先週、一瞬気合が乗り、昼トレのフルメニュー、次の日は昼休みにサンドバッグを4ラウンドばかりやり、汗だくの中午後からの仕事に向かい大変気持ちが悪かった・・・が、充実。ところが土日は、金曜に深酒をした為に心身ともにだるく、またもや道場稽古をさぼり、安逸をむさぼって過ごしてしまった。
反省。
庭の芝刈りをし、息子の数学の勉強を見たことくらいがせいぜいの生産的なことかぁ。武道家の心を忘れ、一小市民の生活ならば・・・、ごく自然にいつでも、そうなる。むしろ、武道家の心を持っている時間の方が珍しいと思う。このブログを書くとき位に、改めて真面目に考えてそう心に落としても、日常の行動ではすっかり忘れているのがいつものことだ。
考えて(書いて)腹に落ちても、行動に繋がらない。よく言ったもので、行動をまず起こしてその途中に考える、と言うのが、普遍的で、人の正しいやり方であろう。物事が成せるのはそういう時である。
まず行動する。
その深い意義をもう一度考えよう・・・考えてもいかんのだが・・・、行動することだから。
人の世界はよくしたもので、行動する人をよく見ている。考えている人は知らぬ気がつかぬ。無論人だから、よく考えた末に行動する人、行動しながら考える人、行動するだけで考えてない人、色々であるが、見ているのは行動のみである。「実はこれこれ・・・」と言う、考えは後から聞くことがほとんどだ。
「行動」ということを年をとればとるほど、よく「考えて」よい。「俺の若い時には、考えより先に行動した」と、年をとった人は昔を懐かしみながらよく言うではないか。たいていの場合、それはポジティブな価値観にて思い起こしている。ならば、年をとったとしてもまず行動あるべきであろう。
理屈をこねて動かないこと、理屈をこねてからやっと動くこと。年をとると理屈は必要だ。ならばせめて理屈と行動を同時にやろう。
もう一つ述べるならば、小生は先に述べたように、土日の休みを安らかに、何もせず安逸に過ごすことができる。若い時、それは退屈極まりないものであった。ところが年をとった今はそれを幸せと感じる場合もある。この違いである、年齢ちゅうものは。
動かないことを退屈極まりないと思うか、それが安楽でよいとするか、で、物理的な年齢ではなく、精神的な年齢が決まる。若い感受性を持ちたければ無論、動かないと始まらないであろう。
改めてそう考え、若い感受性を持ちたい、持つべきであるとして、まず動くかどうかである。
空手稽古に出ればほんの少しでも強くはなる、やるべし。休みの日に女房の手伝いをして料理を学ぼう、やるべし。息子の勉強を見れば少しは息子の役に立つ、やるべし。あまり気が進まぬが休みでも仕事をすれば、これも多少進む、やるべし。遠い知り合いとたまには行って話そう、やるべし。我々の生きる時間の濃さは行動による。
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