また週末が終わった。土日連続して真面目に道場稽古へ行った。休みに何をしたかと尋ねられれば、空手の稽古をしたとしか答えられない。それ程、他には何もやっていない。テレビや録画しておいた映画のビデオを見てビールを飲んでいるのがほとんど。他はWebで新聞読んだり、多少読書したりである。こういう生活はいかにも休みを満喫しているのだが、少し問題ありだ。変化と新発見が無さすぎる。
子供が小さい時はよくどこかに出かけていた。ところが彼が中学になり部活動を始めると、土日とも部活であり、家族で出かけることはほとんど無くなった。父親との会話も少なくなり、その中でも口を開けば「ちゃんと勉強せよ」的な指導的小言となり、子供は嫌がるからさらに会話が少なくなる。
中学高校は親からの指導は嫌だろうね。俺もそうだった気がする。ところが大学生になると親が言うことが小言に聞こえなくなり、指導ならばちゃんと指導と聞こえるし、意見ならばまたそのように聞く。年を経ると言うのは不思議なものだが、息子には、きちんと大学には入ってもらわねばいけない為、指導が多くなる。彼にとっては聞きたくない小言だろう。
大学時代、空手を修行した時は、鬼先輩からあらゆる指導、説教、しごきに近いものまでもらっていた。それが当たり前の世界だよね。未熟な者は教えを受けるものだ。それが我が息子を見ると未熟であるくせに、親の言うことを聞かず、幼いと言うか愚かにも自分でやると言って、親からの知識、方法論をすべて拒絶する。聞く耳を持たないということだ。先人の方法論を学び、自分なりに理解した上で批判的に考えなければ成長はない。批判や疑問も持てないのなら、それは優れた方法論であることを認識して、その道を辿ることが修行の道となる。
そう言うことを説明しても、まるっきり分からないのだろうね。若くて未熟であることは、反逆であり反骨であり、だから新しい可能性を秘めていること、と思いたいが、我が息子を見ると愚かな方法を自らの小さなプライドや反抗心でやっていることが感じられ、心配ではある。
だけど父親の俺も、空手道場に行く以外は、上で書いたノホホン生活であるから、息子は我が鏡であるか・・・。うーーむ。
昨日の稽古、本日の稽古、特に記すことはなく、定番をこなした。
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