。技のストーリーを持ちつつ相手の反応に合わせて融通無碍に変化する。こう言うことを会得するにはどうすればよいのであろうか。ひたすら稽古であると言うのも分かるが。サラリーマン空手家としては、一日中稽古する時間と情熱はないので、何かしら科学的で効率のよいやり方と言うのがないのか、考える。
攻防を見せるビデオはある。それを見て研究して納得がいき自分に合った攻防の技があれば、それを普段の稽古で試すし、反復して身につけることがまずやることであるし、実はそれしかないかも。頭で納得した後、体が自然に動くには少なくとも1000回の反復が必要であろう。
一つ不思議なのは、宇城師範の言う身体脳であり気である。古伝の型を反復することが第一と言う。呼吸法はその中に入っていて、気を養うには呼吸であるらしい。このやり方には、上のように実際の技の攻防を反復することで身につけるという考え方がない。宇城師範の闘いを見ると、「先の先」「後の先」の両方で相手を制圧する。見ている限りは、相手が動く前に機先を制して自分が動いて制圧してしまうから「先の先」に見えるが、実の所、相手の気配を察知してそれが具体的な動きとなる前に制圧するから「後の先」であろう。
少なくとも本日言えることは、闘いに強くなる為にはスパーリングの量が必要であり、むやみに闘うのではなく研究しつつ行うことである。
2011年4月8日金曜日
復興支援
東日本大震災からもうすぐ1か月が経つ。死者・行方不明者合わせて2万7千人を超えていると思う。数字の集計の間違いが見つかり、今日はどのサイトを探してもそのUpdateはなかった。
雑誌の記事には、津波が引いて歩いた所に子供達の遺体が散在していたことが書いてあった。TV報道では見せないが、電信柱に遺体が引っかかっていたり、目を覆う惨状であったそうだ。生きていた人々が無残にも・・・の風景を想像する。我が家族や親戚がそうなったときの嘆きを想う。唯、合掌。
震災以来、TVは避難所の人々をよく映している。最初は食べるものも届かず、次に薬が届かず、とあったが、しだいに援助物資の補給はよくなっているようだ。だだっ広い避難所―学校の体育館が多い―につい立を経て、プライバシーの保護もかろうじてできるようになってきたとの映像もある。娘さんが布団にもぐりこんで着替えなくてよくなってよかったとの家族の言。
TVのインタビューに応える人々は「神々しい」までに忍耐強い。泣き喚きもせず淡々と不自由を訴えつつも、援助に感謝する言さえ出る。被災者同士助け合いながら集団生活を営んでいることも報道される。東北人の忍耐だ。表に出ている情景よりもはるかに苛酷である環境を忘れずに想像しなければいけない。
自粛ブームが地震・津波・原発被害に続き、第4の災害であると説かれ始めた。被災地の方々からも度を越した自粛はしない方がよいとのメッセージがある。それはそうだろう。消費をして経済を活性化しなければ暗く小さく貧しくなるだけだ。瞑目して被災の方々を想い、しかる後に初めて普通の消費生活をすべきである。忍耐強い東北の人々に思いを馳せて、その後だ。
義援金が集まっている。金のある所にはあるし、普通の人々も今回の大災害には多くお金を出す。より多く集め、被災者に配り、必要なものをどんどん買い込むことで経済も多少回復する。早くお金を回すべきなのに、配分手法が定まらず停滞しているそうだ。経済だけの観点で述べれば、多くの人々が義援金としてタンス預金を引き出しているはずで、それを復興資金に充てれば消費の規模が大きくなる。それによって企業も復活し、再びグローバルに活動できる足腰が戻ればよい。復興により経済を回復させる戦略が必要である。
今は被害を受けた企業が活動を再開できずに、負の部分があるが、復興資金を注ぎこんで、企業活動にも、そして被災者の方々の生活にも、多く与え廻すべきである。
震災から1カ月も経ち被災の方々は今後の生活への不安が増す時期だ。1億2千万人の国民が支援すべきである。TV報道を見る限りではその雰囲気はあるが、持続して続けなければならない。
・・・・・・・・・
これを書いている時に、大きな地震があった。宮城県で震度6強。埼玉の我家で震度3である。3月11日以来余震が続いているが、その中でも最大のものである。まだ震災は続いている。
・・・・・・・・・
本日のトレーニングはスクワット100回のみ。昼休みは何となく仕事場に残り、トレーニングせず。会社での夕食前にジムに行き、何とかやった。昨日ウェイトをやったので本日は別の部位をウェイトするか、道場が直っているのならばサンドバッグをやっている所だが、まだ使用禁止なのでできず。これからはちゃんと別の部位を鍛える日にしよう。
雑誌の記事には、津波が引いて歩いた所に子供達の遺体が散在していたことが書いてあった。TV報道では見せないが、電信柱に遺体が引っかかっていたり、目を覆う惨状であったそうだ。生きていた人々が無残にも・・・の風景を想像する。我が家族や親戚がそうなったときの嘆きを想う。唯、合掌。
震災以来、TVは避難所の人々をよく映している。最初は食べるものも届かず、次に薬が届かず、とあったが、しだいに援助物資の補給はよくなっているようだ。だだっ広い避難所―学校の体育館が多い―につい立を経て、プライバシーの保護もかろうじてできるようになってきたとの映像もある。娘さんが布団にもぐりこんで着替えなくてよくなってよかったとの家族の言。
TVのインタビューに応える人々は「神々しい」までに忍耐強い。泣き喚きもせず淡々と不自由を訴えつつも、援助に感謝する言さえ出る。被災者同士助け合いながら集団生活を営んでいることも報道される。東北人の忍耐だ。表に出ている情景よりもはるかに苛酷である環境を忘れずに想像しなければいけない。
自粛ブームが地震・津波・原発被害に続き、第4の災害であると説かれ始めた。被災地の方々からも度を越した自粛はしない方がよいとのメッセージがある。それはそうだろう。消費をして経済を活性化しなければ暗く小さく貧しくなるだけだ。瞑目して被災の方々を想い、しかる後に初めて普通の消費生活をすべきである。忍耐強い東北の人々に思いを馳せて、その後だ。
義援金が集まっている。金のある所にはあるし、普通の人々も今回の大災害には多くお金を出す。より多く集め、被災者に配り、必要なものをどんどん買い込むことで経済も多少回復する。早くお金を回すべきなのに、配分手法が定まらず停滞しているそうだ。経済だけの観点で述べれば、多くの人々が義援金としてタンス預金を引き出しているはずで、それを復興資金に充てれば消費の規模が大きくなる。それによって企業も復活し、再びグローバルに活動できる足腰が戻ればよい。復興により経済を回復させる戦略が必要である。
今は被害を受けた企業が活動を再開できずに、負の部分があるが、復興資金を注ぎこんで、企業活動にも、そして被災者の方々の生活にも、多く与え廻すべきである。
震災から1カ月も経ち被災の方々は今後の生活への不安が増す時期だ。1億2千万人の国民が支援すべきである。TV報道を見る限りではその雰囲気はあるが、持続して続けなければならない。
・・・・・・・・・
これを書いている時に、大きな地震があった。宮城県で震度6強。埼玉の我家で震度3である。3月11日以来余震が続いているが、その中でも最大のものである。まだ震災は続いている。
・・・・・・・・・
本日のトレーニングはスクワット100回のみ。昼休みは何となく仕事場に残り、トレーニングせず。会社での夕食前にジムに行き、何とかやった。昨日ウェイトをやったので本日は別の部位をウェイトするか、道場が直っているのならばサンドバッグをやっている所だが、まだ使用禁止なのでできず。これからはちゃんと別の部位を鍛える日にしよう。
2011年4月6日水曜日
道場訓
いつものウェイトトレーニングを昼休みと仕事後に分けて行った。先週の道場稽古が久しぶりだったので体が無理をしてしまったのであろう。右腿の裏側の筋を少々痛めたようで、柔軟(真向法)の開脚前屈ができない。前屈しようとすると痛みが走るので、大事をとって限界まで広げる柔軟をしていない。
さてさて、武を以て生活する、に最近こだわってしまっている。理屈の記述も多い。その、武を以て・・と言うことは具体的にどういうことだろうかと考え、
空手の武の考え方が現れているのが道場訓である。いくつかの道場訓を挙げる。どれをとってもいいことを言っている。そのように日常をおくれれば、空手(武)により自らを修めることができる。とは言え、日頃から徹底的に沿うように生きるのは難しいことだろう。まず頭の中に常に置いて、自覚的に行動しなければならない。俺は「武を以て生活する」と、さんざこのブログで考え、書きながらも日中よく忘れている。
極真会館の道場訓。
一.吾々は心身を錬磨し、確固不抜の心技を極めること
わたしたちが、空手を修行する目的は、自分自身の体と心をきたえることにあり、真剣にけいこに打ち込むことで、どんなことにも動じない心と強い意志を習得して行かなければならない。
一.吾々は武の神髄を極め、機に発し感に敏なること
わたしたちは、武道としての空手の道を徹底的に追求していくことで、どんな状況でも臨機応変に対応する力と相手の心を理解する思いやりや優しさ、どんなことにも素直に感動できる心を身につけなければならない。
一.吾々は質実剛健を以て、克己の精神を涵養すること
わたしたちは、自分自身を飾ることなく、真面目で素直に空手の修行に打ち込むことによって、自分自身に打ち勝つ強い心を養っていくことを心がけなければならない。
一.吾々は礼節を重んじ長上を敬し、粗暴の振る舞いを慎むこと
わたしたちは、礼儀を身につけ、目上の人を敬い、人前で空手の力を誇示するような行動をとってはならない。
一.吾々は神仏を尊び、謙譲の美徳を忘れざること
わたしたちは人間の力が及ばない自然や宇宙の摂理を重んじ、神や仏を敬い、相手のことを大切にし自分を謙遜する態度を忘れてはならない。
一.吾々は智性と体力とを向上させ、事に臨んで過たざること
わたしたちは、空手の修行によって知性と体力を向上させ、どんな状況でもあせらず、冷静に対処できるようにならなければならない。
一.吾々は生涯の修行を空手の道に通じ、極真の道を全うすること
武道としての空手の修行は、一生かけて追い求めるものであり、一生を通じて極意に一歩でも近づこうとする姿勢、それが極真空手の本義である。
新極真の道場訓も同じである。
次に芦原会館。
一般部 正道八ヶ条
一 吾々は、心技体を研く場こそ道場としるべし。
一 吾々は、収めしままの刀は錆びつくと知るべし。
一 吾々は、己が力を誇示せず、自制の心を持つべし。
一 吾々は、物事において後悔せん事を宗とするべし。
一 吾々は、押忍の精神を宗とするべし。
一 吾々は、世の中の静と動を見極めるべし。
一 吾々は、文武両道を以って有言実行を成すべし。
一 吾々は、日々精進し、正道の道を極めるべし。
少年部 正道八ヶ条
一 人とむやみに争わない事。
一 人の悪口を言わない事。
一 人に偉そうにしない事。
一 人に感謝の気持ちを持つ事。
一 自分の知っている事は、他人にも親切に教えてあげる事。
一 自分の間違いを改め、良いところを伸ばす事。
一 自分自身に自信を持つ事。
一 家族・仲間を大切にする事。
さてさて、武を以て生活する、に最近こだわってしまっている。理屈の記述も多い。その、武を以て・・と言うことは具体的にどういうことだろうかと考え、
- 物事に真剣に取り組む
- 人には誠意を尽くし交わる
- 困難に遭って逃げない
空手の武の考え方が現れているのが道場訓である。いくつかの道場訓を挙げる。どれをとってもいいことを言っている。そのように日常をおくれれば、空手(武)により自らを修めることができる。とは言え、日頃から徹底的に沿うように生きるのは難しいことだろう。まず頭の中に常に置いて、自覚的に行動しなければならない。俺は「武を以て生活する」と、さんざこのブログで考え、書きながらも日中よく忘れている。
極真会館の道場訓。
一.吾々は心身を錬磨し、確固不抜の心技を極めること
わたしたちが、空手を修行する目的は、自分自身の体と心をきたえることにあり、真剣にけいこに打ち込むことで、どんなことにも動じない心と強い意志を習得して行かなければならない。
一.吾々は武の神髄を極め、機に発し感に敏なること
わたしたちは、武道としての空手の道を徹底的に追求していくことで、どんな状況でも臨機応変に対応する力と相手の心を理解する思いやりや優しさ、どんなことにも素直に感動できる心を身につけなければならない。
一.吾々は質実剛健を以て、克己の精神を涵養すること
わたしたちは、自分自身を飾ることなく、真面目で素直に空手の修行に打ち込むことによって、自分自身に打ち勝つ強い心を養っていくことを心がけなければならない。
一.吾々は礼節を重んじ長上を敬し、粗暴の振る舞いを慎むこと
わたしたちは、礼儀を身につけ、目上の人を敬い、人前で空手の力を誇示するような行動をとってはならない。
一.吾々は神仏を尊び、謙譲の美徳を忘れざること
わたしたちは人間の力が及ばない自然や宇宙の摂理を重んじ、神や仏を敬い、相手のことを大切にし自分を謙遜する態度を忘れてはならない。
一.吾々は智性と体力とを向上させ、事に臨んで過たざること
わたしたちは、空手の修行によって知性と体力を向上させ、どんな状況でもあせらず、冷静に対処できるようにならなければならない。
一.吾々は生涯の修行を空手の道に通じ、極真の道を全うすること
武道としての空手の修行は、一生かけて追い求めるものであり、一生を通じて極意に一歩でも近づこうとする姿勢、それが極真空手の本義である。
新極真の道場訓も同じである。
次に芦原会館。
- 礼節を忘れない事
- 努力精進を怠らない事
- 心技の向上を図る事
- チャレンジの精神を持ち続ける事
- 常に反省を忘れない事
- より正しい空手の道を全うする事
一般部 正道八ヶ条
一 吾々は、心技体を研く場こそ道場としるべし。
一 吾々は、収めしままの刀は錆びつくと知るべし。
一 吾々は、己が力を誇示せず、自制の心を持つべし。
一 吾々は、物事において後悔せん事を宗とするべし。
一 吾々は、押忍の精神を宗とするべし。
一 吾々は、世の中の静と動を見極めるべし。
一 吾々は、文武両道を以って有言実行を成すべし。
一 吾々は、日々精進し、正道の道を極めるべし。
少年部 正道八ヶ条
一 人とむやみに争わない事。
一 人の悪口を言わない事。
一 人に偉そうにしない事。
一 人に感謝の気持ちを持つ事。
一 自分の知っている事は、他人にも親切に教えてあげる事。
一 自分の間違いを改め、良いところを伸ばす事。
一 自分自身に自信を持つ事。
一 家族・仲間を大切にする事。
酔考、しょーがねぇな
昨日も書いたが、武を意識して生活するのは中々に慣れないと言うか、すぐ忘れてしまう。いかに安易で機械的な日々を送っていることかを、却って思い知らされる。
大仰な言い方であるが、本当に生きているとはどういうことかと、50を過ぎて改めて考える。10代の頃から何度も考えてきたことであり、年を経るに従い、答えが薄っぺらになってきている感がある。
産業革命以降、人は生産する為に生きている。それ以前は食べる為に生きた。農民や漁民が食物を作り、それを王達がよりうまいものを食べる為に・・・「搾取」という言葉には時代的な抵抗があるが、当たらずとも遠からずで、領民から分捕って豊かさを得ていた。上手いものを食って享楽を作り、本能的な欲望でもって、その奪い合いの戦争もした。ライオンは食べる為の群れを作る。群れと群れは時折衝突するし、オスは群れを奪おうと闘いを挑む。民主主義なるものが成立する以前は、人間の群れも似たようなものだと思う。乱暴な論理かもしれないが、縄張りを広げる為の戦争の繰り返しはそういうもんだろう。
さて民主主義、そして産業革命だ。農地の肥沃さにより違いはあれど、広さにより自ずから限定される生産物の奪い合いよりも、より富を生む生産手段が発明された。ある意味、青天井になり得る技術革新である。とすると、領土ではない。富を生むことのできる人そのものが大事になり、教育や制度がその富の産み方を規定するようになった。昔なら一国の王が他国を征服しなければ得られなかった富が、ある人の発明した技術革新において同等以上得られるようになった。この時点で領土の奪い合いはナンセンスになる。無論人を含めた領土を奪えばよいのだが、近代歴史では却って手に入れた人の才能を減じてしまうか、亡命により得られないことが事実としてある。
思想としての民主主義を成すことができている経済体制は、今、資本主義のみである。かつて領土の奪い合いの闘争が、資本の世界の発明、経営の競争に転じた。それは、弱肉強食であったとしても殺し合いではなく、人が成す生産と、その成長への競争である。つまり人が中心という民主主義だ。民主主義は国民主権云々と規定されているが、それは確かにそうとして、今は生産の変遷から論じている。いずれにせよ人が中心と言うのは悪いことではない。
アラブ世界にて、最近「民主革命」なるものが起きているとは言え、まだ王政や独裁制を許しているのは、所有する土地に膨大な富を生む石油があるからだ。そこでは領土そのものが富であり、人ではない。従って民主主義でもない。
さて、随分話が変な所に行ったが、もともとの疑問に戻ろう。会社に行って働くことは生産活動である。技術開発は企業の浮き沈みをかけた闘いでもある。だから何らかの良きものを生産する為に俺は生きている・・・・・。それでよいのか、という問題提起である。
本当に生きていると言うのはどういうことか、と。若い時には生きる目的や価値を考えた。その考えの中には人の役に立ちたいという思いもあった。人々の幸せの為に尽くせればとか、平和の為だとか、そういうような思想があった。この考えと今従事しているルーチンの生産活動が、素直に繋がらないのである。無論、毎日の仕事を真面目にやることによりなにがしかを生産し、それが本当に微力とは言えども企業のアウトプットに繋がり、結果世の中を豊かにすることになればよい。それを十分意識できるような生き方ができれば幸せなことだ。ただ俺は、毎日目の前のやるべきことに終始せざるを得ない生活をおくっている。組織の生産活動のごく一部の使命を果たすことに終始している。それが俺の生きると言うことであろうか?・・・という疑問である。
ホント――に長い長い文章の説明を経てしまった。実に単純な質問に対して。
人が生きると言うのは、ライオンや猿の縄張り争いから、富を生む技術革新の競争に形が変わり、さりとて本質は、うまいものを食うという表現でもよいが、富を得ることが目的にあり、そういうもんでよいのか、と言うことである。子孫を残す生物としてより有利な環境を作らねばならないということはある。より生産し富を生めば、子孫を養いやすいはずだ。ところが、先進国になればなるほど子供たちの人口が減っていく。不思議なことだ。
ここまで書いては来たが、本日の思索は、既に酔っぱらっていることもあり、保留とする。
もともと俺の考えたかったことは、武の心をもって日常を送るには、である。何かしら自覚して、何かしらその延長上に真理があるような、そんな生き方とは、だ。
大仰な言い方であるが、本当に生きているとはどういうことかと、50を過ぎて改めて考える。10代の頃から何度も考えてきたことであり、年を経るに従い、答えが薄っぺらになってきている感がある。
産業革命以降、人は生産する為に生きている。それ以前は食べる為に生きた。農民や漁民が食物を作り、それを王達がよりうまいものを食べる為に・・・「搾取」という言葉には時代的な抵抗があるが、当たらずとも遠からずで、領民から分捕って豊かさを得ていた。上手いものを食って享楽を作り、本能的な欲望でもって、その奪い合いの戦争もした。ライオンは食べる為の群れを作る。群れと群れは時折衝突するし、オスは群れを奪おうと闘いを挑む。民主主義なるものが成立する以前は、人間の群れも似たようなものだと思う。乱暴な論理かもしれないが、縄張りを広げる為の戦争の繰り返しはそういうもんだろう。
さて民主主義、そして産業革命だ。農地の肥沃さにより違いはあれど、広さにより自ずから限定される生産物の奪い合いよりも、より富を生む生産手段が発明された。ある意味、青天井になり得る技術革新である。とすると、領土ではない。富を生むことのできる人そのものが大事になり、教育や制度がその富の産み方を規定するようになった。昔なら一国の王が他国を征服しなければ得られなかった富が、ある人の発明した技術革新において同等以上得られるようになった。この時点で領土の奪い合いはナンセンスになる。無論人を含めた領土を奪えばよいのだが、近代歴史では却って手に入れた人の才能を減じてしまうか、亡命により得られないことが事実としてある。
思想としての民主主義を成すことができている経済体制は、今、資本主義のみである。かつて領土の奪い合いの闘争が、資本の世界の発明、経営の競争に転じた。それは、弱肉強食であったとしても殺し合いではなく、人が成す生産と、その成長への競争である。つまり人が中心という民主主義だ。民主主義は国民主権云々と規定されているが、それは確かにそうとして、今は生産の変遷から論じている。いずれにせよ人が中心と言うのは悪いことではない。
アラブ世界にて、最近「民主革命」なるものが起きているとは言え、まだ王政や独裁制を許しているのは、所有する土地に膨大な富を生む石油があるからだ。そこでは領土そのものが富であり、人ではない。従って民主主義でもない。
さて、随分話が変な所に行ったが、もともとの疑問に戻ろう。会社に行って働くことは生産活動である。技術開発は企業の浮き沈みをかけた闘いでもある。だから何らかの良きものを生産する為に俺は生きている・・・・・。それでよいのか、という問題提起である。
本当に生きていると言うのはどういうことか、と。若い時には生きる目的や価値を考えた。その考えの中には人の役に立ちたいという思いもあった。人々の幸せの為に尽くせればとか、平和の為だとか、そういうような思想があった。この考えと今従事しているルーチンの生産活動が、素直に繋がらないのである。無論、毎日の仕事を真面目にやることによりなにがしかを生産し、それが本当に微力とは言えども企業のアウトプットに繋がり、結果世の中を豊かにすることになればよい。それを十分意識できるような生き方ができれば幸せなことだ。ただ俺は、毎日目の前のやるべきことに終始せざるを得ない生活をおくっている。組織の生産活動のごく一部の使命を果たすことに終始している。それが俺の生きると言うことであろうか?・・・という疑問である。
ホント――に長い長い文章の説明を経てしまった。実に単純な質問に対して。
人が生きると言うのは、ライオンや猿の縄張り争いから、富を生む技術革新の競争に形が変わり、さりとて本質は、うまいものを食うという表現でもよいが、富を得ることが目的にあり、そういうもんでよいのか、と言うことである。子孫を残す生物としてより有利な環境を作らねばならないということはある。より生産し富を生めば、子孫を養いやすいはずだ。ところが、先進国になればなるほど子供たちの人口が減っていく。不思議なことだ。
ここまで書いては来たが、本日の思索は、既に酔っぱらっていることもあり、保留とする。
もともと俺の考えたかったことは、武の心をもって日常を送るには、である。何かしら自覚して、何かしらその延長上に真理があるような、そんな生き方とは、だ。
2011年4月5日火曜日
武とは?
本日も割合まじめに仕事をして帰ってきたが、帰り道、車を運転しながらホトホト俺は言ってることとやっていることが違う、と反省する。
生活を武の観点でやろう、と以前書いたはずなのにすっかり忘れていた。すっかり忘れて普通の生活をしていた。
武の観点の生活とはなんだろうか?
俺はずっと誤解していたようだ。武を究めれば相手を活かすことにも繋がるというように解釈していた。だが剣はあくまでも自分を守る為であったか・・・ちょっと狭いよね。剣は形而上ではなく物理である。命のやり取りの道具であった。剣を使わず思想を述べていれば、その間に殺される。まあよい。俺は今まで解釈していた、周りの人々を活性化する意味で「活人剣」を用いることとする。そう言うことが武の極致ではなかろうか。
昔、命の軽い時代、そこでは生きる為に武があった。たとえ負けて死ぬ場合でも、それまでには濃い命の時間があったことであろう。
うーむ、やはり武を論じると能天気に幸せを求めることはできないねぇ。厳しい。俺は本当のこと言うとそっちで夢見ていられればよいのであるが。
生活を武の観点でやろう、と以前書いたはずなのにすっかり忘れていた。すっかり忘れて普通の生活をしていた。
武の観点の生活とはなんだろうか?
- へまをすると切腹すべしという緊張感を持って物事にとりかかる?
- 柳生無刀取りの極意で、柔らかく受けに回り相手を決して殺さない。(が制圧する)
- 活人剣の発想で、人を活かす。
俺はずっと誤解していたようだ。武を究めれば相手を活かすことにも繋がるというように解釈していた。だが剣はあくまでも自分を守る為であったか・・・ちょっと狭いよね。剣は形而上ではなく物理である。命のやり取りの道具であった。剣を使わず思想を述べていれば、その間に殺される。まあよい。俺は今まで解釈していた、周りの人々を活性化する意味で「活人剣」を用いることとする。そう言うことが武の極致ではなかろうか。
- 武は己を厳しく律する規範である。
- 好敵手を認め、互いに向上しようとする意志である。
昔、命の軽い時代、そこでは生きる為に武があった。たとえ負けて死ぬ場合でも、それまでには濃い命の時間があったことであろう。
うーむ、やはり武を論じると能天気に幸せを求めることはできないねぇ。厳しい。俺は本当のこと言うとそっちで夢見ていられればよいのであるが。
2011年4月4日月曜日
風邪あけの稽古
風邪も治り、3週間ぶりに土日と連続して道場稽古に行った。
土曜の稽古では、新しく中学生になった子供達が一般部の稽古に参加し、人数は10数人と多かった。オヤジは数人、10人余が中学生だ。彼らは少年部で技を鍛えられており十分に上手い。指導したのは研究熱心で理論派のH指導員だ。稽古もゲーム的要素を入れ込み、おもしろかった。
片手にはめるキックミットを両腕に装着した相手に向かい、1,2パンチを2セット。さらに1,2の後左フックを入れた1,2,3パンチで2セット。互いに右腕にはめ、順突きだけの攻防を2セット。また両腕にはめ、左の前蹴りと左順突きの連続技で2セット。
初心者はともかくきちっとミットにパンチを叩きこむことの練習であり、上級者は間合いを意識して実戦の感覚でやらねばいけない。フットワークも入れるので、軸の安定、かつ上体の脱力と打つ時はノーモーションであること、そして間合いコントロールを考えつつやるべき練習である。左の順突きを当てる時に間合いも測る。相手が下がり、遠目で軽くあたるようだと逆突きは大きく踏み込むべきだし、相手が下がらず、近くで強くあたるならばその場で逆突きを叩きこむ。左の順突きをセンサーの意味も兼ねて出すことを意識しないといけない。1回だけでなく、何度も練習に入れて反復することが必要であろう。今度俺が指導する時もやるようにしよう。
日曜は支部長指揮の稽古であった為、定番メニューであった。基本稽古の後、コンビネーションを入れた移動稽古。1、2パンチで前進。1、2、膝蹴り、1、2、前蹴りで前進。その後は型と約束組手。最後にキックミット1分を2セット。
少年部から上がってきた中学生に回し崩しを教えた。円心空手では引き崩しと言う。芦原空手を源流とする技である。相手の袖口の下を右手で掴むと同時に首根っこに回した左手で相手を引いて崩しながら自らは右に回り込む。芦原空手をやっている時にはよくやった。相手を崩すには押すよりも引く方がより相手のバランスを崩せることを実感して感心したものだ。芦原空手ではそのまま巻き込み投げという技に入る場合もあるが、一般的には崩して下に抑え込んだ相手の顔面に膝蹴りを入れ、その結果相手の顔面が上がると今度は上から肘打ちをするという非常に怖ろしい技である。
土日の稽古は、一部指導にまわることもあったが、ほぼ俺も稽古メニューに参加し、久しぶりにやった内容としては妥当な所であった。基本技と基本的なコンビネーションを十分にやった。これからまた以前考えていた体捌き、つまり腰を寝かして前に出して蹴りの伸びをつくるようにするとか、得意技の右中段からのコンビネーション、またパンチで倒すコンビネーションを思い出しながらやって行けばよい。
久しぶりに道場にあるサンドバッグを稽古の前後に蹴ってみたが、前より足が上がるように思えた。これは動的ストレッチとしてやっている真向法が効いているのではないだろうか。稽古中の横蹴り上げも以前より足が上がっていると思う。いいことだ。
サンドバッグは、以前述べたが、全力で蹴り込み、全力で突いた。それによってまず筋力を鍛える。それができればより脱力とスピードを意識して、当たった瞬間に極めとして筋肉を締めるようにするのだが、本日はそこまではできなかった・・・というより、そのことを忘れていた。特にスピードを出すことに留意するべきである。とかくサンドバッグは当ててから押しこんで破壊力を感じることの方に留意してしまい、空突き・蹴りよりのろくなる。当てる前も速く、当てて絞って極める。これを忘れずにやることだ。最大限のスピードで当て、最大限に筋肉を絞って極めることが肝要。
試合への申し込みがまだ間に合うかどうかは尋ねず、結局春の試合はパスすることにした。うーん、ちょっと逃げた感があるが、稽古を積み重ねて秋には出よう。その時には、今の調子で体を柔らかくして上段を軽く使えるようにして万全で臨むべし。
風呂場でスクワット80回(体洗い時)+50回(洗髪時)をする。
空手の教則ビデオも見たし、久しぶりに空手漬の週末をおくった。
土曜の稽古では、新しく中学生になった子供達が一般部の稽古に参加し、人数は10数人と多かった。オヤジは数人、10人余が中学生だ。彼らは少年部で技を鍛えられており十分に上手い。指導したのは研究熱心で理論派のH指導員だ。稽古もゲーム的要素を入れ込み、おもしろかった。
片手にはめるキックミットを両腕に装着した相手に向かい、1,2パンチを2セット。さらに1,2の後左フックを入れた1,2,3パンチで2セット。互いに右腕にはめ、順突きだけの攻防を2セット。また両腕にはめ、左の前蹴りと左順突きの連続技で2セット。
初心者はともかくきちっとミットにパンチを叩きこむことの練習であり、上級者は間合いを意識して実戦の感覚でやらねばいけない。フットワークも入れるので、軸の安定、かつ上体の脱力と打つ時はノーモーションであること、そして間合いコントロールを考えつつやるべき練習である。左の順突きを当てる時に間合いも測る。相手が下がり、遠目で軽くあたるようだと逆突きは大きく踏み込むべきだし、相手が下がらず、近くで強くあたるならばその場で逆突きを叩きこむ。左の順突きをセンサーの意味も兼ねて出すことを意識しないといけない。1回だけでなく、何度も練習に入れて反復することが必要であろう。今度俺が指導する時もやるようにしよう。
日曜は支部長指揮の稽古であった為、定番メニューであった。基本稽古の後、コンビネーションを入れた移動稽古。1、2パンチで前進。1、2、膝蹴り、1、2、前蹴りで前進。その後は型と約束組手。最後にキックミット1分を2セット。
少年部から上がってきた中学生に回し崩しを教えた。円心空手では引き崩しと言う。芦原空手を源流とする技である。相手の袖口の下を右手で掴むと同時に首根っこに回した左手で相手を引いて崩しながら自らは右に回り込む。芦原空手をやっている時にはよくやった。相手を崩すには押すよりも引く方がより相手のバランスを崩せることを実感して感心したものだ。芦原空手ではそのまま巻き込み投げという技に入る場合もあるが、一般的には崩して下に抑え込んだ相手の顔面に膝蹴りを入れ、その結果相手の顔面が上がると今度は上から肘打ちをするという非常に怖ろしい技である。
土日の稽古は、一部指導にまわることもあったが、ほぼ俺も稽古メニューに参加し、久しぶりにやった内容としては妥当な所であった。基本技と基本的なコンビネーションを十分にやった。これからまた以前考えていた体捌き、つまり腰を寝かして前に出して蹴りの伸びをつくるようにするとか、得意技の右中段からのコンビネーション、またパンチで倒すコンビネーションを思い出しながらやって行けばよい。
久しぶりに道場にあるサンドバッグを稽古の前後に蹴ってみたが、前より足が上がるように思えた。これは動的ストレッチとしてやっている真向法が効いているのではないだろうか。稽古中の横蹴り上げも以前より足が上がっていると思う。いいことだ。
サンドバッグは、以前述べたが、全力で蹴り込み、全力で突いた。それによってまず筋力を鍛える。それができればより脱力とスピードを意識して、当たった瞬間に極めとして筋肉を締めるようにするのだが、本日はそこまではできなかった・・・というより、そのことを忘れていた。特にスピードを出すことに留意するべきである。とかくサンドバッグは当ててから押しこんで破壊力を感じることの方に留意してしまい、空突き・蹴りよりのろくなる。当てる前も速く、当てて絞って極める。これを忘れずにやることだ。最大限のスピードで当て、最大限に筋肉を絞って極めることが肝要。
試合への申し込みがまだ間に合うかどうかは尋ねず、結局春の試合はパスすることにした。うーん、ちょっと逃げた感があるが、稽古を積み重ねて秋には出よう。その時には、今の調子で体を柔らかくして上段を軽く使えるようにして万全で臨むべし。
風呂場でスクワット80回(体洗い時)+50回(洗髪時)をする。
空手の教則ビデオも見たし、久しぶりに空手漬の週末をおくった。
2011年3月30日水曜日
仕事後に昼トレ標準メニュー
ほぼ風邪が治った。さあ昼トレを、となる所だが、昼休みは、その前の会議で結構気疲れしたので、駐車場の車に戻り中で煙草を吸っていた。あーあ、昨年の10月1日から今年の1月末までちゃんと禁煙していたのに、日々数本吸うようになってしまった。元々ヘビースモーカーであり、一日50本吸っていたのに比べれば、まだ本数は少ないが自制しないと元に戻ってしまう。いかんよなー。
仕事を早めに切り上げ、会社のジムでトレーニングをした。いつもの昼トレメニューであるが、時間を気にしなくてよいのでゆっくりしたペースでできた。
真向法としては2秒で吐き1秒で吸う呼吸をすることになっているが、2秒かけてやんわりと曲げようと思ってもあまりできない。ついつい勢いをつけて曲げるので、1秒だ。2秒でやんわりする方が、それほど曲げられなくてもよいのであろうか?確かに1秒で吐きつつ曲げ、1秒で吸うを繰り返すと調子が早いので腰に負担がくるような気がする。
まだ会社の道場が使えず、サンドバッグ稽古ができない。ここ3週間は空手をせずウェイトをやっているのみ。
仕事を早めに切り上げ、会社のジムでトレーニングをした。いつもの昼トレメニューであるが、時間を気にしなくてよいのでゆっくりしたペースでできた。
- V字腹筋50回。背筋60回。後でまた普通の腹筋を80回。
- バタフライ、8,8,6回の3セット。もう8回2セットはできるので本来ならばウェイトを上げたいところだが、残念、既にMAXウェイト。
- 懸垂3種。縦、逆手で各10回、順手で幅広握りは6回で限界だった。
- アダクション、太股を閉じるトレーニング。逆アダクション。各10回2セット
- インクライン・ダンベルフライ、60度くらいに倒した台でダンベルを持ち上げた。割と立たせたので胸よりも肩を鍛える目的。8,8,5で限界。
- 最後に入念に真向法3セット。最後の方は開脚が限界まで広がり、前へ倒す勢いを多少上げると、そのまま腰も上がりうつ伏せ限界開脚となった。腰できっちり折るパターンと、前述のようにするのと交互くらいにする。まあ、かなり開いた。第4体操の、正座して後ろに倒れ、腿の前を伸ばすのはまだまだ。背中をマットにつけて2,3秒で痛くてくずす。開脚前屈は予想通り、動的ストレッチとして伸びていることを実感した。結構結構。
真向法としては2秒で吐き1秒で吸う呼吸をすることになっているが、2秒かけてやんわりと曲げようと思ってもあまりできない。ついつい勢いをつけて曲げるので、1秒だ。2秒でやんわりする方が、それほど曲げられなくてもよいのであろうか?確かに1秒で吐きつつ曲げ、1秒で吸うを繰り返すと調子が早いので腰に負担がくるような気がする。
まだ会社の道場が使えず、サンドバッグ稽古ができない。ここ3週間は空手をせずウェイトをやっているのみ。
弟の試合
本日の昼トレは柔軟主体で、蹴り上げをいくつか。
最近の柔軟は、真向法にのっとってやっている。静的ストレッチではなく、本来の真向法とは違うかもしれないが、動的ストレッチの感覚。体を前に倒すのを2秒位かけなければいけないのだろうが、1秒。倒して起こしてを10回。静的ストレッチをじっくりやる時ほど開脚していないが、それでもだんだんいい所まで近づく。強くはないが倒す勢いで前に上体を曲げるのは、結構気持がよい。静的ストレッチならば倒した状態を無理して持続するので苦痛を感じるが、動的ストレッチならば一瞬なのでかえって気持ちがよい。
勢いをつけて柔軟をすると、筋が驚いて萎縮するのでよくないと書いてある指南書があり、それもそうだと思い、しずしずと少しづつ広げたり曲げたりする静的ストレッチをやっていたが、気持ちのよい感覚でできる範囲までは動的ストレッチの方が効きそうだ。やってみると案外筋も驚いていないので、動的ストレッチで静的ストレッチよりも筋の限界を超えることができると思いだした。明日はもうちょっと過激に柔軟をやってみよう、動的に。
蹴り上げは、前蹴り上げ左右各20本。内回し、外回し、横蹴り上げを左右10本やる。この運動は割合ハードで汗をかく。
さて、本題に入ろう。
俺の弟も空手家である。弟はフルコン空手ではなく、学生時代の空手道部時代からやり続けている伝統派空手の6段である。ずっとやり続けているからもう33年だ。大学空手道部の監督をしながら、県連の幹部や全空連の審判も長く務め、兄に向っては誇らないが、伝統派空手界の中では重きをなす存在になっていることであろうと思う。今すぐ道場を開こうと思えば開けるくらいの指導者である。
今から30年くらい前の、二人とも若い時の話である。
弟の大学時代、試合を見に行ったことがある。当時彼は主将であり、その試合では最後に出る大将であった。5人の団体戦で、大将である弟が出る時には、2対2か、1対1、2引き分けか忘れたが、いずれにせよ弟の勝敗で勝負がきまる。その時、応援している大学の1,2回生の、「これで大丈夫だ、勝った」という声が聞こえて来た。弟は最も強く、常勝の主将であったのであろう、我が弟が後輩にそこまで言わせることに、さらにその後ろで見ている俺は非常に嬉しかったが、実際の所、試合はこれからなのでハラハラしていた。その期待に見事応えられるのであろうか、自分のことのように緊張した。弟の空手を見たのは初めてであり、どの程度強くなっているのかどうかは知らなかった。
試合は、彼の堂々たる闘いであり、圧勝であった。選手達や応援している後輩どもは大喜びである。勝ち名乗りを受ける弟の姿を見て、俺は涙がこぼれてしょうがなかった。後輩の期待と信頼を受け、当たり前のように堂々とそれに応えた弟である、兄貴としてこんなに嬉しいことはなく、主将として頼もしくある弟に感動した。
その場の情景は今でも覚えている。涙で霞んで見える弟の勝ち名乗りであった。
年が1つ離れた弟は、たいてい俺の真似をしてきた。年子であるから、俺とともに近所の同じ子供たちの集団で遊んでいた。そのなかでも一番年下の味噌っかすだった。やはり1つ年上の俺の方が常に力が強いから、よくいじめた。子分のように扱い、言う事を聞かなければいじめていた。
大学に入り、兄貴と同じ空手を始めた。そして強くなった。俺は関西学生で5本の指に入ったが、弟は、ある広域地方の学生チャンピオンになった。俺は会社に入り、それから20年間空手とは離れたが、弟の方はその間もずっと続けた。ただ敬服するのみである。畏友という言葉があるが、畏弟と表現したいもんだ。尊敬する弟である。
男兄弟と言うものは、大人になるとほとんど互いに行き来もせず、実家でたまに会ってもたいしてしゃべらない。俺の方からすれば弟は昔からずっと弟であり、別段話さなくても昔と同じように一緒にいるだけだ。向こうさんはどうだが分からぬが、兄貴の勝手な感覚としては一心同体のような感じだ。
空手の世界で重きを成している弟に、今度会うときは色々空手の話を聞いてみよう。20年のブランクを経て、俺は今、空手修行者である。33年間やり続けてきた弟は、様々に意見指導することができるはずなんだが、奴は兄に向ってはそっけない。困ったもんである。
と言っても、52歳になる熟年がキラキラ目を輝かしながら、51歳の、これまたいいオヤジに空手の手ほどきを受けるのも、何だか・・・だろうね。
最近の柔軟は、真向法にのっとってやっている。静的ストレッチではなく、本来の真向法とは違うかもしれないが、動的ストレッチの感覚。体を前に倒すのを2秒位かけなければいけないのだろうが、1秒。倒して起こしてを10回。静的ストレッチをじっくりやる時ほど開脚していないが、それでもだんだんいい所まで近づく。強くはないが倒す勢いで前に上体を曲げるのは、結構気持がよい。静的ストレッチならば倒した状態を無理して持続するので苦痛を感じるが、動的ストレッチならば一瞬なのでかえって気持ちがよい。
勢いをつけて柔軟をすると、筋が驚いて萎縮するのでよくないと書いてある指南書があり、それもそうだと思い、しずしずと少しづつ広げたり曲げたりする静的ストレッチをやっていたが、気持ちのよい感覚でできる範囲までは動的ストレッチの方が効きそうだ。やってみると案外筋も驚いていないので、動的ストレッチで静的ストレッチよりも筋の限界を超えることができると思いだした。明日はもうちょっと過激に柔軟をやってみよう、動的に。
蹴り上げは、前蹴り上げ左右各20本。内回し、外回し、横蹴り上げを左右10本やる。この運動は割合ハードで汗をかく。
さて、本題に入ろう。
俺の弟も空手家である。弟はフルコン空手ではなく、学生時代の空手道部時代からやり続けている伝統派空手の6段である。ずっとやり続けているからもう33年だ。大学空手道部の監督をしながら、県連の幹部や全空連の審判も長く務め、兄に向っては誇らないが、伝統派空手界の中では重きをなす存在になっていることであろうと思う。今すぐ道場を開こうと思えば開けるくらいの指導者である。
今から30年くらい前の、二人とも若い時の話である。
弟の大学時代、試合を見に行ったことがある。当時彼は主将であり、その試合では最後に出る大将であった。5人の団体戦で、大将である弟が出る時には、2対2か、1対1、2引き分けか忘れたが、いずれにせよ弟の勝敗で勝負がきまる。その時、応援している大学の1,2回生の、「これで大丈夫だ、勝った」という声が聞こえて来た。弟は最も強く、常勝の主将であったのであろう、我が弟が後輩にそこまで言わせることに、さらにその後ろで見ている俺は非常に嬉しかったが、実際の所、試合はこれからなのでハラハラしていた。その期待に見事応えられるのであろうか、自分のことのように緊張した。弟の空手を見たのは初めてであり、どの程度強くなっているのかどうかは知らなかった。
試合は、彼の堂々たる闘いであり、圧勝であった。選手達や応援している後輩どもは大喜びである。勝ち名乗りを受ける弟の姿を見て、俺は涙がこぼれてしょうがなかった。後輩の期待と信頼を受け、当たり前のように堂々とそれに応えた弟である、兄貴としてこんなに嬉しいことはなく、主将として頼もしくある弟に感動した。
その場の情景は今でも覚えている。涙で霞んで見える弟の勝ち名乗りであった。
年が1つ離れた弟は、たいてい俺の真似をしてきた。年子であるから、俺とともに近所の同じ子供たちの集団で遊んでいた。そのなかでも一番年下の味噌っかすだった。やはり1つ年上の俺の方が常に力が強いから、よくいじめた。子分のように扱い、言う事を聞かなければいじめていた。
大学に入り、兄貴と同じ空手を始めた。そして強くなった。俺は関西学生で5本の指に入ったが、弟は、ある広域地方の学生チャンピオンになった。俺は会社に入り、それから20年間空手とは離れたが、弟の方はその間もずっと続けた。ただ敬服するのみである。畏友という言葉があるが、畏弟と表現したいもんだ。尊敬する弟である。
男兄弟と言うものは、大人になるとほとんど互いに行き来もせず、実家でたまに会ってもたいしてしゃべらない。俺の方からすれば弟は昔からずっと弟であり、別段話さなくても昔と同じように一緒にいるだけだ。向こうさんはどうだが分からぬが、兄貴の勝手な感覚としては一心同体のような感じだ。
空手の世界で重きを成している弟に、今度会うときは色々空手の話を聞いてみよう。20年のブランクを経て、俺は今、空手修行者である。33年間やり続けてきた弟は、様々に意見指導することができるはずなんだが、奴は兄に向ってはそっけない。困ったもんである。
と言っても、52歳になる熟年がキラキラ目を輝かしながら、51歳の、これまたいいオヤジに空手の手ほどきを受けるのも、何だか・・・だろうね。
2011年3月29日火曜日
闘争心というもの
春の大会が近付いていることに気がついた。さて今回は出るかどうか。まだ少し風邪気味で、この2週間稽古をしていない為、どうも気が進まぬ。昨年の春は参加した。今週末道場に行って申し込んだとしてまだ間に合うだろうか。間に合うなら出よう、そうでないならパスかね。なんと他力本願な。
試合があるといつも出ようか出るまいか悩む。たいていの場合は、出ないと逃げているような気がして出る方に落ち着く。ただ、出るからには十分な稽古をすべきであり、それで初めて技を試す、ということになる。2年ほど前、ろくすっぽ稽古しないで、段々年をとるから、出られる時にともかく出ておこうとして、出た。そうした時には、ものの見事に上段蹴りを喰らい、一瞬気を失ったように手をつき、技ありをとられて敗退した。あんなことは初めてだった。当たり所がよければ、威力がなくても気を失う。
その試合は、後で非常に考えさせられるものになった。当時50歳で茶帯。相手は40代前半の他流派の黒帯だった。上段蹴りを見事に喰らうまでは、体格に勝る俺の方が押していた。その後、蹴りを喰らい気がついた時にはマットに手をついていた。顔面のどこに当たったのかも分からない。どこも怪我をしていなかった。もうびっくりである。技ありを取られた後、初体験でびっくりしたことと、もうこの上段を喰らうわけにはいかないとして、慎重な試合運びになった。そして明かなる判定負け。
終わってからとことん自覚したことが、もう俺には闘争心がない、ということであった。
技ありを取られたからには、一本をとろうとして攻勢に出ない限り試合で勝つことはない。その時の俺は「この野郎、やり返してやる!」というような気概は毛頭なく、上段蹴りを2度喰らうわけにはいかんとして慎重な試合運びになった。これでは勝てるわけがない。また闘っているわけでもないと言える。闘う大本の闘争心がないのだ。終わってみてそう自覚した時に、俺は本当にがっくりきた。学生時代・・・、十分闘った。フルコンを始めて、それまでの試合では勝ったり負けたりしつつも闘ってきた。しかしその試合だけは闘うことを途中で止めていたことになる。それは闘争心がないからだ。
その自覚があまりにショックで、その後2カ月ほど道場に行かなかった。闘争心がなければ空手をやる必要はない。闘う意味も分からなくなった。年をとったいいオヤジとしては、闘いで相手を傷つけたくはないし、自分もあえて傷つきたくはない。では何で空手をやるんだ?という問いである。
長く働いてきたからそこそこの蓄えもある、家もある。やるべき仕事もある。なるべくよい人間関係を保って仕事に家庭に居たいと思う。そういう人間が、空手の闘いの試合場に立ったとして、相手を倒すべく闘うものであろうか・・・。
2か月程経ってそれなりに稽古を再開し、ある時極真の増田師範の書いた本を読んだ。試合は相手をリスペクトして闘う、と書いてあった。自分も稽古を積んできた。相手も積んできている。その互いの技を競い合えることは幸せなことである。その相手をリスペクトして、全力で闘う、と言うようなことだったと解釈している。「これだ!」と思い、きちんと空手を続けることにした。試合に必要なことは、闘争心ではなく、相手をリスペクトして技を競うことである、と。
小説で描かれる剣の達人同士の立ちあいは、そのような雰囲気がある。
今、もう一つの原始的なことを最近ようやく想う。昔は分かっていたんだが、年を経て落ち着いて忘れていたことである。それは、闘争心とは自分より強いものに向かっていく気概である、ということ。仕事に家庭に、既に落ち着いてしまい、これでよしとして特に不満のない俺にとっては、確かに闘争心たるものはなかった。空手の試合でそのことが現れた。ボクシングの輪島選手は、自分より強い相手と闘った時、やり込められながら一発でも返してやるぞ、と爛々として狙い、一発返せば満足してノックダウンされたそうな。これが闘争心である。強い相手に向かい、全力をもって一発返すことである。
空手も仕事も、落ち着いてはいけない。もっともっと上を目指すべきである。為すべきことは限りなくあり、そこに横たわる多くの困難に立ち向かう気概、それが闘争心である。
若い時はこんな理屈をひねる必要はまったくなく、試合で負ければ悔しく、今度こそは勝つと意気軒昂であった。年をとると理屈がいる。正しい理屈であれば・・・、励む。
試合があるといつも出ようか出るまいか悩む。たいていの場合は、出ないと逃げているような気がして出る方に落ち着く。ただ、出るからには十分な稽古をすべきであり、それで初めて技を試す、ということになる。2年ほど前、ろくすっぽ稽古しないで、段々年をとるから、出られる時にともかく出ておこうとして、出た。そうした時には、ものの見事に上段蹴りを喰らい、一瞬気を失ったように手をつき、技ありをとられて敗退した。あんなことは初めてだった。当たり所がよければ、威力がなくても気を失う。
その試合は、後で非常に考えさせられるものになった。当時50歳で茶帯。相手は40代前半の他流派の黒帯だった。上段蹴りを見事に喰らうまでは、体格に勝る俺の方が押していた。その後、蹴りを喰らい気がついた時にはマットに手をついていた。顔面のどこに当たったのかも分からない。どこも怪我をしていなかった。もうびっくりである。技ありを取られた後、初体験でびっくりしたことと、もうこの上段を喰らうわけにはいかないとして、慎重な試合運びになった。そして明かなる判定負け。
終わってからとことん自覚したことが、もう俺には闘争心がない、ということであった。
技ありを取られたからには、一本をとろうとして攻勢に出ない限り試合で勝つことはない。その時の俺は「この野郎、やり返してやる!」というような気概は毛頭なく、上段蹴りを2度喰らうわけにはいかんとして慎重な試合運びになった。これでは勝てるわけがない。また闘っているわけでもないと言える。闘う大本の闘争心がないのだ。終わってみてそう自覚した時に、俺は本当にがっくりきた。学生時代・・・、十分闘った。フルコンを始めて、それまでの試合では勝ったり負けたりしつつも闘ってきた。しかしその試合だけは闘うことを途中で止めていたことになる。それは闘争心がないからだ。
その自覚があまりにショックで、その後2カ月ほど道場に行かなかった。闘争心がなければ空手をやる必要はない。闘う意味も分からなくなった。年をとったいいオヤジとしては、闘いで相手を傷つけたくはないし、自分もあえて傷つきたくはない。では何で空手をやるんだ?という問いである。
長く働いてきたからそこそこの蓄えもある、家もある。やるべき仕事もある。なるべくよい人間関係を保って仕事に家庭に居たいと思う。そういう人間が、空手の闘いの試合場に立ったとして、相手を倒すべく闘うものであろうか・・・。
2か月程経ってそれなりに稽古を再開し、ある時極真の増田師範の書いた本を読んだ。試合は相手をリスペクトして闘う、と書いてあった。自分も稽古を積んできた。相手も積んできている。その互いの技を競い合えることは幸せなことである。その相手をリスペクトして、全力で闘う、と言うようなことだったと解釈している。「これだ!」と思い、きちんと空手を続けることにした。試合に必要なことは、闘争心ではなく、相手をリスペクトして技を競うことである、と。
小説で描かれる剣の達人同士の立ちあいは、そのような雰囲気がある。
今、もう一つの原始的なことを最近ようやく想う。昔は分かっていたんだが、年を経て落ち着いて忘れていたことである。それは、闘争心とは自分より強いものに向かっていく気概である、ということ。仕事に家庭に、既に落ち着いてしまい、これでよしとして特に不満のない俺にとっては、確かに闘争心たるものはなかった。空手の試合でそのことが現れた。ボクシングの輪島選手は、自分より強い相手と闘った時、やり込められながら一発でも返してやるぞ、と爛々として狙い、一発返せば満足してノックダウンされたそうな。これが闘争心である。強い相手に向かい、全力をもって一発返すことである。
空手も仕事も、落ち着いてはいけない。もっともっと上を目指すべきである。為すべきことは限りなくあり、そこに横たわる多くの困難に立ち向かう気概、それが闘争心である。
若い時はこんな理屈をひねる必要はまったくなく、試合で負ければ悔しく、今度こそは勝つと意気軒昂であった。年をとると理屈がいる。正しい理屈であれば・・・、励む。
2011年3月28日月曜日
中国映画の「至福の時」
風邪はかなり回復してきたが、まだ道場稽古に行ける状態ではないので今週末は稽古を休み、グータラとビデオとTVを観ながら療養に努めた。
中国映画の「至福の時」を観る。以前録画しておいたやつだ。
失業中の貧しい中年の工員が、目の見えない不幸な少女の面倒をみるはめになり、金持ちであるとうそをついた手前、そのままだましつつ面倒をみる。少女はそれに気がついていたが、工員と仲間たちの善意による嘘を信じたふりをしてしばらく過ごす。ただ、彼らの負担になるのに忍びられなくなり、その工員のもとを去る。その日に工員は交通事故にあい死ぬことになる。少女は工員の死を知らないし、工員も少女が出て言ったことを知らない。あてもなく街を歩く少女の姿で映画は終わる。
喜劇調かつ哀しい、感動する映画ではあるが、疑問もいくつか残る映画であった。盲目の少女が登場するちゅうのは、そう言えばチャップリンに似た映画があった。
筋書きの無理はあれど、俺が着目し感動したのは、少女の誇り高さである。継母から厄介払いされる形で工員に渡され、少女を捨てて出て行った実の父の手紙にも何ら心配される記述のなかったことも知った。天涯孤独であることを知り、かつ盲目である。もっとも弱い存在である彼女が、工員とその貧しい仲間達の嘘の中に暮らすが、彼らのやさしさを理解して、「至福の時」を過ごしたと置き手紙に書いて出て行った。自ら処して自ら生きようとする誇り高さである。
継母の家を追い出された盲目の彼女は最も弱い存在である。失業した工員たちも貧しく弱い存在であるが、彼女は彼らに保護されたとしても然るべき存在である。なぜまた出ていかねばならないのか。ここに現代の俺の感覚では、非日常的な映画の筋書きを作った無理を感じざるを得ないのだが、少女を演じた役者の凛とした強さみたいなものが伝わり、その少女に感動を覚えた。素晴らしい役者である。最も弱い少女が、もっとも強くてやさしい女神みたいに見える。不幸で哀しい存在ではあるが。
生きることの困難な最低のラインに居て―盲目で天涯孤独―、死を覚悟した存在の強さであろう。その覚悟の後に、彼らの優しさに出会った。しかし、彼らの無理をした保護の中に生きることをよしとせず、彼らの為も思い、自ら出て行った。こんな筋書きは普通はない。だが映画である。
中年の工員は、失業中で貧しい俗物的な市民である。自分が結婚をしたくて、その相手に好かれようと思い、相手の言うことを何でも聞いた。金持ちに見せかけるような嘘もついた。その相手というのが少女の継母であり、意地悪な性悪女であり、体よく少女を追い出して工員にあずけた訳だ。
貧しい中年工員は、根っこの所では優しく、読んでくれと渡された少女の実父の手紙に少女を心配する記述が一切なかった為に、自らその文章を書き、少女に読んで聞かせようとした。この工員の普通人としての優しさも、人の世にあるべきものとして描いている。
彼は、性悪女に振られた後はもう嘘を続ける必要はないので、いずれ生活の糧をともかくも何とか得、少女を自分の娘として暮らすことになるはずであったことだろう。そうあればよかった。しかし、実の父に替わり手紙の続きを書いて帰る途中に交通事故にあってしまう。その時、少女は既に、捜さないで、ということと「至福の時」を過ごした感謝のメッセージを録音して出て行った後であった。
貧しいことは楽しいことではない。せめて人の心のハッピーエンドになればよいものを、工員の死と少女の出奔で終わる、何とも哀しい物語ではある。
中国映画の「至福の時」を観る。以前録画しておいたやつだ。
失業中の貧しい中年の工員が、目の見えない不幸な少女の面倒をみるはめになり、金持ちであるとうそをついた手前、そのままだましつつ面倒をみる。少女はそれに気がついていたが、工員と仲間たちの善意による嘘を信じたふりをしてしばらく過ごす。ただ、彼らの負担になるのに忍びられなくなり、その工員のもとを去る。その日に工員は交通事故にあい死ぬことになる。少女は工員の死を知らないし、工員も少女が出て言ったことを知らない。あてもなく街を歩く少女の姿で映画は終わる。
喜劇調かつ哀しい、感動する映画ではあるが、疑問もいくつか残る映画であった。盲目の少女が登場するちゅうのは、そう言えばチャップリンに似た映画があった。
筋書きの無理はあれど、俺が着目し感動したのは、少女の誇り高さである。継母から厄介払いされる形で工員に渡され、少女を捨てて出て行った実の父の手紙にも何ら心配される記述のなかったことも知った。天涯孤独であることを知り、かつ盲目である。もっとも弱い存在である彼女が、工員とその貧しい仲間達の嘘の中に暮らすが、彼らのやさしさを理解して、「至福の時」を過ごしたと置き手紙に書いて出て行った。自ら処して自ら生きようとする誇り高さである。
継母の家を追い出された盲目の彼女は最も弱い存在である。失業した工員たちも貧しく弱い存在であるが、彼女は彼らに保護されたとしても然るべき存在である。なぜまた出ていかねばならないのか。ここに現代の俺の感覚では、非日常的な映画の筋書きを作った無理を感じざるを得ないのだが、少女を演じた役者の凛とした強さみたいなものが伝わり、その少女に感動を覚えた。素晴らしい役者である。最も弱い少女が、もっとも強くてやさしい女神みたいに見える。不幸で哀しい存在ではあるが。
生きることの困難な最低のラインに居て―盲目で天涯孤独―、死を覚悟した存在の強さであろう。その覚悟の後に、彼らの優しさに出会った。しかし、彼らの無理をした保護の中に生きることをよしとせず、彼らの為も思い、自ら出て行った。こんな筋書きは普通はない。だが映画である。
中年の工員は、失業中で貧しい俗物的な市民である。自分が結婚をしたくて、その相手に好かれようと思い、相手の言うことを何でも聞いた。金持ちに見せかけるような嘘もついた。その相手というのが少女の継母であり、意地悪な性悪女であり、体よく少女を追い出して工員にあずけた訳だ。
貧しい中年工員は、根っこの所では優しく、読んでくれと渡された少女の実父の手紙に少女を心配する記述が一切なかった為に、自らその文章を書き、少女に読んで聞かせようとした。この工員の普通人としての優しさも、人の世にあるべきものとして描いている。
彼は、性悪女に振られた後はもう嘘を続ける必要はないので、いずれ生活の糧をともかくも何とか得、少女を自分の娘として暮らすことになるはずであったことだろう。そうあればよかった。しかし、実の父に替わり手紙の続きを書いて帰る途中に交通事故にあってしまう。その時、少女は既に、捜さないで、ということと「至福の時」を過ごした感謝のメッセージを録音して出て行った後であった。
貧しいことは楽しいことではない。せめて人の心のハッピーエンドになればよいものを、工員の死と少女の出奔で終わる、何とも哀しい物語ではある。
2011年3月27日日曜日
生活=武?
沖縄空手のサイトを見て過ごす。以前はここに、新里勝彦師範の指導する平安1からの型ビデオがあったが、それが見られなくなって残念だ。アーカイブの中に見出しとしてはあったのだが、ビデオが再生できなくなっている。OSかメディアプレーヤーのバージョン違いであろうか。
と、残念に思っていたら、平安1はYouTubeにあった。
新里師範指導の平安は、こうなんちゅうか、瞬間瞬間に腰と腕のしなりが効いていて、非常に興味深かった。受けと蹴りを1,2とやるのではなく、本来は同時。その通りであると納得する。我々の習う現代の平安型は、どうも体操臭いので実はあまり覚える気が起らぬ。それじゃあイカンのだが。師自ら演じるナイファンチも見ものである。
宇城憲治師範の空手も大変なものである。「身体脳」、「気」をテーマにした本をいくつも出しておられるが、一種の天才ではないかと思う。世の中には、ものすごく勘がよくて反応が早くて、相手の動く先を制して動くことができる人がいる。そういうことは天性のものがあるような気がしてしょうがない。いくらそれを身体脳であるとして理論的に説明されたとしても、凡人が出来るわけではない。いや、おそらく必死の修練をすればできるのであろう。だがそれは、冨名腰義珍先生が、少年のころナイファンチばかりの稽古を一心に3年間(?)やったような、動きを体の自動的な反応の一部とする、ありていに言えば条件反射というものを身につける、現代の感覚で言えば気の遠くなるような繰り返しが必要なのであろう。そうする内に、自覚的な武道の動きが無意識になり、生活の動きのすべてにあるような、そんな感じなんだろうね。これは、趣味としての空手を無論超えている。だが、これで初めて武道を活かす、ということ? それは小生としてもOKなんだが、ではその気の遠くなるような繰り返し以外の、科学的で具体的なやり方は?と言うと、どうもまだ分からぬ。
宮本武蔵に代表される昔の剣豪は、闘いと修練が生活であった。生活しながら武を常に考え、立ちい振る舞いに入れ込んでいたことであろう。でなければ負けて死ぬ。生活=武、という世界の中に達人というものがあった。生き延びてきた武人は、そういう人々である。それ以外は負けて死んでしまっていたに違いない。
小生は学生時代、非常に空手に打ち込んだ、と思う。人よりは相対的に。それから20年のブランクを経て、楽しくやれる空手と言うものを芦原空手に入門してから初めて知った。それはそれは、すごい喜びであった、本当に。昔、勝たねばならない、修練して成長しなければならないと、オーバーに言えば強迫観念を持ってやっていた空手が、かくも楽しいものであったとは、と初めて知った。それはコペルニクス的転回であり、新発見であり感謝するものである。しかし、楽しいということは、余技として、趣味としてあるから楽しい訳である。そこに己の全存在をかけなければならないならば、その時はまったく別のものになる。「求道」というものになると表現すべきか。
若い時、楽しくなくてもよい、おもしろければ、と論じた、求道的「おもしろさ」の世界だ。その道に入ると途端に、相対性ではなく絶対性の世界となる。道は遥かに遠く、求め修練してなお途上であるという感覚。だからおもしろい、と。若い時はいつもそう感じていた。
やはり空手をちゃんとやる為には、そういう世界の住人にならなければいけないのであろうか。せめて「おもしろく」やるには、と年とった今は、色々工夫して考えてみるだけはしてみよう。小手先であることが分かり切っていたとしても。小手先を毎日続ければ、それはそれで武になリ得るのではないか。
命のやり取りをする必要はない。遥かな道の途上であることに、先を急いで焦る必要はない。毎日の新発見を「武」の考えのもとで為せれば、まあよいのではないか、と。
と、残念に思っていたら、平安1はYouTubeにあった。
新里師範指導の平安は、こうなんちゅうか、瞬間瞬間に腰と腕のしなりが効いていて、非常に興味深かった。受けと蹴りを1,2とやるのではなく、本来は同時。その通りであると納得する。我々の習う現代の平安型は、どうも体操臭いので実はあまり覚える気が起らぬ。それじゃあイカンのだが。師自ら演じるナイファンチも見ものである。
宇城憲治師範の空手も大変なものである。「身体脳」、「気」をテーマにした本をいくつも出しておられるが、一種の天才ではないかと思う。世の中には、ものすごく勘がよくて反応が早くて、相手の動く先を制して動くことができる人がいる。そういうことは天性のものがあるような気がしてしょうがない。いくらそれを身体脳であるとして理論的に説明されたとしても、凡人が出来るわけではない。いや、おそらく必死の修練をすればできるのであろう。だがそれは、冨名腰義珍先生が、少年のころナイファンチばかりの稽古を一心に3年間(?)やったような、動きを体の自動的な反応の一部とする、ありていに言えば条件反射というものを身につける、現代の感覚で言えば気の遠くなるような繰り返しが必要なのであろう。そうする内に、自覚的な武道の動きが無意識になり、生活の動きのすべてにあるような、そんな感じなんだろうね。これは、趣味としての空手を無論超えている。だが、これで初めて武道を活かす、ということ? それは小生としてもOKなんだが、ではその気の遠くなるような繰り返し以外の、科学的で具体的なやり方は?と言うと、どうもまだ分からぬ。
宮本武蔵に代表される昔の剣豪は、闘いと修練が生活であった。生活しながら武を常に考え、立ちい振る舞いに入れ込んでいたことであろう。でなければ負けて死ぬ。生活=武、という世界の中に達人というものがあった。生き延びてきた武人は、そういう人々である。それ以外は負けて死んでしまっていたに違いない。
小生は学生時代、非常に空手に打ち込んだ、と思う。人よりは相対的に。それから20年のブランクを経て、楽しくやれる空手と言うものを芦原空手に入門してから初めて知った。それはそれは、すごい喜びであった、本当に。昔、勝たねばならない、修練して成長しなければならないと、オーバーに言えば強迫観念を持ってやっていた空手が、かくも楽しいものであったとは、と初めて知った。それはコペルニクス的転回であり、新発見であり感謝するものである。しかし、楽しいということは、余技として、趣味としてあるから楽しい訳である。そこに己の全存在をかけなければならないならば、その時はまったく別のものになる。「求道」というものになると表現すべきか。
若い時、楽しくなくてもよい、おもしろければ、と論じた、求道的「おもしろさ」の世界だ。その道に入ると途端に、相対性ではなく絶対性の世界となる。道は遥かに遠く、求め修練してなお途上であるという感覚。だからおもしろい、と。若い時はいつもそう感じていた。
やはり空手をちゃんとやる為には、そういう世界の住人にならなければいけないのであろうか。せめて「おもしろく」やるには、と年とった今は、色々工夫して考えてみるだけはしてみよう。小手先であることが分かり切っていたとしても。小手先を毎日続ければ、それはそれで武になリ得るのではないか。
命のやり取りをする必要はない。遥かな道の途上であることに、先を急いで焦る必要はない。毎日の新発見を「武」の考えのもとで為せれば、まあよいのではないか、と。
2011年3月26日土曜日
風邪の日 その2
若い時は、出来事や事件を求めた。変化に心踊らした。たとえそれが自分に不利益なものであったとしても好しとして、明日への希望を想った。明日が今日よりよくなる保証は何もないくせに、根拠なくよくなるような気がしていた。
楽しくなくてもよい、おもしろければよい、とはよく言っていた。若者は退屈な平和よりも血のたぎる闘争を好む、とはよくあるセリフである。
年を経て、今はわずか1行で表せる平和な生活をしている。
朝起きて会社へ行き、仕事をして家へ帰る。
そういう平穏な日常が非常に貴重であることを既に知っている。だが、男の心情としては波乱を求めたい。ところが、守るべき人を失うことや、蓄えた財も失うのは困る。一般に、小生のような小物の考えることは、自分が安全な中に居た上で波乱を求めるという、矛盾した望みとなる。
感受性に富む若い頃は、空手の精神性を感じていた。今は?健康の為、闘いのゲームの為か・・・。精神性は、かけらもなかろう。武道としての空手を考え抜いた若い時期がある。今でも考えようとすれば考えられる。だがそれは、若い時と同じ論理を、若い時のような熱はなく、辿るだけになることを知っている。
武道としての空手を実践することは、1日を武道家として生きることである。
武道の本質は死と共に生きることである。死ぬことを奨励していることではない。死んでもよい覚悟で最大限の生を出す、ということ。朝に道を知れば夕に死すとも悔いなしの感覚でもよい。この感覚において、波乱と平穏、闘争と平和と言うものは、わざわざ意味付けする必要のないものとなる。
と、書きつつ、かような精神の激しさは、この20年間思い出したことがない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
風邪は良くも悪くもならぬ平衡状態。本日の昼トレは、真向法を4サイクル、前蹴り上げ左右10本、内回し、外回し左右各10本。横蹴り上げ左右10本。まあ、軽く流した程度である。
先週末は風邪で道場に行っていないし、会社にある道場も、3月11日の地震以来使用禁止状態にあり、空手の稽古をしばらくしていない。今の風邪の状態だと、今週末も道場稽古はしない方がよさそうだ。「健康第一」の考え・・・だね。
ふーむ、型の研究をまとめてやるか。
楽しくなくてもよい、おもしろければよい、とはよく言っていた。若者は退屈な平和よりも血のたぎる闘争を好む、とはよくあるセリフである。
年を経て、今はわずか1行で表せる平和な生活をしている。
朝起きて会社へ行き、仕事をして家へ帰る。
そういう平穏な日常が非常に貴重であることを既に知っている。だが、男の心情としては波乱を求めたい。ところが、守るべき人を失うことや、蓄えた財も失うのは困る。一般に、小生のような小物の考えることは、自分が安全な中に居た上で波乱を求めるという、矛盾した望みとなる。
感受性に富む若い頃は、空手の精神性を感じていた。今は?健康の為、闘いのゲームの為か・・・。精神性は、かけらもなかろう。武道としての空手を考え抜いた若い時期がある。今でも考えようとすれば考えられる。だがそれは、若い時と同じ論理を、若い時のような熱はなく、辿るだけになることを知っている。
武道としての空手を実践することは、1日を武道家として生きることである。
武道の本質は死と共に生きることである。死ぬことを奨励していることではない。死んでもよい覚悟で最大限の生を出す、ということ。朝に道を知れば夕に死すとも悔いなしの感覚でもよい。この感覚において、波乱と平穏、闘争と平和と言うものは、わざわざ意味付けする必要のないものとなる。
と、書きつつ、かような精神の激しさは、この20年間思い出したことがない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
風邪は良くも悪くもならぬ平衡状態。本日の昼トレは、真向法を4サイクル、前蹴り上げ左右10本、内回し、外回し左右各10本。横蹴り上げ左右10本。まあ、軽く流した程度である。
先週末は風邪で道場に行っていないし、会社にある道場も、3月11日の地震以来使用禁止状態にあり、空手の稽古をしばらくしていない。今の風邪の状態だと、今週末も道場稽古はしない方がよさそうだ。「健康第一」の考え・・・だね。
ふーむ、型の研究をまとめてやるか。
2011年3月25日金曜日
風邪の日
東日本大震災の死者・行方不明者が2万7352人。
秋葉原無差別17人殺傷事件の犯人、加藤被告に死刑判決が下る。
電力供給不足の計画停電が続く。我が家は午後6時半から8時半頃まで停電していたそうな。
震災で亡くなった親戚の遺体確認と葬式をした知り合いが被災地から戻ってきた。火葬場はどこも満杯で、山形まで運び来週荼毘にふす予定になっているとのこと。車で岩手県迄の往復強行軍であり、疲れと悲しさが同居している。そしてポツリ「被災地は異臭がしていた。」 死骸の臭いかと尋ねれば、そうではなく、海の生臭い匂いと生活生ごみの混ざったような匂いらしい。
小生の尊敬する藤原新也氏のブログを読む。氏は援助物資を車に積み込んで、被災地に行っていた。氏は観る人である。心眼で観る恐い人だ。円顔地蔵を描いて子供たちにあげたら、思いの外喜ばれたとのこと。言葉の一つ一つが核を捉えた情景であり、心情である「気」が入っている。
・・・・・・・・・・・
小生の風邪はこれで1週間になる。年をとると治りにくい。咳き込むが熱がないので、またぞろ昼のウェイトトレーニングを行う。今日は1週間ぶりにスクワット100回もやった。足の疲れが今は心地よい。他は定番メニュー。
昨日もウェイトやったので連日だ。明日は柔軟と蹴上げ中心で行おう。
昼の内は元気なんだが、夜になると疲れも出るのか、昼の運動で風邪が悪化したのか、頻繁に咳き込んだ。午後8時半頃退社。うちの会社は残業ばんばんやるので、まだ大勢が残って仕事していた。右に倣えの日本人的感覚を持っている小生としては、早く帰るのは気が引ける。
風邪をひきかけた先週は、日々8時間は寝るようにした。休みの昼間も寝て過ごす等とにかくよく寝ることに努めた。それでも多少熱が出て進行したが、まあよく寝ることで悪化は防いだ。熱が下がると元通りの睡眠6時間程度になり、治る治らないの境でしばらく過ごすのがいつものことだ。よく寝るのを続けりゃいいのに、とは思う。
秋葉原無差別17人殺傷事件の犯人、加藤被告に死刑判決が下る。
電力供給不足の計画停電が続く。我が家は午後6時半から8時半頃まで停電していたそうな。
震災で亡くなった親戚の遺体確認と葬式をした知り合いが被災地から戻ってきた。火葬場はどこも満杯で、山形まで運び来週荼毘にふす予定になっているとのこと。車で岩手県迄の往復強行軍であり、疲れと悲しさが同居している。そしてポツリ「被災地は異臭がしていた。」 死骸の臭いかと尋ねれば、そうではなく、海の生臭い匂いと生活生ごみの混ざったような匂いらしい。
小生の尊敬する藤原新也氏のブログを読む。氏は援助物資を車に積み込んで、被災地に行っていた。氏は観る人である。心眼で観る恐い人だ。円顔地蔵を描いて子供たちにあげたら、思いの外喜ばれたとのこと。言葉の一つ一つが核を捉えた情景であり、心情である「気」が入っている。
・・・・・・・・・・・
小生の風邪はこれで1週間になる。年をとると治りにくい。咳き込むが熱がないので、またぞろ昼のウェイトトレーニングを行う。今日は1週間ぶりにスクワット100回もやった。足の疲れが今は心地よい。他は定番メニュー。
- V字腹筋70回。うつ伏せ背筋30回
- バタフライ8,6,5回の3セット
- 懸垂3種。順手で広げて懸垂した時に広背筋が痛くなった。それでも間を空けて、逆手と縦握りで各8回
- ダンベルショルダープレス8回。2セット目は1回も上がらず。負荷が増えたのでしょうがない。
- それと、スクワット100回
- 真向法柔軟
昨日もウェイトやったので連日だ。明日は柔軟と蹴上げ中心で行おう。
昼の内は元気なんだが、夜になると疲れも出るのか、昼の運動で風邪が悪化したのか、頻繁に咳き込んだ。午後8時半頃退社。うちの会社は残業ばんばんやるので、まだ大勢が残って仕事していた。右に倣えの日本人的感覚を持っている小生としては、早く帰るのは気が引ける。
風邪をひきかけた先週は、日々8時間は寝るようにした。休みの昼間も寝て過ごす等とにかくよく寝ることに努めた。それでも多少熱が出て進行したが、まあよく寝ることで悪化は防いだ。熱が下がると元通りの睡眠6時間程度になり、治る治らないの境でしばらく過ごすのがいつものことだ。よく寝るのを続けりゃいいのに、とは思う。
2011年3月23日水曜日
復興
3月23日現在で、「東日本大震災」の死者・行方不明者は2万4124人。避難している人々は26万1008人。戦後未曽有の大災害となった。犠牲者に黙祷を捧げつつ、日本が立ち直れるかどうかの危機の中にあることも自覚する。
この危機から我々はどういう熱を生むのであろうか。復興にかける熱というものがなければ、我々はいずれ老大国と呼ばれるようになるであろう。国の借金が800兆円もある国である。復興はようやくするが、国力のかつてのピークから、かかった費用と労力をマイナスして存在する国になる。
大げさな言い方になることは承知するが、敗戦から復興を遂げ、成長を遂げた原動力は国民の欲望とプライドと熱と志である。今回の大災害から、それらをどれだけ産めるのか、だ。
我々はまた、24時間働けますか、の時を持つのであろうか?あるいは、それなりにきちんと復興し、その時の、既に大国でない「普通」を維持していくのであろうか。
風邪は治りかけではあるが、咳き込む。気管支がかゆくて出る咳だ。こういう風邪は、回復していくのだが1週間ほど咳が続くであろう。
本日は熱が下がったので、それなりの昼トレを行った。いつものウェイトトレーニングメニューを間を空けて無理せずこなした。柔軟をする時間はとれなかった。ダンベルの重量を誰かが増やしたが、気にせず何とか8回する。2セット目は上がらなかったが、まあよい、これからはその重量で行う。負荷を上げるほど筋肉がつき、筋肉がつくのでしだいに回数もこなせるようになる。
いつもならば、本日は仕事を終えてから空手の自主稽古を行う曜日ではあるが、大事をとっておとなしく帰宅した。汗をかいて体が疲れれば、風邪は悪くなるもんね。
この危機から我々はどういう熱を生むのであろうか。復興にかける熱というものがなければ、我々はいずれ老大国と呼ばれるようになるであろう。国の借金が800兆円もある国である。復興はようやくするが、国力のかつてのピークから、かかった費用と労力をマイナスして存在する国になる。
大げさな言い方になることは承知するが、敗戦から復興を遂げ、成長を遂げた原動力は国民の欲望とプライドと熱と志である。今回の大災害から、それらをどれだけ産めるのか、だ。
我々はまた、24時間働けますか、の時を持つのであろうか?あるいは、それなりにきちんと復興し、その時の、既に大国でない「普通」を維持していくのであろうか。
風邪は治りかけではあるが、咳き込む。気管支がかゆくて出る咳だ。こういう風邪は、回復していくのだが1週間ほど咳が続くであろう。
本日は熱が下がったので、それなりの昼トレを行った。いつものウェイトトレーニングメニューを間を空けて無理せずこなした。柔軟をする時間はとれなかった。ダンベルの重量を誰かが増やしたが、気にせず何とか8回する。2セット目は上がらなかったが、まあよい、これからはその重量で行う。負荷を上げるほど筋肉がつき、筋肉がつくのでしだいに回数もこなせるようになる。
いつもならば、本日は仕事を終えてから空手の自主稽古を行う曜日ではあるが、大事をとっておとなしく帰宅した。汗をかいて体が疲れれば、風邪は悪くなるもんね。
2011年3月22日火曜日
左腕の力が半減した時のこと
風邪をひき、熱も多少あり、昼の自主トレを軽くV字腹筋だけで終え、マッサージ機にのって時間つぶしのマッサージを行う。小生、52歳になるがどこも凝ってはおらず、オヨヨ、オヒョヒョと言う具合に、エアやメカでグリグリされるのが痛いくらいだ。
数年前、ひどい肩コリと腕のしびれが数カ月続いたことがある。頸椎の神経を損傷したらしく、左腕の、上へあげる力が、右の半分以下になった。完全に元に戻るには1年もかかった。
ある時、同じようにベンチプレスしているんだが、だんだんその時やっている重さが上がらなくなった。マシンだから接触部分の油が切れて摩擦が大きくなってきたかな?だが、前に持ち上げていた重量が上がらないのはしゃくだ、と。1週間くらい経ってからだろうか、腕のしびれ、肩の痛みを感じて、あれよと言う間に、左腕の力が半減以下。道場稽古の上段受けを30回やるのでさえ、左腕を持ち上げる故に苦労を伴った。
頸椎の3,4,5番目あたりの隙間が小さくなり、医者が言うに、ストレートネックとなり、頸椎のエッジ部分に神経が当たり損傷したのが原因である。1週間前迄は右左同様にウェイトトレーニングをしていたから、左肩や腕の筋肉も右同様に十分立派についている。ところが、腕を上にあげる力、すなわち肩の筋肉の半分が動かなくなったのであろう、まさに力が半減した。そうすると動く筋肉と動きを止めた筋肉が擦れる為であろうか、肩から背中にかけて痛みを伴う激しい肩コリが数か月、さらに煙草を吸うたびに上腕に痺れがはしった。煙草は神経に何らか影響しているんだろうな。
いかに立派な筋肉を持っていても、それを動かす指令を出す神経が働かないと何の役にも立たないということを、大痛感。神経は偉大なり、だ。自分の体をコントロールする脳と神経、人の組織でも司令塔と言われる存在の大事さ、である。
日常生活では肩コリで済むが、こちとら空手家。試合や審査もあるし、左の突きの力が弱くなったら非常に困る。持ち上げる力は半分以下になったが、突きの力は7割くらいの減少で済んではいた。ただ一部の筋肉しか使わないので非常に消耗が早い。力の減衰曲線が急であり、すぐ左腕が疲労した。
症状が出てからこれは大変だと、整形外科3軒、首のカイロプラクティス1軒、整体2軒、怪しい治療法やる所1軒と、半年くらいの間に色々まわった。西洋医学の整形外科はどこも、レントゲンをとり薬をもらうだけ。薬には神経の再生を育むものもあったと覚えているが、非常に胃に悪く、その内飲まなくなった。首のカイロは肩の高さが違うのをある程度直したが、肩コリと痺れは消えず。整体は余計悪くなったような気がする。うつ伏せで寝かされて放っておかれたり、同じ態勢を持続すると肩の硬直と痛みが甚だしく、また揉まれても痛みは消えるわけではない。怪しい指圧マッサージがその時には一番効いた。治療後は肩が軽くなったが、症状が恒久的によくなるわけではなかった。
結局、半年ドタバタ治療を試したが、治療により好転することは一切なく、時間を経る中で神経が少しずつ再生されていったのであろう、痺れはしだいになくなり、肩こりも少しづつ和らぎ、最終的に力が普通に戻るには1年を要した。肩の筋肉が全体的に動き出したな、と感じるまでが1年である。
症状が出た当初は、右の1/3の負荷のダンベルを持ち上げられるだけであり、すぐ筋肉が消耗したが、少しずつ回復し、1年くらいたったある日突然、肩全体の筋肉が動き出したことを感じた。少し不思議な感覚だった。筋肉の消耗の度合いが右と同じ感覚になったのである。全体が動いたとしてもダンベル負荷は右よりずっと軽かったので、持ち上げる力は右の7割程度がフルパワーの筋肉であった。それから3年程経ち、今は右も左も同じ負荷になっている。
最初医者は年のせいでストレートネックになり、云々と説明したが、まあそれもあるだろうが原因は分かっている。当時、小生は首を鍛えるのに凝っていて、首と両足の3点支持のブリッジ、前に倒れるのと仰向けでやるのと両方をやっていた。仰向けから反り返るブリッジは非常に苦しく、それもやるにはやったが、前へ倒れる3点支持ブリッジの方を頻繁にグリグリとやっていた。とすると首の前の筋肉の方がつき、それがよりストレートネックにして行ったのであろう。仰向けブリッジも同じようにやっていれば首の後ろの筋肉もつき、本来の若干反ったウェーブを描く頸椎を維持できたのに。
このことから学んだことは、鍛錬はバランス良くやらねば体を壊すということ。片側の筋肉だけつけるとどこかおかしくなる。腹筋やれば必ず背筋もするべきである。以後首の鍛錬の方は怖くてやってはいない。
数年前、ひどい肩コリと腕のしびれが数カ月続いたことがある。頸椎の神経を損傷したらしく、左腕の、上へあげる力が、右の半分以下になった。完全に元に戻るには1年もかかった。
ある時、同じようにベンチプレスしているんだが、だんだんその時やっている重さが上がらなくなった。マシンだから接触部分の油が切れて摩擦が大きくなってきたかな?だが、前に持ち上げていた重量が上がらないのはしゃくだ、と。1週間くらい経ってからだろうか、腕のしびれ、肩の痛みを感じて、あれよと言う間に、左腕の力が半減以下。道場稽古の上段受けを30回やるのでさえ、左腕を持ち上げる故に苦労を伴った。
頸椎の3,4,5番目あたりの隙間が小さくなり、医者が言うに、ストレートネックとなり、頸椎のエッジ部分に神経が当たり損傷したのが原因である。1週間前迄は右左同様にウェイトトレーニングをしていたから、左肩や腕の筋肉も右同様に十分立派についている。ところが、腕を上にあげる力、すなわち肩の筋肉の半分が動かなくなったのであろう、まさに力が半減した。そうすると動く筋肉と動きを止めた筋肉が擦れる為であろうか、肩から背中にかけて痛みを伴う激しい肩コリが数か月、さらに煙草を吸うたびに上腕に痺れがはしった。煙草は神経に何らか影響しているんだろうな。
いかに立派な筋肉を持っていても、それを動かす指令を出す神経が働かないと何の役にも立たないということを、大痛感。神経は偉大なり、だ。自分の体をコントロールする脳と神経、人の組織でも司令塔と言われる存在の大事さ、である。
日常生活では肩コリで済むが、こちとら空手家。試合や審査もあるし、左の突きの力が弱くなったら非常に困る。持ち上げる力は半分以下になったが、突きの力は7割くらいの減少で済んではいた。ただ一部の筋肉しか使わないので非常に消耗が早い。力の減衰曲線が急であり、すぐ左腕が疲労した。
症状が出てからこれは大変だと、整形外科3軒、首のカイロプラクティス1軒、整体2軒、怪しい治療法やる所1軒と、半年くらいの間に色々まわった。西洋医学の整形外科はどこも、レントゲンをとり薬をもらうだけ。薬には神経の再生を育むものもあったと覚えているが、非常に胃に悪く、その内飲まなくなった。首のカイロは肩の高さが違うのをある程度直したが、肩コリと痺れは消えず。整体は余計悪くなったような気がする。うつ伏せで寝かされて放っておかれたり、同じ態勢を持続すると肩の硬直と痛みが甚だしく、また揉まれても痛みは消えるわけではない。怪しい指圧マッサージがその時には一番効いた。治療後は肩が軽くなったが、症状が恒久的によくなるわけではなかった。
結局、半年ドタバタ治療を試したが、治療により好転することは一切なく、時間を経る中で神経が少しずつ再生されていったのであろう、痺れはしだいになくなり、肩こりも少しづつ和らぎ、最終的に力が普通に戻るには1年を要した。肩の筋肉が全体的に動き出したな、と感じるまでが1年である。
症状が出た当初は、右の1/3の負荷のダンベルを持ち上げられるだけであり、すぐ筋肉が消耗したが、少しずつ回復し、1年くらいたったある日突然、肩全体の筋肉が動き出したことを感じた。少し不思議な感覚だった。筋肉の消耗の度合いが右と同じ感覚になったのである。全体が動いたとしてもダンベル負荷は右よりずっと軽かったので、持ち上げる力は右の7割程度がフルパワーの筋肉であった。それから3年程経ち、今は右も左も同じ負荷になっている。
最初医者は年のせいでストレートネックになり、云々と説明したが、まあそれもあるだろうが原因は分かっている。当時、小生は首を鍛えるのに凝っていて、首と両足の3点支持のブリッジ、前に倒れるのと仰向けでやるのと両方をやっていた。仰向けから反り返るブリッジは非常に苦しく、それもやるにはやったが、前へ倒れる3点支持ブリッジの方を頻繁にグリグリとやっていた。とすると首の前の筋肉の方がつき、それがよりストレートネックにして行ったのであろう。仰向けブリッジも同じようにやっていれば首の後ろの筋肉もつき、本来の若干反ったウェーブを描く頸椎を維持できたのに。
このことから学んだことは、鍛錬はバランス良くやらねば体を壊すということ。片側の筋肉だけつけるとどこかおかしくなる。腹筋やれば必ず背筋もするべきである。以後首の鍛錬の方は怖くてやってはいない。
2011年3月20日日曜日
東北地方太平沖地震
3月11日の地震、標題のように述べたり、東北関東大地震と述べたりしている。
地震より1週間が経った3月19日時点で、死者・行方不明者1万8千人超となった。この数字は、地震の被害が明らかになるにつれどんどん増えている。死者が7300人以上。身元確認できたのは3000人余。
犠牲者の方々と、今も避難生活を続けている方々には衷心よりお見舞い申し上げる。亡くなった方と行方不明者のほとんどは津波にのみ込まれてだと思う。行方不明者の数の多さがそれを物語る。どこに流されてどこにいるのかが分からぬ。
いわきにいる先輩とはまだ連絡が取れず。Googleの被害後の画像からは、家自体は残っている。海岸に近く、もうひとつ前の海岸べりの家々の周りには瓦礫のようなものが見える。少し北に行くと家々が破壊され瓦礫化していた。家にいたならば生き残っているだろうし、津波からさらに奥地に避難していれば大丈夫であろうが、携帯を持たない人故、連絡のとりようがない。家の電話の呼出音は鳴るが、誰も出てこない。まだ電気ガスは使えるようにはなっていないのだろうか・・・
電気ガスの通じぬ被災地の不便とは到底比べようもないが、この1週間、首都圏も不便であった。身の周りのことを書いておく。
月曜日朝、車通勤で3時間余り。電車も動いておらず高速も閉鎖していたので、時間がかかるのはしょーがないが、今までの通勤最長記録である。帰り、2時間くらい。小生は会社まで車通勤しているが、朝は多少の渋滞があり、平均1時間10分程。帰りはたいてい遅いので道路も空いており、約45分程度。自宅と会社までの道のりは25Kである。この日は、妻が小生の車を使うと言うので、妻の車で通勤。既にガソリンが品薄になったようで、妻は小生の車にガソリンを入れようとするも、上限2千円までしか入れられなかったと言う。
火曜日朝、約2時間余に縮まる。帰りは1時間半くらい。この日の帰りあたりからガソリンスタンド待ち渋滞が加わっていることを知る。片側2車線道路で左車線が異様に遅かった。右車線で長々と列をなす左車線を見て不思議に思いつつ走ると、渋滞の先頭はガソリンスタンドであった。ものすごく長い列で、ガソリン入れるには2,3時間かかると思う。
水曜朝、火曜と同じくらい。帰りも。妻が自分の車にガソリンを入れた。1時間半待ったとのこと。しかし満タンまで入れられたと喜び顔。
木曜朝は、1時間40分程度。ガス待ち渋滞の車列に入りそうになった。帰りは時間がおそかったので45分と、地震前に戻った。前日のガス待ち渋滞のガソリンスタンドは、ガソリンが切れた為に営業しておらず。電車運行は少ないとは言えども、運行区間が前に戻りつつある。
金曜朝は、1時間半。帰りはもういつもと同じ。妻の車で行けばよかったんだが、帰りにどこかでガソリンが入れられればと、自分の車で行った。帰りはどこもスタンド開いておらず。自宅に着いた時には給油ランプが点いていた。「だから私の車で行けば、と言ったのに」と怒り顔の妻。
土曜朝、ガス欠を心配しつつ、開いているスタンドを探した。非常に幸運にもまだ短いガス待ち渋滞を発見し、並ぶ。5000円迄入れられた。これで来週1週間は大丈夫であろう。
仕事は、計画停電がいつ来るかで、落ち着かず、計画停電対応にてんやわんやしていた。また小生の会社の事業所の内、被害が非常に大きかった所もあり、そこに依存している情報システムが動かず、紙の帳票に戻す暫定対応や、その影響度の把握にも時間を費やした。
自宅は計3回、計画停電が実施され停電した。朝シャワーを浴びようと思いきや、停電で温水出ないのに気がつきあきらめる。ガスだから大丈夫と思っていたが、温度調整等のパネルは電気だった。ファンヒーターも燃料は灯油とは言えども、ファンは電気であり動かず。停電で家に電話をかけた時は通じず。電話も電気を使っている。まあ、携帯にかけたから連絡は問題なかったが、およそあらゆる所に電気を使っており、停電の間は何もできずじっとしているのみだ。iPADによる読書を少々する。
停電はMAX3時間であるから、室温もそこそこ持つし、何もできないとは言え本は読もうとすればろうそくの光でも読める。また買い置きのお菓子などをぱくつくこともできる。食料に不自由し、電気が来ず、暖房燃料も非常に乏しい被災地の人々の不自由さは如何ばかりかと想う。夜は寒さに耐えるのみであろう。
この1週間の間に、被災地に向けての食料の供給は始まり、燃料の供給の方は、ようやく始まったと聞く。避難所に留まるか、別の場所へ疎開することの議論が始まっていると想像する。ある村は役場機能を含めて、さいたまスーパーアリーナに避難移動した。被災地以外は、インフラも大丈夫なので、人々の輸送が可能になればこのような措置をどんどん取るべきだ。今は被災地で暮らすよりは、それ以外で暮らす方がはるかによい。食料、暖房、医療、情報、すべての面で。
この1週間はてんやわんやで稽古もトレーニングもせず。またこの2,3日風邪をひいたようで熱もある。まあじっとして来週からの活動に備えるのみ。
地震より1週間が経った3月19日時点で、死者・行方不明者1万8千人超となった。この数字は、地震の被害が明らかになるにつれどんどん増えている。死者が7300人以上。身元確認できたのは3000人余。
犠牲者の方々と、今も避難生活を続けている方々には衷心よりお見舞い申し上げる。亡くなった方と行方不明者のほとんどは津波にのみ込まれてだと思う。行方不明者の数の多さがそれを物語る。どこに流されてどこにいるのかが分からぬ。
いわきにいる先輩とはまだ連絡が取れず。Googleの被害後の画像からは、家自体は残っている。海岸に近く、もうひとつ前の海岸べりの家々の周りには瓦礫のようなものが見える。少し北に行くと家々が破壊され瓦礫化していた。家にいたならば生き残っているだろうし、津波からさらに奥地に避難していれば大丈夫であろうが、携帯を持たない人故、連絡のとりようがない。家の電話の呼出音は鳴るが、誰も出てこない。まだ電気ガスは使えるようにはなっていないのだろうか・・・
電気ガスの通じぬ被災地の不便とは到底比べようもないが、この1週間、首都圏も不便であった。身の周りのことを書いておく。
月曜日朝、車通勤で3時間余り。電車も動いておらず高速も閉鎖していたので、時間がかかるのはしょーがないが、今までの通勤最長記録である。帰り、2時間くらい。小生は会社まで車通勤しているが、朝は多少の渋滞があり、平均1時間10分程。帰りはたいてい遅いので道路も空いており、約45分程度。自宅と会社までの道のりは25Kである。この日は、妻が小生の車を使うと言うので、妻の車で通勤。既にガソリンが品薄になったようで、妻は小生の車にガソリンを入れようとするも、上限2千円までしか入れられなかったと言う。
火曜日朝、約2時間余に縮まる。帰りは1時間半くらい。この日の帰りあたりからガソリンスタンド待ち渋滞が加わっていることを知る。片側2車線道路で左車線が異様に遅かった。右車線で長々と列をなす左車線を見て不思議に思いつつ走ると、渋滞の先頭はガソリンスタンドであった。ものすごく長い列で、ガソリン入れるには2,3時間かかると思う。
水曜朝、火曜と同じくらい。帰りも。妻が自分の車にガソリンを入れた。1時間半待ったとのこと。しかし満タンまで入れられたと喜び顔。
木曜朝は、1時間40分程度。ガス待ち渋滞の車列に入りそうになった。帰りは時間がおそかったので45分と、地震前に戻った。前日のガス待ち渋滞のガソリンスタンドは、ガソリンが切れた為に営業しておらず。電車運行は少ないとは言えども、運行区間が前に戻りつつある。
金曜朝は、1時間半。帰りはもういつもと同じ。妻の車で行けばよかったんだが、帰りにどこかでガソリンが入れられればと、自分の車で行った。帰りはどこもスタンド開いておらず。自宅に着いた時には給油ランプが点いていた。「だから私の車で行けば、と言ったのに」と怒り顔の妻。
土曜朝、ガス欠を心配しつつ、開いているスタンドを探した。非常に幸運にもまだ短いガス待ち渋滞を発見し、並ぶ。5000円迄入れられた。これで来週1週間は大丈夫であろう。
仕事は、計画停電がいつ来るかで、落ち着かず、計画停電対応にてんやわんやしていた。また小生の会社の事業所の内、被害が非常に大きかった所もあり、そこに依存している情報システムが動かず、紙の帳票に戻す暫定対応や、その影響度の把握にも時間を費やした。
自宅は計3回、計画停電が実施され停電した。朝シャワーを浴びようと思いきや、停電で温水出ないのに気がつきあきらめる。ガスだから大丈夫と思っていたが、温度調整等のパネルは電気だった。ファンヒーターも燃料は灯油とは言えども、ファンは電気であり動かず。停電で家に電話をかけた時は通じず。電話も電気を使っている。まあ、携帯にかけたから連絡は問題なかったが、およそあらゆる所に電気を使っており、停電の間は何もできずじっとしているのみだ。iPADによる読書を少々する。
停電はMAX3時間であるから、室温もそこそこ持つし、何もできないとは言え本は読もうとすればろうそくの光でも読める。また買い置きのお菓子などをぱくつくこともできる。食料に不自由し、電気が来ず、暖房燃料も非常に乏しい被災地の人々の不自由さは如何ばかりかと想う。夜は寒さに耐えるのみであろう。
この1週間の間に、被災地に向けての食料の供給は始まり、燃料の供給の方は、ようやく始まったと聞く。避難所に留まるか、別の場所へ疎開することの議論が始まっていると想像する。ある村は役場機能を含めて、さいたまスーパーアリーナに避難移動した。被災地以外は、インフラも大丈夫なので、人々の輸送が可能になればこのような措置をどんどん取るべきだ。今は被災地で暮らすよりは、それ以外で暮らす方がはるかによい。食料、暖房、医療、情報、すべての面で。
この1週間はてんやわんやで稽古もトレーニングもせず。またこの2,3日風邪をひいたようで熱もある。まあじっとして来週からの活動に備えるのみ。
登録:
投稿 (Atom)