沖縄空手のサイトを見て過ごす。以前はここに、新里勝彦師範の指導する平安1からの型ビデオがあったが、それが見られなくなって残念だ。アーカイブの中に見出しとしてはあったのだが、ビデオが再生できなくなっている。OSかメディアプレーヤーのバージョン違いであろうか。
と、残念に思っていたら、平安1はYouTubeにあった。
新里師範指導の平安は、こうなんちゅうか、瞬間瞬間に腰と腕のしなりが効いていて、非常に興味深かった。受けと蹴りを1,2とやるのではなく、本来は同時。その通りであると納得する。我々の習う現代の平安型は、どうも体操臭いので実はあまり覚える気が起らぬ。それじゃあイカンのだが。師自ら演じるナイファンチも見ものである。
宇城憲治師範の空手も大変なものである。「身体脳」、「気」をテーマにした本をいくつも出しておられるが、一種の天才ではないかと思う。世の中には、ものすごく勘がよくて反応が早くて、相手の動く先を制して動くことができる人がいる。そういうことは天性のものがあるような気がしてしょうがない。いくらそれを身体脳であるとして理論的に説明されたとしても、凡人が出来るわけではない。いや、おそらく必死の修練をすればできるのであろう。だがそれは、冨名腰義珍先生が、少年のころナイファンチばかりの稽古を一心に3年間(?)やったような、動きを体の自動的な反応の一部とする、ありていに言えば条件反射というものを身につける、現代の感覚で言えば気の遠くなるような繰り返しが必要なのであろう。そうする内に、自覚的な武道の動きが無意識になり、生活の動きのすべてにあるような、そんな感じなんだろうね。これは、趣味としての空手を無論超えている。だが、これで初めて武道を活かす、ということ? それは小生としてもOKなんだが、ではその気の遠くなるような繰り返し以外の、科学的で具体的なやり方は?と言うと、どうもまだ分からぬ。
宮本武蔵に代表される昔の剣豪は、闘いと修練が生活であった。生活しながら武を常に考え、立ちい振る舞いに入れ込んでいたことであろう。でなければ負けて死ぬ。生活=武、という世界の中に達人というものがあった。生き延びてきた武人は、そういう人々である。それ以外は負けて死んでしまっていたに違いない。
小生は学生時代、非常に空手に打ち込んだ、と思う。人よりは相対的に。それから20年のブランクを経て、楽しくやれる空手と言うものを芦原空手に入門してから初めて知った。それはそれは、すごい喜びであった、本当に。昔、勝たねばならない、修練して成長しなければならないと、オーバーに言えば強迫観念を持ってやっていた空手が、かくも楽しいものであったとは、と初めて知った。それはコペルニクス的転回であり、新発見であり感謝するものである。しかし、楽しいということは、余技として、趣味としてあるから楽しい訳である。そこに己の全存在をかけなければならないならば、その時はまったく別のものになる。「求道」というものになると表現すべきか。
若い時、楽しくなくてもよい、おもしろければ、と論じた、求道的「おもしろさ」の世界だ。その道に入ると途端に、相対性ではなく絶対性の世界となる。道は遥かに遠く、求め修練してなお途上であるという感覚。だからおもしろい、と。若い時はいつもそう感じていた。
やはり空手をちゃんとやる為には、そういう世界の住人にならなければいけないのであろうか。せめて「おもしろく」やるには、と年とった今は、色々工夫して考えてみるだけはしてみよう。小手先であることが分かり切っていたとしても。小手先を毎日続ければ、それはそれで武になリ得るのではないか。
命のやり取りをする必要はない。遥かな道の途上であることに、先を急いで焦る必要はない。毎日の新発見を「武」の考えのもとで為せれば、まあよいのではないか、と。
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