会社にて。節電でエアコンを止めると室温が上がり、暑い。なにやらボーっとしてくる。今時のオフィスは風通しもないし、PCは至る所にあり、これが温度を上げる。会議室では人いきれと持ちこんだノートPCで、頭脳はボー二つだ。
社内食堂。ラーメンを汗だくですすって食べる。それまでにトレーニングして体が発汗し、なおかつ熱い食い物だからもう大変だ。滝のように汗が流れる。昼飯前にトレーニングするとたいてい食欲がなくなり、手軽に食べられるものとしてラーメンを選ぶのが大半。定食はヘビーに見えてどうもイカン。特に食欲もないのだが、食べておかねばならないとして熱意と喜びのない食事を取る。面倒くさいからたいていラーメンとなる。あるいはうどん、そば。
トレーニングしても、このように炭水化物の食事ばかりだと筋肉にとってよくはなく、筋肉がつかないばかりか、単に太るようになる。もう成長の為にカロリーを必要とする若い体ではない。今も腹筋は100回は平気で出来るが、腹周りには脂肪が随分付いている。正しく言えば、腹筋の力と腹周りの脂肪の量は関係なく、要するに成長(最早ないが)と活動に余った炭水化物のエネルギーが脂肪と化して付いている訳だ。
禁煙して口寂しく、毎日ガムとチョコレートを食べるようになって体脂肪率は20弱から23強まで増えてしまった。トレーニングの量はさほど変化なし。体重が82Kから85Kまで増えたのは、ひとえに脂肪か・・・。でも負荷は増えているから筋肉も増えていると思うんだが、腹周りもデブっとなってしまった。まあ、これから夏を迎えて汗っかきの俺が大いに汗をかき、夏バテして痩せる・・・と言うか体が絞れることを期待しよう。あー、汗みどろになるのは不愉快なんだが、しょーがないね、ウェイトと言えどもトレーニングだから夏の暑い中では汗が噴出する。
ちゃんと言っておくならば、世間的な中年太りとは吾輩、全く異なり、182cm、85kで筋肉のついた堂々たる体躯である。ただちょっと腹周りに脂肪がつき、腹筋がかろうじて6つに割れているのが脂肪の柔らかい皮膚を通して感じ取れると言うか、照明の具合によりそう見えるという程度だ。肩や胸は筋肉が出ているから、問題は腹と背中だね、脂肪が付いているのは。背中も懸垂で鍛えているんだが、この間鏡に映すと、割合丸みを帯びているように見えた。ただ何と言っても腹だ、まったく。腹筋が軽く100回できるのに、贅肉が厚い。
会社では、このように毎日昼休みにトレーニングをしている。週末は、やっと時間ができ、道場に通っている。週日は連日残業であり、道場には行けない。
さて、俺は何のために日々せっせとトレーニングして、空手をしているかである。トレーニングの目的は空手に強くなる為。では、なんで空手を続けているのか。
土日の休みの日は、道場に行って稽古することが最も大事なことであり、それ以外の時間はダラダラと休息よろしく、昼寝をしたりビデオを見たり、時々まともな読書をし、また多くはWebサーフィンで何やら面白いことはないかと探る時間である。考えてみれば学生時代、あまりに稽古が厳しく、道場に行く気力を奮い立たせる為に、昼から授業をさぼり、空手バカ一代や明日のジョーを何度となく喫茶店で読んでいた。空手をやる為に、他の時間があった。このことが学生時代も今も変わらない。空手をする為に他の時間を、やる気を奮い立たせる為にとか、稽古に備えて体を休めることに用いるということだ。
本当におそまきながら最近やっと分かったことがある。
空手をやることが最終目的ではないと言うこと。空手は己の心身の修練である。プロの格闘家になり、闘いに勝つことが生活を維持し、また人生の大きな目標になるのなら話は多少変わってくるが、俺の場合はもうこんな年では無理だ。確かに学生時代は試合で勝つことは目標であった。ただよく考えればそれは人生の目的ではない。
しかるに、週末は道場に行くことのみが・・・無論稽古は大変だし、そこに行く気力が必要だが・・・目的化していないか? 空手は己の人生の修練の道であり、本来ならば空手をきちっと修めているから、「あの人の考え方はりっぱだし筋も通り、行動も正しい」的なことになるべきではないのか?
俺は空手をやることを目的化していないか? 土日に道場に行くことの為に、他の時間をダラダラ、休憩と称して無駄に過ごしていると言わざるを得ない。空手が心身を鍛え律するとするならば、空手をやっていない時間の行動の方がよほど大事ではないだろうか。
と、最近・・・この年になって・・・・やっと思い至った。空手を修めると言うことを、ずっと非常に大事なことだと考えてきた。空手を通して成長してきたことも、きっと多くある。ただ、空手をすること、修めること自体が人生の目的ではない。
俺の同輩に、今でも空手を続けている立派な男がいる。学生時代、学生は空手と勉学のみをすればよし、と言いきって、そうした。司法試験に受かり、責任のある地位に就き、大きな仕事を成しながら空手も熱心に続けている。卒業してから型も多く覚え、演武会で見事に見せている。
俺も彼も空手を「愛する」。俺と彼の違いは、俺はあまりにも空手を目的化した。詰まる所空手をひたむきにやることでもう満足してしまった。そうではなく空手は、やることにより、己の人生を深め、豊かにするものである。そういう風に捉えて、その果実を作らなければならない。
空手は、空手道というように、道であり、どれだけやっても極意にたどり着けない何らかのものである。道を歩むという考えは大事である。それは格闘の道であり、己を修める道であり、世に何らか善きことを成す道であり、色々だ。道であるということ、空手をやることが目的ではないということ。空手を通して歩む道を空手道と言うのであろう。
まず、今週末からは、道場稽古も行くが、それ以外の時間をダラダラ休息に充てるのを止め、女房の手伝いをしよう。掃除・料理だね。そこからだ。善きこと?を成しつつ空手もする。空手道を歩むからには、空手の技の修練やトレーニングだけではない。
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