2011年3月28日月曜日

中国映画の「至福の時」

 風邪はかなり回復してきたが、まだ道場稽古に行ける状態ではないので今週末は稽古を休み、グータラとビデオとTVを観ながら療養に努めた。 

 中国映画の「至福の時」を観る。以前録画しておいたやつだ。

 失業中の貧しい中年の工員が、目の見えない不幸な少女の面倒をみるはめになり、金持ちであるとうそをついた手前、そのままだましつつ面倒をみる。少女はそれに気がついていたが、工員と仲間たちの善意による嘘を信じたふりをしてしばらく過ごす。ただ、彼らの負担になるのに忍びられなくなり、その工員のもとを去る。その日に工員は交通事故にあい死ぬことになる。少女は工員の死を知らないし、工員も少女が出て言ったことを知らない。あてもなく街を歩く少女の姿で映画は終わる。

 喜劇調かつ哀しい、感動する映画ではあるが、疑問もいくつか残る映画であった。盲目の少女が登場するちゅうのは、そう言えばチャップリンに似た映画があった。

 筋書きの無理はあれど、俺が着目し感動したのは、少女の誇り高さである。継母から厄介払いされる形で工員に渡され、少女を捨てて出て行った実の父の手紙にも何ら心配される記述のなかったことも知った。天涯孤独であることを知り、かつ盲目である。もっとも弱い存在である彼女が、工員とその貧しい仲間達の嘘の中に暮らすが、彼らのやさしさを理解して、「至福の時」を過ごしたと置き手紙に書いて出て行った。自ら処して自ら生きようとする誇り高さである。

 継母の家を追い出された盲目の彼女は最も弱い存在である。失業した工員たちも貧しく弱い存在であるが、彼女は彼らに保護されたとしても然るべき存在である。なぜまた出ていかねばならないのか。ここに現代の俺の感覚では、非日常的な映画の筋書きを作った無理を感じざるを得ないのだが、少女を演じた役者の凛とした強さみたいなものが伝わり、その少女に感動を覚えた。素晴らしい役者である。最も弱い少女が、もっとも強くてやさしい女神みたいに見える。不幸で哀しい存在ではあるが。

 生きることの困難な最低のラインに居て―盲目で天涯孤独―、死を覚悟した存在の強さであろう。その覚悟の後に、彼らの優しさに出会った。しかし、彼らの無理をした保護の中に生きることをよしとせず、彼らの為も思い、自ら出て行った。こんな筋書きは普通はない。だが映画である。

 中年の工員は、失業中で貧しい俗物的な市民である。自分が結婚をしたくて、その相手に好かれようと思い、相手の言うことを何でも聞いた。金持ちに見せかけるような嘘もついた。その相手というのが少女の継母であり、意地悪な性悪女であり、体よく少女を追い出して工員にあずけた訳だ。

 貧しい中年工員は、根っこの所では優しく、読んでくれと渡された少女の実父の手紙に少女を心配する記述が一切なかった為に、自らその文章を書き、少女に読んで聞かせようとした。この工員の普通人としての優しさも、人の世にあるべきものとして描いている。

 彼は、性悪女に振られた後はもう嘘を続ける必要はないので、いずれ生活の糧をともかくも何とか得、少女を自分の娘として暮らすことになるはずであったことだろう。そうあればよかった。しかし、実の父に替わり手紙の続きを書いて帰る途中に交通事故にあってしまう。その時、少女は既に、捜さないで、ということと「至福の時」を過ごした感謝のメッセージを録音して出て行った後であった。

 貧しいことは楽しいことではない。せめて人の心のハッピーエンドになればよいものを、工員の死と少女の出奔で終わる、何とも哀しい物語ではある。


 

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