本日の昼休みは軽く流した。会社にある道場に行って、軽いパンチのコンビネーションをサンドバッグに打ち込んだ。
俺のトレーニング環境は本当に恵まれていると思う。会社にはジムがあり、ウェイトのマシンや柔軟のできる十分広いスペースがある。ランニングマシンや乗馬マシンも置いてあるが、そっちの方は興味なし。マッサージチェアも5,6機置いてある。それ以外に空手部の部室兼道場があり、マットを敷いた30畳くらいの部屋があり、サンドバッグもぶら下がっている。重いバックスキンの上等なサンドバッグだ。平日の昼休み、20分程度であるが、ジムと道場を日替わりで訪れ、トレーニングをしている。
今日は久しぶりに最も緩いサンドバッグ稽古であった。まあ、どうも気合が乗らず、パンチを軽くサンドバッグに繰り出しながら15分程度で切り上げた。道場で一緒になった道士とくっちゃべりながら。
「最近また、繰り返しだが・・・、何の為に空手をしているのかと考える。この年になると、普通は健康の為だよね。」
「そうですよ。それ以外に何かあるんですか?」
「昔からやっているせいもあり、練習は強くなる為にやると考えてしまう。実際52歳になった今でも、まだ強くなっているような気がしているんだが・・・。ただ昔との大きな違いは、強くならずに衰える地点が明らかに近い将来、来ることだ。もう来ているのかもしれない。強くなっていると思うことは錯覚であって・・・。」
「・・・・」
「稽古をするからには、強くなろうと本能的に思ってしまうんだよね。」
「・・・・」
一人語りをしてしまったが、彼はよく付き合ってくれた。
「一昨日、21歳で95Kある強い若者とスパーリングをしたんだけど、まあまあだった。俺もまだまだ互角以上に戦える。ただ明白に言えることは、彼はまだまだ伸びていけるが、俺の方はもう少ししたら衰えるということなんだよね。理屈ではそうだ。自然現象としてもそうだ。ただ、今はまだ衰える気がしないんだよな。でも近い将来現実になる。弱くなるに違いないのに、何を求めてがんばっているんだろうか?と思う」
「・・・・」
「やっぱり健康の為にやっているんだよね。」と笑う。彼もそうそうと同意する。
年をとっての武道はいかにあるべきか?
年を経るに従い、精神性が養われ、続けてきた修行により立派になっていく・・・というような感じは、まるっきりしない。むしろ学生の時の方が感受性や哲学的思考に冴え、精神性が高かった。今は精神性よりも、より現実的なパワー、腕っぷしや組手の強さにひたすら眼が行く。年をとるにつれ人間性が練れてくると言うのはどうも幻想である。精神の修行という発想自体がなく、既にある人生経験からの考え、既にある様々の物理から離れることはない。
若い者には負けられぬ、の思いでもよかろう。それをやり続けて、やり続けられないことの肉体的限界を感じつつも悪あがきをして・・・、そのような振る舞いの中に、年をとるほど昇華されない何ものかのえげつない欲望、それを見ることが正しい道なのかもしれない、と最近考える。
結局、若かろうが年取っていようが、一緒なんだ、と。しかるに非常にがっかりするんだが、年をとることは衰えであり、若いということは伸びである。年寄りはいずれ若い者に負ける。
この考えの上で、かつてマッカーサーが言った、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」は、確かに真実である。
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