太陽の光と室内光はかくも違うのか! 今庭に出て書いている。画面が暗い。
ビールを飲みつつ、芝生に座り、盛夏にしてはしのぎやすい日の、気ままな時間である。外に出て文章を書くのは悪くないねぇ。
「東京原発」という映画を観た。これはお勧めだ。2004年、今から7年前に作られた映画であるが、まさに今日の福島第一原発の事件を予感するように、原発の意義や危険性を喜劇的なストーリーの中で表していて、ある意味教育映画みたいでもある。でもその時代に警告を出そうとしていた製作者は、今となっては非常に偉い!
主人公は東京都知事、役所広司演じる。東京の新宿中央公園に原発を誘致しようとする物語である。
役所が最後に言った、「この世に絶対なぞはない」、「人間はすぐ忘れる」のセリフが今も心に残る。最初のセリフは、テロリストの少年がプルトニウムを積んだトラックを爆破しようとしたが、幸運にも爆弾が発火しなかったことを指す。少年は「僕の作った爆弾は完璧で、絶対爆発する」と言っていた。その言葉を受けてである。
「絶対なぞはない」と言う言葉は、「原発は絶対安全」と言い続けてきた政府や電力会社のPRに向けて、主人公に苛烈に吐かせた言葉である。
「人間はすぐ忘れる」は、原爆を落とされて多くの人の命を失いさんざんな目に遭った日本という国家、国民を指す。あれほどの悲劇を味わったのに、なぜ原子力を進めようとするのか?だ。兵器ではなく、エネルギーの平和利用であるとする巧妙なすり替えの中で、多くは何も考えることなく騙されている。しかし本質を見れば原子力そのものに酷い目に遭った訳であり、時間とともに忘れる国民に警鐘を鳴らすとともに諦めの言葉でもあろう。日本国民は原子力を憎んでもよいのである。むしろなぜそうしないのか?という言葉が聞こえてきそうだ。燃料の補給なく動き続ける原子力潜水艦等をいずれ開発するような、核武装の可能性も残しておきたかったのであろうか。
ストーリーをもっと論じておきたいが、この辺で。
映画によると真夏の暑い数日を節電すればエネルギーは原発がなくても賄えるそうだ。2011年の今の状況を見るとそれは違う。福島第一、第二を停めているので、東電の最大供給電力は昨年よりかなり減り、5700万KWと言う。その場合、猛暑であった昨年の実績では17日程度需要が供給を上回ってしまう。現在、柏崎原発が稼働しての数字であるから、柏崎原発を止めれば最大電力供給力はさらに減り、昨年実績では電力が不足する日がもっと増える。
今年、電力が不足する危険性をもって15%節電をすることを政府は企業に課したが、今は涙ぐましい一般家庭、企業の節電努力のおかげで、毎日20%前後の余裕がある。最大電力供給については、さすがに原発がないと真夏は賄えないのが現状であろう。賄おうとすると意識的な節電努力の生活が必要だ。
これから将来、電力需要はさらに伸びる。便利な世界をどんどん便利にしようと考えれば伸びざるを得ないから、これはしょーがない。我々の生きる哲学だとか思想を変えない限りは・・・。元々祖先が生きていた「明るい農村」に戻る方がよいのであろうか。
阪神大震災級の直下型地震が起きた時には、世界に冠たる耐震性を誇る我が原発も耐えきれないと映画では示している。東日本大震災では1000年に一度の大津波で原発が止り、制御不能状態になった。原発推進者が1000年に一度だけの不運ともし言うのならば、テロや戦争により原発が破壊の危機になるとどうなるのだろうか。その確率は1000年に一度よりもはるかに高いと言わざるを得ない。
放射性廃棄物の問題もある。これは非常に深刻である。現在はどうしようもないらしい。数万年に及ぶ保管が必要であり、地中深くに埋めるか、宇宙に放り出すことであるらしい。こんな危険な物質の処理の保障がとれないままに、原発は今も放射性廃棄物を産出している。エエーッ、である。
需要が増える中、安い電力を供給する為には原発が必要だと人は言う。東日本大震災が起きる前までは二酸化炭素の削減の為に必要であるとして、我々の大多数が「ウンウン」とうなずいていた。そのような時代に「東京原発」を制作した人々は先見の明というよりも、本質を考えた末の提言であろうと思う。
自然エネルギーの発電を増やし原発に替わる電力を作るべきであると考える。我々は高いエネルギーの中に暮らしてもよいのである。コストが嵩み企業は他の国に出て行ってもよいのである。資源の少ない日本という国は、世界的な出稼ぎをやればよいのである。出稼ぎで儲けた利益で税金をそれなりに払い、日本が高福祉社会になればよいのである。直接雇用でないから、国民全体の所得は増えず、豊かにはなれないであろうが、そこそこの中で、それでも昔よりはかなりましな「明るい農村」になればよいのである、と考える。
脱原発の為の自然エネルギーによる電力開発には技術がいる。日本の技術力はそこにこそ活かされるべきであろう。映画によると電源開発の9割の予算と知能が原子力に費やされているらしいが、その政策は転換されなければならない。日本人の優秀な頭脳は、未来のエネルギーに向けるべきである。「明るい農村」と先程は開き直り的に言ったが、日本の技術力を持ってすれば、「明るい農村」も「明るい循環型生産社会」も可能であると信じたい。
原発は発電コストが安いと言う。しかし政府から出される交付金を入れれば、めちゃくちゃに安いというわけではない。なおかつ今回のような大事故が起きた時の保障の総額を積算すれば、もう安いとは言えない。1000年に一度の大津波という自然災害の為に今回の事故が起きてしまったのであり、これを教訓としてあらゆる災害に耐えうる原発を作ればよいのだという意見もある。繰り返しになるが、テロとか戦争が起きた時に原発が破壊されればどうなるのであろうか。確率的にはゼロではない。だから「絶対安全」という言葉はないし、破壊された時には今回以上の被害と補償(国家が存在すればだが)が必要になる。
我々は我々の制御できないモノを運用すべきではない。原発が生む再処理が必要な使用済み核燃料は、まだ我々の技術力では処理不能の状態のまま「無言で」累積している。ここまで知って、それでもなお我々は原子力の道を苦行僧のように歩まなければならないのか。
原子力のコストは総合的に論じて安くなく、制御不能に陥る危険性と、排出物が処理不能な現在、エネルギーコストが上がるのはしょうがないとして自然エネルギーによる発電に向かうべきであろう。
かの映画を見て、勉強をし、影響もされて、そう考えるようになった。
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