重いタイトルをつけた。
若い10代の頃は、強くなりたくて空手を始めた。
高校時代、因縁をつけてきたある不良とのサシの喧嘩では勝ったが、その後バックの不良達が出てきてビビってしまい理不尽な脅しに屈したことがある。不良少年の間ではよくあることだ。俺は不良少年ではなく成績優良の生徒であった。バックの奴とケンカしてもし勝てば、またそのバックが出てくることだろうし、そもそもケンカすれば負けて怪我をする確率が非常に高い。不良数名に囲まれながら、俺はそのような世界とは付き合いきれないと思った。こちとら勉強しなければいい大学には入れない。喧嘩の世界にも同時に身を置くことはできない。土下座しろと言われたので、言うとおりに土下座してその世界から離れた。
ただどうのこうの言っても、男として尻尾を巻いて引き下がってしまったので、悔しくてしょーがなかった。何せ理不尽な脅しに屈した土下座だ。勉強をちゃんとし、大学に入ってから腕っぷしも精神も強くなる為に、空手をしようと決めていた。
そして大学空手道部。関西の学生大会でも5本の指に入るくらい強くはなった。大学で何をしたのかと問われれば、空手をしていたと答える。勉強そっちのけで空手の稽古に励み、空手を通して強くなることを求めた。精神力を鍛えることも、ある程度為された。なにせ耐えねばならぬ練習がハードだった。我慢強さが養われた。不思議なもので高校時代は目立ちたがり屋であったのだが、空手を始めて腕っぷしに自信をつけるに従い、奥ゆかしく?なった。別段目立って自己主張のようなことをする必要はなく、淡々として己を鍛えればよし、と。きれいな言葉で言うとそういう風になった。
会社に入って、仕事を空手を同じようなスタイルでやった。そうするともう大変だ。土日の休みの内土曜日は一日中仕事関係の勉強をしていた。そうしないと大学時代空手にかまけて勉強して来なかった俺は仕事で勝てない。そこまで賭けると今度は、不十分な気持ちで仕事をしている奴がだらしなくてしょーがなく思えてくる。必死でやっているとは思えない先輩にも食ってかかり、人間関係を随分悪くしてしまった。
空手はもちろん己を鍛えることが第一義的であるが、試合等闘いの場では勝負である。そこでは全力をかけねばならぬ。そのように考える自分としては、仕事の世界でも勝つか負けるかになってしまう。勝つには勝つ資格がいる。それは必死の努力であり、その大きな量と質を背負っているから闘いに臨む資格があり、そしてその背負っているものを互いに出し合い、比べて勝ち負けが決まるようなもんだと・・・、空手の試合ではそう思っていた。強いから勝つのではない、勝つから強いのだ、ということだ。勝つときには背負っているものが相手より大きかった。
俺はよく自分を「2流の上」と称した。1流は、やはり大乗感があり、俺のような小乗的な勝ち負けにこだわる世界ではなく、周りの人をも巻き込んで前に進めるような豊かさがあると、思っている。でもそれは俺の器ではできない、俺は勝ち負けに一喜一憂する2流の上でよいとしていた。それがおもしろい、と。
しかしながら、2流の上の限界は、チャンピオンになれないことである。トップを目指す努力や闘いをしても、チャンピオンにはなれない。いい所でふと満足してしまう。勝ち負けにこだわるという考えとは相反するようだが、勝ち負けにこだわる故、自分の尺度の上で、ある所まで勝ってしまえばそれで自己満足して終わり、その後に負けても心底の悔しさや自己否定が出てこない。予想よりいいところまで勝ち進んだならば、まあよくやったもんだと思ってしまう。勝ち負けにこだわるということは、そういう相対的な成績みたいなものを是認する。ところがチャンピオンになれる人間は違う。相対的でなく絶対的な所に住む人間である。最初の頃は勝ち負けを気にすることもあったろうと思うが、勝ち続けることを当然のように厳しく課した人間である。その生きざまにおいて大乗的であり、周りを感動させる。あるいはチャンピオンになった後の振る舞いとして、大乗の道を歩む。
100人のトーナメント大会のチャンピオンはただ一人、負けなかった人間であり、2位以下は負けている。この負けなかった1位と負けた2位とは、1位2位と表彰する以上のはるかに大きな隔たりがある。昔の命のやり取りの闘いにおいては、1位以外の人間は既に死んでいる。
大乗観の仕事のやり方をその後、色々な失敗も積んでしだいに分かってきた。武道で言うならば、柳生の活人剣である。闘いつつ闘いの中で人を活かすすべである。一緒に働く仲間がいるのならば、高い目標にその仲間の得意技を結集して達成し、喜びを分かち合うことが、活人剣であろう。剣は人を殺す道具である。それを活人剣に転じた柳生は・・・、なんでそのような発想が生まれたのか、まったく不思議であり、またそこに至る凄まじさは如何様なものであったのだろうか。
小乗の研ぎ澄まされた殺し合いの厳しさ、大乗の慈悲と人を活かす思想。まあ大乗は小乗を含むと言ってしまえなくもないが、正しく仕事をするには両方が必要であろう。
空手の大乗観の方はまだ分からない。大学時代の殺気あふれる稽古と試合、それは勝ち負けの世界であり、武道として生き死にの世界を、理解をしていると思う内にあった。
負けた時は死である覚悟の空手。今まで何回死んだか分からぬ敗戦の数。すべて大事なことは敗戦から学んだ。勝ち戦から学んだことは全くない。勝ちは単なる事実であり、負けは多くを深く考えさせた。勝ち負けにこだわる人間は、負けから学ぶ。こだわらぬ人間は、一部の天性の大乗観を持つ人を除いて、学ぶことが少ない。負けから学んでばかりいるから、2流の上であるとも言える。
0 件のコメント:
コメントを投稿