昨日も書いたが、武を意識して生活するのは中々に慣れないと言うか、すぐ忘れてしまう。いかに安易で機械的な日々を送っていることかを、却って思い知らされる。
大仰な言い方であるが、本当に生きているとはどういうことかと、50を過ぎて改めて考える。10代の頃から何度も考えてきたことであり、年を経るに従い、答えが薄っぺらになってきている感がある。
産業革命以降、人は生産する為に生きている。それ以前は食べる為に生きた。農民や漁民が食物を作り、それを王達がよりうまいものを食べる為に・・・「搾取」という言葉には時代的な抵抗があるが、当たらずとも遠からずで、領民から分捕って豊かさを得ていた。上手いものを食って享楽を作り、本能的な欲望でもって、その奪い合いの戦争もした。ライオンは食べる為の群れを作る。群れと群れは時折衝突するし、オスは群れを奪おうと闘いを挑む。民主主義なるものが成立する以前は、人間の群れも似たようなものだと思う。乱暴な論理かもしれないが、縄張りを広げる為の戦争の繰り返しはそういうもんだろう。
さて民主主義、そして産業革命だ。農地の肥沃さにより違いはあれど、広さにより自ずから限定される生産物の奪い合いよりも、より富を生む生産手段が発明された。ある意味、青天井になり得る技術革新である。とすると、領土ではない。富を生むことのできる人そのものが大事になり、教育や制度がその富の産み方を規定するようになった。昔なら一国の王が他国を征服しなければ得られなかった富が、ある人の発明した技術革新において同等以上得られるようになった。この時点で領土の奪い合いはナンセンスになる。無論人を含めた領土を奪えばよいのだが、近代歴史では却って手に入れた人の才能を減じてしまうか、亡命により得られないことが事実としてある。
思想としての民主主義を成すことができている経済体制は、今、資本主義のみである。かつて領土の奪い合いの闘争が、資本の世界の発明、経営の競争に転じた。それは、弱肉強食であったとしても殺し合いではなく、人が成す生産と、その成長への競争である。つまり人が中心という民主主義だ。民主主義は国民主権云々と規定されているが、それは確かにそうとして、今は生産の変遷から論じている。いずれにせよ人が中心と言うのは悪いことではない。
アラブ世界にて、最近「民主革命」なるものが起きているとは言え、まだ王政や独裁制を許しているのは、所有する土地に膨大な富を生む石油があるからだ。そこでは領土そのものが富であり、人ではない。従って民主主義でもない。
さて、随分話が変な所に行ったが、もともとの疑問に戻ろう。会社に行って働くことは生産活動である。技術開発は企業の浮き沈みをかけた闘いでもある。だから何らかの良きものを生産する為に俺は生きている・・・・・。それでよいのか、という問題提起である。
本当に生きていると言うのはどういうことか、と。若い時には生きる目的や価値を考えた。その考えの中には人の役に立ちたいという思いもあった。人々の幸せの為に尽くせればとか、平和の為だとか、そういうような思想があった。この考えと今従事しているルーチンの生産活動が、素直に繋がらないのである。無論、毎日の仕事を真面目にやることによりなにがしかを生産し、それが本当に微力とは言えども企業のアウトプットに繋がり、結果世の中を豊かにすることになればよい。それを十分意識できるような生き方ができれば幸せなことだ。ただ俺は、毎日目の前のやるべきことに終始せざるを得ない生活をおくっている。組織の生産活動のごく一部の使命を果たすことに終始している。それが俺の生きると言うことであろうか?・・・という疑問である。
ホント――に長い長い文章の説明を経てしまった。実に単純な質問に対して。
人が生きると言うのは、ライオンや猿の縄張り争いから、富を生む技術革新の競争に形が変わり、さりとて本質は、うまいものを食うという表現でもよいが、富を得ることが目的にあり、そういうもんでよいのか、と言うことである。子孫を残す生物としてより有利な環境を作らねばならないということはある。より生産し富を生めば、子孫を養いやすいはずだ。ところが、先進国になればなるほど子供たちの人口が減っていく。不思議なことだ。
ここまで書いては来たが、本日の思索は、既に酔っぱらっていることもあり、保留とする。
もともと俺の考えたかったことは、武の心をもって日常を送るには、である。何かしら自覚して、何かしらその延長上に真理があるような、そんな生き方とは、だ。
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