いわきの知り合いの家に先週末やっかいになった。だいたい年に2回ほど会いに行く。ゴールデンウィークに行くパターンがここ2,3年続いたが、今年は震災があって後片付けに忙しいだろうとパスした。後片付けを手伝いに行くという発想がないのが、イカンと言えばイカン。まあ、ゴールデンウィークには大概の後片付けは終わっていて、少々のひび割れの所を、俺と同じく定期的に訪れる友人のダンナが張り切って直したそうだ。そのダンナは不動産関係を営んでいるらしく、直す道具一式を持ってきて頑張ったとのこと。
そういう芸のない俺は、せいぜい旨いものを土産に行くだけ。食って飲んで古い名作映画ビデオを見て帰ると言うのがいつものことだ。
土曜に行き、飲んで食った次の日の日曜、歩いてみるか、と、被災地エリアに向かった。我が知り合いの前に家が3軒ほどあったんだが、2軒は津波に壊れされたので既に取り壊され、残る1軒も撤去の予定だ。我が知り合いの家だけが、海岸から2列目であるけれど多少高くなっている上に、1.5mの土盛をしたおかげで助かっている。庭のデッキの2段目まで津波が来たと言う。海岸から測ると高さ5Mだだそうだ。入り江の端の方だったからまだよかった。中心地を襲った津波は7-9Mくらいあったそうだ。横の家は新しいから大丈夫なようだが、土盛りをしていないから1階部分は浸水したことであろう。被災エリアは、わが知り合いの家を除いてほぼ廻り全部である。
家を失うことは大変だ。ローンがまだ残っている人もいるだろう。仕事場を失っている人も多い。金を作ろうにも作れない。漁には出られない。海産物の加工工場もボロボロで、すごい匂いがしていた。もう3か月経つのに驚くべきことだ。家族を失った人も多いに違いない。それが一番の悲しみだ。
俺は歩いていたので、風景としての酷さは感じ取れた。しかしそこに存在した人々やその生活が失われたということを、どれだけ感じ取れたのだろうか。風景は廃墟として無機的にある。瓦礫がほぼ撤去されていたので、実に広々とした視界だ。津波が現れ無抵抗な人々を飲み込んだ地獄図があったに違いないのに。あえて想像して我が身を置き、死ぬということの苦しさにブルったが、総じて淡々として風景の中を歩き続けた。
途中の浜辺でお坊さんが2,3人、それから沖縄から来たらしい郷土芸能を見せる集団が数人近く、その芸能着に身を包んでいた。何かの行事としてのテントが張られていた。坊さんは念仏を唱えるのであろう。沖縄芸能の方々はそれに合わせて踊ると言うわけではないだろうし、一群として浜辺のテントの周りにいるのは、訳の分からぬ組み合わせである。
その浜辺の道を通り過ぎようとした時に、愛知から来たボランティアのお姉さんにパンフレットを渡され説明された。「今日の午後3時から沖縄の〇△さんのコンサートがあるので来てみてください。〇△さんが被災地の方々の為に行うコンサートです。」
ボランティアのお姉さんの胸には、「愛知」と「〇〇」という名前の札があった。ふーむ、確かによいことである。自らの出処を名札にしてボランティアすることは。名前を覚えてもらわないと人から頼まれないし、出身を明示することは、(不謹慎ではあるが)源氏名だけの名札を張るどこかの店よりもきちんとする。出身の話題で人々とも話が弾むであろう。人の出自を明らかにすることは信頼である。
パンフレットはもらったが、コンサートの始まりの時間は帰り道を急いでいる時間でもあり、お姉さんが別の通りかかった人に話しかけたのを機会として、その場から歩き去って行った。俺達のように単に歩く者は、何の貢献もしないが、ボランティア、無料コンサート主催の方々は当然やっぱりエライ。ともかく人の繋がりが作られる。人は不幸せのどん底でも人と繋がっていれば生きられる。
入り江を二つまたぎ4K歩いた。帰りは多少内陸部で津波の到達した地点を縫いながら歩いて4K。帰りは雨がぱらついたので早足にもなったし、合計8Kだからそれなりに疲れた。
昔、もう亡くなった祖母さんが毎日神棚に向かい、「今日も何事もなく平穏に過ぎますように」と祈っていた。少年の俺は、「何事もなく過ぎるなんておもしろくも何ともない。何かが起きなければ、何かを起こさなければ」と思っていた。若い者は退屈な時間がもっとも嫌である。そして若い者は不幸が起きるとは思っていない。新しくワクワクすることが起きるといつも思っている。
東北の為に何ができるか、周りの恵まれぬ人の為に何ができるか、日本人として全体の為に耐えるのを良しとする節電とか、我々の体質はこれから変わって行くように思える。それはもともとそういう体質を持っているので意識せず先祖返りすることかもしれない。地震、津波は大自然の成せる災いだ。日本人はずーっと自然を愛で畏怖し、祝い諦め、生活してきた。
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