2011年6月5日日曜日

頑張れ、という言葉

 「頑張れ」という言葉がある。東北大震災の被災者には、その言葉を言うなという論調がある。彼の方々は肉親を失い、既に悲嘆のどん底にあり、現在の大変不自由な避難生活に耐え、既に十分過ぎるほど頑張っているのである。それを直接の被害を受けていない第3者が軽々しく言うべきではない、と。

 そういう論であると思う。被害の枠外にいる我々は、そういう言葉ではなく、行動において援助し支援するべきではあろう。しかしながら、言葉としてはどういう言葉を出せばよいのか。「頑張れ」はダメなのではあろうか。

 私はそう言われたいと思う。「頑張れ」という言葉ではなく、「頑張れ」という言葉を発する人の顔や姿を感じて、そう言われたいと思う。口だけで言っている人がいれば、そんなことはすぐ分かる。発する言葉ではなく、そこにある心情が励みになるのである。

 ある不運、不幸な境遇にある人に励ましの言葉を向ける時、自分がその通りの境遇にならない限り、真に言葉をかけられない、と思ったことはかつて何度でもある。平穏な生活を送っている自分は、不運な彼に同情する。同情を伝えることには多少の意義もあろうが、さらに、力になることを伝えたいと考える。そして彼自身に対しては、やはり「頑張れ」と言うのである。そう励まさざるを得ない。彼自身が力強く復帰しない限りは何にもならないから。

 「頑張れ」という言葉は、少なくとも相手の顔を見て言う言葉なのであろう。不特定の多数ではなく、きちんと特定できる個人または小グループに向けて。

 

 

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