2011年7月9日土曜日

武士道と切腹と、まとまらない考え

 学生時代、武道としての空手をやっているからには武士道というものにあこがれ、また理解すべきものとして「葉隠」を読んだ。著者の出身は薩長土肥の肥前の国であり、大隈重信や江藤新平を出している。山本常朝というお方。

 最も有名な言葉として、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」がある。

 武士道→死、と来たら「切腹」が思い浮かぶ。無論武士の本懐は戦って死ぬことではある。が、平時に著された書物である故に、「切腹」を論じる。死ぬことと見つけたりの精神を解説すれば色々あるんだろうが、責任をとる、あるいは処罰の一つである「切腹」と言うのは、真面目に考えればそれはそれは異様な風習であろう。日本民族の我々はいかようにして「切腹」を作ったのであろうか。

 死刑の刑罰として、武士は打ち首になることよりも切腹を一種の名誉とした。打ち首の方が一瞬で死ぬから、楽である。切腹と言うとそうはいかぬ。いくら介錯があると言えども、それまでの間腹をかっさばくことは、想像を絶する苦痛を味わうことである。

 敗戦の日、阿南惟幾陸相は「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」として介錯なしに切腹した。腹を切ったくらいではすぐに死ねないから、その後喉を掻っ切ったと言う。最初から頸動脈を切れば苦痛も相対的に少ないと思うが、まず腹を切った。特攻隊生みの親と言われる、大西瀧治郎中将も敗戦の翌日、同様に介錯なしで切腹した。喉を突かず、そのまま半日以上も苦しんだと言われる。どう考えても地獄の苦痛だ。

 こういう、非人間的な所作が、何故武士道の美学までになっているのかが不思議である。武士であるからには、死ぬ間際の苦痛に耐えて初めて、何らかの華というか、完結する精神性があるのだろうか。

 三島由紀夫の「憂国」を昔読んだ。今やあまり覚えてはいないが、2.26事件に関与した軍人が切腹する物語であり、その切腹の描写に多くのページを割いていたように思う。三島特有の筆致であるから一種甘美な様を感じるような描写であったように覚えている。

 自ら腹を掻っ捌いて、介錯で首が飛ばされるまでは死ぬまでの大苦痛に耐える、この切腹と言う風習は何故に日本人の世界に現れたのであろうか。しかも切腹を武人らしい名誉ある自決としている。

 小生が獄門に下り、切腹を選ぶか打ち首を選ぶかと問われれば、自分も空手武人の端くれであるからどっちを選ぶかは分からぬが、どう考えても打ち首の方が楽に死ねるのでそっちに行きそうな気がする。ただ、その判断の前に迷いさえする日本人の歴史と精神性は、やはり存在する。それはいったい何なのであろうか。歴史の重みと言えばそうである。

 我々は過去から続く歴史の価値観と思想、風習?のもとで、影響されて生きていることを感じている。わずかな少数、例えば織田信長のような人物だけが歴史をせせら笑い、自らの価値を新たにスタートラインとして作るのであろうか。

 アメリカ人と言うのは、歴史が浅い故、織田信長的な考えや行動の形態を普通に持っており、そうであるから常にフロンティアを求め、創れるのかもしれない。歴史というものは、はたして現在を束縛してしまうものであるのだろうか。

 歴史を束縛とみるか、未来を作る為の過去の教師とみるか、どっちもどっちで我々は考えるのであるが、悠久の時間の中、一瞬間に存在する我々は、やはり歴史的生物である。長かろうが短かろうが歴史の上の連続性の中に居る。祖父母、両親、そして子や孫へと続くものである。

 話を元々の変な疑問である切腹に戻すと、

 切腹の歴史が終わった時、日本人の中の何かが変わったと言えよう。ながい歴史の尺度で思うとやはり武を失ったこと、あるいは武に生きる選択を止めたことだと思う。それは今までの所、正しい選択である。

 、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の言葉を、武士道のすべてを表すものとして扱いたくはないが、真実はついていると思う。武は闘いであり、殺すし殺されるし、負ければ死を覚悟する。過酷ではあるが、倫理として淡白な世界に住むのは正しいことであると思う。太平の世に在っては、不正を成したり、自らの義を通さぬ振る舞いを成すことを戒める言葉でもある。覚悟を持って生きることを表した言葉であろう。切腹と言う野蛮な風習は失くしたが、一種それと対を成す武士道の精神は生き延びてもらいたいものである。思想が形に昇華し、形は思想を内包するものであり、不可分な気もするが、武士道という思想は何とかしたいものである。

 いちかばちか、のるかそるかの精神は、日本人よりもアメリカ人や中国人の方が長けている気がしてしょうがない。命とか生活を賭して正しいことをすることを倫理として持っているとは思えないが、自らを通す原始的な「武」の心情じみたものは感じる。どの道、生きることは闘いであるよ、と。

 「武士道」の別面は、主君の為に死すと言う忠誠心である。世の中を平穏に修める思想としての武士道という考えがある。むしろこっちの方が大きいかもしれない。ただ、死生観から生きることを述べる思想としての大きさはやはりきちんと捉えたい。

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