2011年3月30日水曜日

仕事後に昼トレ標準メニュー

 ほぼ風邪が治った。さあ昼トレを、となる所だが、昼休みは、その前の会議で結構気疲れしたので、駐車場の車に戻り中で煙草を吸っていた。あーあ、昨年の10月1日から今年の1月末までちゃんと禁煙していたのに、日々数本吸うようになってしまった。元々ヘビースモーカーであり、一日50本吸っていたのに比べれば、まだ本数は少ないが自制しないと元に戻ってしまう。いかんよなー。

 仕事を早めに切り上げ、会社のジムでトレーニングをした。いつもの昼トレメニューであるが、時間を気にしなくてよいのでゆっくりしたペースでできた。
  • V字腹筋50回。背筋60回。後でまた普通の腹筋を80回。
  • バタフライ、8,8,6回の3セット。もう8回2セットはできるので本来ならばウェイトを上げたいところだが、残念、既にMAXウェイト。
  • 懸垂3種。縦、逆手で各10回、順手で幅広握りは6回で限界だった。
  • アダクション、太股を閉じるトレーニング。逆アダクション。各10回2セット
  • インクライン・ダンベルフライ、60度くらいに倒した台でダンベルを持ち上げた。割と立たせたので胸よりも肩を鍛える目的。8,8,5で限界。
  • 最後に入念に真向法3セット。最後の方は開脚が限界まで広がり、前へ倒す勢いを多少上げると、そのまま腰も上がりうつ伏せ限界開脚となった。腰できっちり折るパターンと、前述のようにするのと交互くらいにする。まあ、かなり開いた。第4体操の、正座して後ろに倒れ、腿の前を伸ばすのはまだまだ。背中をマットにつけて2,3秒で痛くてくずす。開脚前屈は予想通り、動的ストレッチとして伸びていることを実感した。結構結構。
 以上で40分くらいか。昼休みにそそくさと20分弱でやるのに比べて、柔軟がじっくりできる時間がとれてよい。今日の収穫は、動的ストレッチ開脚が予想通り伸びたこと。

 真向法としては2秒で吐き1秒で吸う呼吸をすることになっているが、2秒かけてやんわりと曲げようと思ってもあまりできない。ついつい勢いをつけて曲げるので、1秒だ。2秒でやんわりする方が、それほど曲げられなくてもよいのであろうか?確かに1秒で吐きつつ曲げ、1秒で吸うを繰り返すと調子が早いので腰に負担がくるような気がする。

 まだ会社の道場が使えず、サンドバッグ稽古ができない。ここ3週間は空手をせずウェイトをやっているのみ。

 

弟の試合

 本日の昼トレは柔軟主体で、蹴り上げをいくつか。

 最近の柔軟は、真向法にのっとってやっている。静的ストレッチではなく、本来の真向法とは違うかもしれないが、動的ストレッチの感覚。体を前に倒すのを2秒位かけなければいけないのだろうが、1秒。倒して起こしてを10回。静的ストレッチをじっくりやる時ほど開脚していないが、それでもだんだんいい所まで近づく。強くはないが倒す勢いで前に上体を曲げるのは、結構気持がよい。静的ストレッチならば倒した状態を無理して持続するので苦痛を感じるが、動的ストレッチならば一瞬なのでかえって気持ちがよい。

 勢いをつけて柔軟をすると、筋が驚いて萎縮するのでよくないと書いてある指南書があり、それもそうだと思い、しずしずと少しづつ広げたり曲げたりする静的ストレッチをやっていたが、気持ちのよい感覚でできる範囲までは動的ストレッチの方が効きそうだ。やってみると案外筋も驚いていないので、動的ストレッチで静的ストレッチよりも筋の限界を超えることができると思いだした。明日はもうちょっと過激に柔軟をやってみよう、動的に。

 蹴り上げは、前蹴り上げ左右各20本。内回し、外回し、横蹴り上げを左右10本やる。この運動は割合ハードで汗をかく。

 さて、本題に入ろう。

 俺の弟も空手家である。弟はフルコン空手ではなく、学生時代の空手道部時代からやり続けている伝統派空手の6段である。ずっとやり続けているからもう33年だ。大学空手道部の監督をしながら、県連の幹部や全空連の審判も長く務め、兄に向っては誇らないが、伝統派空手界の中では重きをなす存在になっていることであろうと思う。今すぐ道場を開こうと思えば開けるくらいの指導者である。

 今から30年くらい前の、二人とも若い時の話である。

 弟の大学時代、試合を見に行ったことがある。当時彼は主将であり、その試合では最後に出る大将であった。5人の団体戦で、大将である弟が出る時には、2対2か、1対1、2引き分けか忘れたが、いずれにせよ弟の勝敗で勝負がきまる。その時、応援している大学の1,2回生の、「これで大丈夫だ、勝った」という声が聞こえて来た。弟は最も強く、常勝の主将であったのであろう、我が弟が後輩にそこまで言わせることに、さらにその後ろで見ている俺は非常に嬉しかったが、実際の所、試合はこれからなのでハラハラしていた。その期待に見事応えられるのであろうか、自分のことのように緊張した。弟の空手を見たのは初めてであり、どの程度強くなっているのかどうかは知らなかった。

 試合は、彼の堂々たる闘いであり、圧勝であった。選手達や応援している後輩どもは大喜びである。勝ち名乗りを受ける弟の姿を見て、俺は涙がこぼれてしょうがなかった。後輩の期待と信頼を受け、当たり前のように堂々とそれに応えた弟である、兄貴としてこんなに嬉しいことはなく、主将として頼もしくある弟に感動した。

 その場の情景は今でも覚えている。涙で霞んで見える弟の勝ち名乗りであった。

 年が1つ離れた弟は、たいてい俺の真似をしてきた。年子であるから、俺とともに近所の同じ子供たちの集団で遊んでいた。そのなかでも一番年下の味噌っかすだった。やはり1つ年上の俺の方が常に力が強いから、よくいじめた。子分のように扱い、言う事を聞かなければいじめていた。

 大学に入り、兄貴と同じ空手を始めた。そして強くなった。俺は関西学生で5本の指に入ったが、弟は、ある広域地方の学生チャンピオンになった。俺は会社に入り、それから20年間空手とは離れたが、弟の方はその間もずっと続けた。ただ敬服するのみである。畏友という言葉があるが、畏弟と表現したいもんだ。尊敬する弟である。

 男兄弟と言うものは、大人になるとほとんど互いに行き来もせず、実家でたまに会ってもたいしてしゃべらない。俺の方からすれば弟は昔からずっと弟であり、別段話さなくても昔と同じように一緒にいるだけだ。向こうさんはどうだが分からぬが、兄貴の勝手な感覚としては一心同体のような感じだ。

 空手の世界で重きを成している弟に、今度会うときは色々空手の話を聞いてみよう。20年のブランクを経て、俺は今、空手修行者である。33年間やり続けてきた弟は、様々に意見指導することができるはずなんだが、奴は兄に向ってはそっけない。困ったもんである。

 と言っても、52歳になる熟年がキラキラ目を輝かしながら、51歳の、これまたいいオヤジに空手の手ほどきを受けるのも、何だか・・・だろうね。

 

  

2011年3月29日火曜日

闘争心というもの

 春の大会が近付いていることに気がついた。さて今回は出るかどうか。まだ少し風邪気味で、この2週間稽古をしていない為、どうも気が進まぬ。昨年の春は参加した。今週末道場に行って申し込んだとしてまだ間に合うだろうか。間に合うなら出よう、そうでないならパスかね。なんと他力本願な。

 試合があるといつも出ようか出るまいか悩む。たいていの場合は、出ないと逃げているような気がして出る方に落ち着く。ただ、出るからには十分な稽古をすべきであり、それで初めて技を試す、ということになる。2年ほど前、ろくすっぽ稽古しないで、段々年をとるから、出られる時にともかく出ておこうとして、出た。そうした時には、ものの見事に上段蹴りを喰らい、一瞬気を失ったように手をつき、技ありをとられて敗退した。あんなことは初めてだった。当たり所がよければ、威力がなくても気を失う。

 その試合は、後で非常に考えさせられるものになった。当時50歳で茶帯。相手は40代前半の他流派の黒帯だった。上段蹴りを見事に喰らうまでは、体格に勝る俺の方が押していた。その後、蹴りを喰らい気がついた時にはマットに手をついていた。顔面のどこに当たったのかも分からない。どこも怪我をしていなかった。もうびっくりである。技ありを取られた後、初体験でびっくりしたことと、もうこの上段を喰らうわけにはいかないとして、慎重な試合運びになった。そして明かなる判定負け。

 終わってからとことん自覚したことが、もう俺には闘争心がない、ということであった。

 技ありを取られたからには、一本をとろうとして攻勢に出ない限り試合で勝つことはない。その時の俺は「この野郎、やり返してやる!」というような気概は毛頭なく、上段蹴りを2度喰らうわけにはいかんとして慎重な試合運びになった。これでは勝てるわけがない。また闘っているわけでもないと言える。闘う大本の闘争心がないのだ。終わってみてそう自覚した時に、俺は本当にがっくりきた。学生時代・・・、十分闘った。フルコンを始めて、それまでの試合では勝ったり負けたりしつつも闘ってきた。しかしその試合だけは闘うことを途中で止めていたことになる。それは闘争心がないからだ。

 その自覚があまりにショックで、その後2カ月ほど道場に行かなかった。闘争心がなければ空手をやる必要はない。闘う意味も分からなくなった。年をとったいいオヤジとしては、闘いで相手を傷つけたくはないし、自分もあえて傷つきたくはない。では何で空手をやるんだ?という問いである。

 長く働いてきたからそこそこの蓄えもある、家もある。やるべき仕事もある。なるべくよい人間関係を保って仕事に家庭に居たいと思う。そういう人間が、空手の闘いの試合場に立ったとして、相手を倒すべく闘うものであろうか・・・。

 2か月程経ってそれなりに稽古を再開し、ある時極真の増田師範の書いた本を読んだ。試合は相手をリスペクトして闘う、と書いてあった。自分も稽古を積んできた。相手も積んできている。その互いの技を競い合えることは幸せなことである。その相手をリスペクトして、全力で闘う、と言うようなことだったと解釈している。「これだ!」と思い、きちんと空手を続けることにした。試合に必要なことは、闘争心ではなく、相手をリスペクトして技を競うことである、と。

 小説で描かれる剣の達人同士の立ちあいは、そのような雰囲気がある。

 今、もう一つの原始的なことを最近ようやく想う。昔は分かっていたんだが、年を経て落ち着いて忘れていたことである。それは、闘争心とは自分より強いものに向かっていく気概である、ということ。仕事に家庭に、既に落ち着いてしまい、これでよしとして特に不満のない俺にとっては、確かに闘争心たるものはなかった。空手の試合でそのことが現れた。ボクシングの輪島選手は、自分より強い相手と闘った時、やり込められながら一発でも返してやるぞ、と爛々として狙い、一発返せば満足してノックダウンされたそうな。これが闘争心である。強い相手に向かい、全力をもって一発返すことである。

 空手も仕事も、落ち着いてはいけない。もっともっと上を目指すべきである。為すべきことは限りなくあり、そこに横たわる多くの困難に立ち向かう気概、それが闘争心である。

 若い時はこんな理屈をひねる必要はまったくなく、試合で負ければ悔しく、今度こそは勝つと意気軒昂であった。年をとると理屈がいる。正しい理屈であれば・・・、励む。

 

 

2011年3月28日月曜日

中国映画の「至福の時」

 風邪はかなり回復してきたが、まだ道場稽古に行ける状態ではないので今週末は稽古を休み、グータラとビデオとTVを観ながら療養に努めた。 

 中国映画の「至福の時」を観る。以前録画しておいたやつだ。

 失業中の貧しい中年の工員が、目の見えない不幸な少女の面倒をみるはめになり、金持ちであるとうそをついた手前、そのままだましつつ面倒をみる。少女はそれに気がついていたが、工員と仲間たちの善意による嘘を信じたふりをしてしばらく過ごす。ただ、彼らの負担になるのに忍びられなくなり、その工員のもとを去る。その日に工員は交通事故にあい死ぬことになる。少女は工員の死を知らないし、工員も少女が出て言ったことを知らない。あてもなく街を歩く少女の姿で映画は終わる。

 喜劇調かつ哀しい、感動する映画ではあるが、疑問もいくつか残る映画であった。盲目の少女が登場するちゅうのは、そう言えばチャップリンに似た映画があった。

 筋書きの無理はあれど、俺が着目し感動したのは、少女の誇り高さである。継母から厄介払いされる形で工員に渡され、少女を捨てて出て行った実の父の手紙にも何ら心配される記述のなかったことも知った。天涯孤独であることを知り、かつ盲目である。もっとも弱い存在である彼女が、工員とその貧しい仲間達の嘘の中に暮らすが、彼らのやさしさを理解して、「至福の時」を過ごしたと置き手紙に書いて出て行った。自ら処して自ら生きようとする誇り高さである。

 継母の家を追い出された盲目の彼女は最も弱い存在である。失業した工員たちも貧しく弱い存在であるが、彼女は彼らに保護されたとしても然るべき存在である。なぜまた出ていかねばならないのか。ここに現代の俺の感覚では、非日常的な映画の筋書きを作った無理を感じざるを得ないのだが、少女を演じた役者の凛とした強さみたいなものが伝わり、その少女に感動を覚えた。素晴らしい役者である。最も弱い少女が、もっとも強くてやさしい女神みたいに見える。不幸で哀しい存在ではあるが。

 生きることの困難な最低のラインに居て―盲目で天涯孤独―、死を覚悟した存在の強さであろう。その覚悟の後に、彼らの優しさに出会った。しかし、彼らの無理をした保護の中に生きることをよしとせず、彼らの為も思い、自ら出て行った。こんな筋書きは普通はない。だが映画である。

 中年の工員は、失業中で貧しい俗物的な市民である。自分が結婚をしたくて、その相手に好かれようと思い、相手の言うことを何でも聞いた。金持ちに見せかけるような嘘もついた。その相手というのが少女の継母であり、意地悪な性悪女であり、体よく少女を追い出して工員にあずけた訳だ。

 貧しい中年工員は、根っこの所では優しく、読んでくれと渡された少女の実父の手紙に少女を心配する記述が一切なかった為に、自らその文章を書き、少女に読んで聞かせようとした。この工員の普通人としての優しさも、人の世にあるべきものとして描いている。

 彼は、性悪女に振られた後はもう嘘を続ける必要はないので、いずれ生活の糧をともかくも何とか得、少女を自分の娘として暮らすことになるはずであったことだろう。そうあればよかった。しかし、実の父に替わり手紙の続きを書いて帰る途中に交通事故にあってしまう。その時、少女は既に、捜さないで、ということと「至福の時」を過ごした感謝のメッセージを録音して出て行った後であった。

 貧しいことは楽しいことではない。せめて人の心のハッピーエンドになればよいものを、工員の死と少女の出奔で終わる、何とも哀しい物語ではある。


 

2011年3月27日日曜日

生活=武?

 沖縄空手のサイトを見て過ごす。以前はここに、新里勝彦師範の指導する平安1からの型ビデオがあったが、それが見られなくなって残念だ。アーカイブの中に見出しとしてはあったのだが、ビデオが再生できなくなっている。OSかメディアプレーヤーのバージョン違いであろうか。
 と、残念に思っていたら、平安1はYouTubeにあった。

 新里師範指導の平安は、こうなんちゅうか、瞬間瞬間に腰と腕のしなりが効いていて、非常に興味深かった。受けと蹴りを1,2とやるのではなく、本来は同時。その通りであると納得する。我々の習う現代の平安型は、どうも体操臭いので実はあまり覚える気が起らぬ。それじゃあイカンのだが。師自ら演じるナイファンチも見ものである。

 宇城憲治師範の空手も大変なものである。「身体脳」、「気」をテーマにした本をいくつも出しておられるが、一種の天才ではないかと思う。世の中には、ものすごく勘がよくて反応が早くて、相手の動く先を制して動くことができる人がいる。そういうことは天性のものがあるような気がしてしょうがない。いくらそれを身体脳であるとして理論的に説明されたとしても、凡人が出来るわけではない。いや、おそらく必死の修練をすればできるのであろう。だがそれは、冨名腰義珍先生が、少年のころナイファンチばかりの稽古を一心に3年間(?)やったような、動きを体の自動的な反応の一部とする、ありていに言えば条件反射というものを身につける、現代の感覚で言えば気の遠くなるような繰り返しが必要なのであろう。そうする内に、自覚的な武道の動きが無意識になり、生活の動きのすべてにあるような、そんな感じなんだろうね。これは、趣味としての空手を無論超えている。だが、これで初めて武道を活かす、ということ? それは小生としてもOKなんだが、ではその気の遠くなるような繰り返し以外の、科学的で具体的なやり方は?と言うと、どうもまだ分からぬ。

 宮本武蔵に代表される昔の剣豪は、闘いと修練が生活であった。生活しながら武を常に考え、立ちい振る舞いに入れ込んでいたことであろう。でなければ負けて死ぬ。生活=武、という世界の中に達人というものがあった。生き延びてきた武人は、そういう人々である。それ以外は負けて死んでしまっていたに違いない。

 小生は学生時代、非常に空手に打ち込んだ、と思う。人よりは相対的に。それから20年のブランクを経て、楽しくやれる空手と言うものを芦原空手に入門してから初めて知った。それはそれは、すごい喜びであった、本当に。昔、勝たねばならない、修練して成長しなければならないと、オーバーに言えば強迫観念を持ってやっていた空手が、かくも楽しいものであったとは、と初めて知った。それはコペルニクス的転回であり、新発見であり感謝するものである。しかし、楽しいということは、余技として、趣味としてあるから楽しい訳である。そこに己の全存在をかけなければならないならば、その時はまったく別のものになる。「求道」というものになると表現すべきか。

 若い時、楽しくなくてもよい、おもしろければ、と論じた、求道的「おもしろさ」の世界だ。その道に入ると途端に、相対性ではなく絶対性の世界となる。道は遥かに遠く、求め修練してなお途上であるという感覚。だからおもしろい、と。若い時はいつもそう感じていた。

 やはり空手をちゃんとやる為には、そういう世界の住人にならなければいけないのであろうか。せめて「おもしろく」やるには、と年とった今は、色々工夫して考えてみるだけはしてみよう。小手先であることが分かり切っていたとしても。小手先を毎日続ければ、それはそれで武になリ得るのではないか。

 命のやり取りをする必要はない。遥かな道の途上であることに、先を急いで焦る必要はない。毎日の新発見を「武」の考えのもとで為せれば、まあよいのではないか、と。


 
 

2011年3月26日土曜日

風邪の日 その2

 若い時は、出来事や事件を求めた。変化に心踊らした。たとえそれが自分に不利益なものであったとしても好しとして、明日への希望を想った。明日が今日よりよくなる保証は何もないくせに、根拠なくよくなるような気がしていた。
 楽しくなくてもよい、おもしろければよい、とはよく言っていた。若者は退屈な平和よりも血のたぎる闘争を好む、とはよくあるセリフである。

 年を経て、今はわずか1行で表せる平和な生活をしている。
 朝起きて会社へ行き、仕事をして家へ帰る。

 そういう平穏な日常が非常に貴重であることを既に知っている。だが、男の心情としては波乱を求めたい。ところが、守るべき人を失うことや、蓄えた財も失うのは困る。一般に、小生のような小物の考えることは、自分が安全な中に居た上で波乱を求めるという、矛盾した望みとなる。

 感受性に富む若い頃は、空手の精神性を感じていた。今は?健康の為、闘いのゲームの為か・・・。精神性は、かけらもなかろう。武道としての空手を考え抜いた若い時期がある。今でも考えようとすれば考えられる。だがそれは、若い時と同じ論理を、若い時のような熱はなく、辿るだけになることを知っている。

 武道としての空手を実践することは、1日を武道家として生きることである。

 武道の本質は死と共に生きることである。死ぬことを奨励していることではない。死んでもよい覚悟で最大限の生を出す、ということ。朝に道を知れば夕に死すとも悔いなしの感覚でもよい。この感覚において、波乱と平穏、闘争と平和と言うものは、わざわざ意味付けする必要のないものとなる。

 と、書きつつ、かような精神の激しさは、この20年間思い出したことがない。

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 風邪は良くも悪くもならぬ平衡状態。本日の昼トレは、真向法を4サイクル、前蹴り上げ左右10本、内回し、外回し左右各10本。横蹴り上げ左右10本。まあ、軽く流した程度である。

 先週末は風邪で道場に行っていないし、会社にある道場も、3月11日の地震以来使用禁止状態にあり、空手の稽古をしばらくしていない。今の風邪の状態だと、今週末も道場稽古はしない方がよさそうだ。「健康第一」の考え・・・だね。
 ふーむ、型の研究をまとめてやるか。

2011年3月25日金曜日

風邪の日

 東日本大震災の死者・行方不明者が2万7352人。 
 秋葉原無差別17人殺傷事件の犯人、加藤被告に死刑判決が下る。
 電力供給不足の計画停電が続く。我が家は午後6時半から8時半頃まで停電していたそうな。

 震災で亡くなった親戚の遺体確認と葬式をした知り合いが被災地から戻ってきた。火葬場はどこも満杯で、山形まで運び来週荼毘にふす予定になっているとのこと。車で岩手県迄の往復強行軍であり、疲れと悲しさが同居している。そしてポツリ「被災地は異臭がしていた。」 死骸の臭いかと尋ねれば、そうではなく、海の生臭い匂いと生活生ごみの混ざったような匂いらしい。
 
 小生の尊敬する藤原新也氏のブログを読む。氏は援助物資を車に積み込んで、被災地に行っていた。氏は観る人である。心眼で観る恐い人だ。円顔地蔵を描いて子供たちにあげたら、思いの外喜ばれたとのこと。言葉の一つ一つが核を捉えた情景であり、心情である「気」が入っている。

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 小生の風邪はこれで1週間になる。年をとると治りにくい。咳き込むが熱がないので、またぞろ昼のウェイトトレーニングを行う。今日は1週間ぶりにスクワット100回もやった。足の疲れが今は心地よい。他は定番メニュー。
  • V字腹筋70回。うつ伏せ背筋30回
  • バタフライ8,6,5回の3セット
  • 懸垂3種。順手で広げて懸垂した時に広背筋が痛くなった。それでも間を空けて、逆手と縦握りで各8回
  • ダンベルショルダープレス8回。2セット目は1回も上がらず。負荷が増えたのでしょうがない。
  • それと、スクワット100回
  • 真向法柔軟
以上で20分弱。

 昨日もウェイトやったので連日だ。明日は柔軟と蹴上げ中心で行おう。

 昼の内は元気なんだが、夜になると疲れも出るのか、昼の運動で風邪が悪化したのか、頻繁に咳き込んだ。午後8時半頃退社。うちの会社は残業ばんばんやるので、まだ大勢が残って仕事していた。右に倣えの日本人的感覚を持っている小生としては、早く帰るのは気が引ける。

 風邪をひきかけた先週は、日々8時間は寝るようにした。休みの昼間も寝て過ごす等とにかくよく寝ることに努めた。それでも多少熱が出て進行したが、まあよく寝ることで悪化は防いだ。熱が下がると元通りの睡眠6時間程度になり、治る治らないの境でしばらく過ごすのがいつものことだ。よく寝るのを続けりゃいいのに、とは思う。

 

2011年3月23日水曜日

復興

 3月23日現在で、「東日本大震災」の死者・行方不明者は2万4124人。避難している人々は26万1008人。戦後未曽有の大災害となった。犠牲者に黙祷を捧げつつ、日本が立ち直れるかどうかの危機の中にあることも自覚する。

 この危機から我々はどういう熱を生むのであろうか。復興にかける熱というものがなければ、我々はいずれ老大国と呼ばれるようになるであろう。国の借金が800兆円もある国である。復興はようやくするが、国力のかつてのピークから、かかった費用と労力をマイナスして存在する国になる。

 大げさな言い方になることは承知するが、敗戦から復興を遂げ、成長を遂げた原動力は国民の欲望とプライドと熱と志である。今回の大災害から、それらをどれだけ産めるのか、だ。

 我々はまた、24時間働けますか、の時を持つのであろうか?あるいは、それなりにきちんと復興し、その時の、既に大国でない「普通」を維持していくのであろうか。


 風邪は治りかけではあるが、咳き込む。気管支がかゆくて出る咳だ。こういう風邪は、回復していくのだが1週間ほど咳が続くであろう。

 本日は熱が下がったので、それなりの昼トレを行った。いつものウェイトトレーニングメニューを間を空けて無理せずこなした。柔軟をする時間はとれなかった。ダンベルの重量を誰かが増やしたが、気にせず何とか8回する。2セット目は上がらなかったが、まあよい、これからはその重量で行う。負荷を上げるほど筋肉がつき、筋肉がつくのでしだいに回数もこなせるようになる。

 いつもならば、本日は仕事を終えてから空手の自主稽古を行う曜日ではあるが、大事をとっておとなしく帰宅した。汗をかいて体が疲れれば、風邪は悪くなるもんね。

2011年3月22日火曜日

左腕の力が半減した時のこと

 風邪をひき、熱も多少あり、昼の自主トレを軽くV字腹筋だけで終え、マッサージ機にのって時間つぶしのマッサージを行う。小生、52歳になるがどこも凝ってはおらず、オヨヨ、オヒョヒョと言う具合に、エアやメカでグリグリされるのが痛いくらいだ。

 数年前、ひどい肩コリと腕のしびれが数カ月続いたことがある。頸椎の神経を損傷したらしく、左腕の、上へあげる力が、右の半分以下になった。完全に元に戻るには1年もかかった。

 ある時、同じようにベンチプレスしているんだが、だんだんその時やっている重さが上がらなくなった。マシンだから接触部分の油が切れて摩擦が大きくなってきたかな?だが、前に持ち上げていた重量が上がらないのはしゃくだ、と。1週間くらい経ってからだろうか、腕のしびれ、肩の痛みを感じて、あれよと言う間に、左腕の力が半減以下。道場稽古の上段受けを30回やるのでさえ、左腕を持ち上げる故に苦労を伴った。

 頸椎の3,4,5番目あたりの隙間が小さくなり、医者が言うに、ストレートネックとなり、頸椎のエッジ部分に神経が当たり損傷したのが原因である。1週間前迄は右左同様にウェイトトレーニングをしていたから、左肩や腕の筋肉も右同様に十分立派についている。ところが、腕を上にあげる力、すなわち肩の筋肉の半分が動かなくなったのであろう、まさに力が半減した。そうすると動く筋肉と動きを止めた筋肉が擦れる為であろうか、肩から背中にかけて痛みを伴う激しい肩コリが数か月、さらに煙草を吸うたびに上腕に痺れがはしった。煙草は神経に何らか影響しているんだろうな。

 いかに立派な筋肉を持っていても、それを動かす指令を出す神経が働かないと何の役にも立たないということを、大痛感。神経は偉大なり、だ。自分の体をコントロールする脳と神経、人の組織でも司令塔と言われる存在の大事さ、である。

 日常生活では肩コリで済むが、こちとら空手家。試合や審査もあるし、左の突きの力が弱くなったら非常に困る。持ち上げる力は半分以下になったが、突きの力は7割くらいの減少で済んではいた。ただ一部の筋肉しか使わないので非常に消耗が早い。力の減衰曲線が急であり、すぐ左腕が疲労した。
 
 症状が出てからこれは大変だと、整形外科3軒、首のカイロプラクティス1軒、整体2軒、怪しい治療法やる所1軒と、半年くらいの間に色々まわった。西洋医学の整形外科はどこも、レントゲンをとり薬をもらうだけ。薬には神経の再生を育むものもあったと覚えているが、非常に胃に悪く、その内飲まなくなった。首のカイロは肩の高さが違うのをある程度直したが、肩コリと痺れは消えず。整体は余計悪くなったような気がする。うつ伏せで寝かされて放っておかれたり、同じ態勢を持続すると肩の硬直と痛みが甚だしく、また揉まれても痛みは消えるわけではない。怪しい指圧マッサージがその時には一番効いた。治療後は肩が軽くなったが、症状が恒久的によくなるわけではなかった。

 結局、半年ドタバタ治療を試したが、治療により好転することは一切なく、時間を経る中で神経が少しずつ再生されていったのであろう、痺れはしだいになくなり、肩こりも少しづつ和らぎ、最終的に力が普通に戻るには1年を要した。肩の筋肉が全体的に動き出したな、と感じるまでが1年である。

 症状が出た当初は、右の1/3の負荷のダンベルを持ち上げられるだけであり、すぐ筋肉が消耗したが、少しずつ回復し、1年くらいたったある日突然、肩全体の筋肉が動き出したことを感じた。少し不思議な感覚だった。筋肉の消耗の度合いが右と同じ感覚になったのである。全体が動いたとしてもダンベル負荷は右よりずっと軽かったので、持ち上げる力は右の7割程度がフルパワーの筋肉であった。それから3年程経ち、今は右も左も同じ負荷になっている。

 最初医者は年のせいでストレートネックになり、云々と説明したが、まあそれもあるだろうが原因は分かっている。当時、小生は首を鍛えるのに凝っていて、首と両足の3点支持のブリッジ、前に倒れるのと仰向けでやるのと両方をやっていた。仰向けから反り返るブリッジは非常に苦しく、それもやるにはやったが、前へ倒れる3点支持ブリッジの方を頻繁にグリグリとやっていた。とすると首の前の筋肉の方がつき、それがよりストレートネックにして行ったのであろう。仰向けブリッジも同じようにやっていれば首の後ろの筋肉もつき、本来の若干反ったウェーブを描く頸椎を維持できたのに。

 このことから学んだことは、鍛錬はバランス良くやらねば体を壊すということ。片側の筋肉だけつけるとどこかおかしくなる。腹筋やれば必ず背筋もするべきである。以後首の鍛錬の方は怖くてやってはいない。

 

2011年3月20日日曜日

東北地方太平沖地震

 3月11日の地震、標題のように述べたり、東北関東大地震と述べたりしている。

 地震より1週間が経った3月19日時点で、死者・行方不明者1万8千人超となった。この数字は、地震の被害が明らかになるにつれどんどん増えている。死者が7300人以上。身元確認できたのは3000人余。

 犠牲者の方々と、今も避難生活を続けている方々には衷心よりお見舞い申し上げる。亡くなった方と行方不明者のほとんどは津波にのみ込まれてだと思う。行方不明者の数の多さがそれを物語る。どこに流されてどこにいるのかが分からぬ。

 いわきにいる先輩とはまだ連絡が取れず。Googleの被害後の画像からは、家自体は残っている。海岸に近く、もうひとつ前の海岸べりの家々の周りには瓦礫のようなものが見える。少し北に行くと家々が破壊され瓦礫化していた。家にいたならば生き残っているだろうし、津波からさらに奥地に避難していれば大丈夫であろうが、携帯を持たない人故、連絡のとりようがない。家の電話の呼出音は鳴るが、誰も出てこない。まだ電気ガスは使えるようにはなっていないのだろうか・・・

 電気ガスの通じぬ被災地の不便とは到底比べようもないが、この1週間、首都圏も不便であった。身の周りのことを書いておく。

 月曜日朝、車通勤で3時間余り。電車も動いておらず高速も閉鎖していたので、時間がかかるのはしょーがないが、今までの通勤最長記録である。帰り、2時間くらい。小生は会社まで車通勤しているが、朝は多少の渋滞があり、平均1時間10分程。帰りはたいてい遅いので道路も空いており、約45分程度。自宅と会社までの道のりは25Kである。この日は、妻が小生の車を使うと言うので、妻の車で通勤。既にガソリンが品薄になったようで、妻は小生の車にガソリンを入れようとするも、上限2千円までしか入れられなかったと言う。

 火曜日朝、約2時間余に縮まる。帰りは1時間半くらい。この日の帰りあたりからガソリンスタンド待ち渋滞が加わっていることを知る。片側2車線道路で左車線が異様に遅かった。右車線で長々と列をなす左車線を見て不思議に思いつつ走ると、渋滞の先頭はガソリンスタンドであった。ものすごく長い列で、ガソリン入れるには2,3時間かかると思う。

 水曜朝、火曜と同じくらい。帰りも。妻が自分の車にガソリンを入れた。1時間半待ったとのこと。しかし満タンまで入れられたと喜び顔。
 
 木曜朝は、1時間40分程度。ガス待ち渋滞の車列に入りそうになった。帰りは時間がおそかったので45分と、地震前に戻った。前日のガス待ち渋滞のガソリンスタンドは、ガソリンが切れた為に営業しておらず。電車運行は少ないとは言えども、運行区間が前に戻りつつある。

 金曜朝は、1時間半。帰りはもういつもと同じ。妻の車で行けばよかったんだが、帰りにどこかでガソリンが入れられればと、自分の車で行った。帰りはどこもスタンド開いておらず。自宅に着いた時には給油ランプが点いていた。「だから私の車で行けば、と言ったのに」と怒り顔の妻。

 土曜朝、ガス欠を心配しつつ、開いているスタンドを探した。非常に幸運にもまだ短いガス待ち渋滞を発見し、並ぶ。5000円迄入れられた。これで来週1週間は大丈夫であろう。

 仕事は、計画停電がいつ来るかで、落ち着かず、計画停電対応にてんやわんやしていた。また小生の会社の事業所の内、被害が非常に大きかった所もあり、そこに依存している情報システムが動かず、紙の帳票に戻す暫定対応や、その影響度の把握にも時間を費やした。

 自宅は計3回、計画停電が実施され停電した。朝シャワーを浴びようと思いきや、停電で温水出ないのに気がつきあきらめる。ガスだから大丈夫と思っていたが、温度調整等のパネルは電気だった。ファンヒーターも燃料は灯油とは言えども、ファンは電気であり動かず。停電で家に電話をかけた時は通じず。電話も電気を使っている。まあ、携帯にかけたから連絡は問題なかったが、およそあらゆる所に電気を使っており、停電の間は何もできずじっとしているのみだ。iPADによる読書を少々する。

 停電はMAX3時間であるから、室温もそこそこ持つし、何もできないとは言え本は読もうとすればろうそくの光でも読める。また買い置きのお菓子などをぱくつくこともできる。食料に不自由し、電気が来ず、暖房燃料も非常に乏しい被災地の人々の不自由さは如何ばかりかと想う。夜は寒さに耐えるのみであろう。
 
 この1週間の間に、被災地に向けての食料の供給は始まり、燃料の供給の方は、ようやく始まったと聞く。避難所に留まるか、別の場所へ疎開することの議論が始まっていると想像する。ある村は役場機能を含めて、さいたまスーパーアリーナに避難移動した。被災地以外は、インフラも大丈夫なので、人々の輸送が可能になればこのような措置をどんどん取るべきだ。今は被災地で暮らすよりは、それ以外で暮らす方がはるかによい。食料、暖房、医療、情報、すべての面で。

 この1週間はてんやわんやで稽古もトレーニングもせず。またこの2,3日風邪をひいたようで熱もある。まあじっとして来週からの活動に備えるのみ。

2011年3月14日月曜日

東北大地震 その2

 すさまじい災害である。現在、死者・行方不明者3300人。被害は拡大の方向。宮城県警は宮城県の死者は1万人を超えるのは確実と予想。町全体が津波に飲み込まれ、連絡付かない人々1万人の所もある。人的災害規模を計るにも計りようがない状況である。

 福島原発1号機から3号機まで、事故状態。冷却の為に手を尽くしている。東京電力管内の電力不足の為に、明日より計画停電が行われる。東電始まって以来だそうだ。

 いわき市の先輩にはまだ連絡付かず。東北一帯電話連絡が不能のようだ。衛星電話を設置して電話をかけている列をテレビで映している。

 マグニチュード9.0の未曾有の地震であった。津波被害が目を覆いたる程。町が消えて瓦礫の山になっている。道が途切れ、救助の車、人々も足を踏み入れられない情景が映されている。

 明早朝の計画停電に備え、妻は車をガレージから出した。よく気がついたものだ。ガレージを開けるには電気がいる。

 管総理は、被害の大きさに言及しつつ、明日の日本を再興することも一言述べたが、何と言うか、まだ早い。再興は当然為されるべきであるが、今は救助に全力を挙げ、明日のことはまた後で考えることだ。国民を鼓舞しようとの発言であろうが、まだ早い。今は若干空疎な言葉になる。

 日本は1億2千万人の民がいる。今回の地震の被害は甚大で悲劇としか言いようがないが、100万人が亡くなった訳ではない。被害地域以外の人々の力で救助し、被害地の人々の力と共に復興は、当然できる話だ。ただ今は、甚大なる被害と、それを報道するメディアにより日本のほとんどが危機的な状況にあるような気がしている。そうではない。残りの人間が助けるのだ。現地に行けない人々は、いずれ金の支援だけでもできる。

 阪神大震災の時と違い、東北全体の電話連絡の遮断、交通網の遮断、電気ガスの遮断。今は市民も動けない。
 

2011年3月12日土曜日

2011年3月11日 東北大地震

 昨日、3月11日、妻の誕生日。今日は早めに帰り外に飯にでも食べに行くか、ケーキも買わねば、と考えていた所、震度5弱の地震。会社のビルの3Fにいたが、生まれて初めての大きな揺れだった。あれ程の揺れだと、もうまるっきり動けなかった。じっと座ってただ過ぎるのを待つのみ。揺れが納まりしばらく経った後、総員避難の指示。ビルの前の空きスペースに出てしばらく待機。その後も小さな余震が続いた。

 大方小一時間外にいたが、寒いのでスクワット計100回を断続的に行う。寒そうにしている周りの人間に笑いつつ声をかけるが、まあやるのは俺のみ。立っているスペースのみで寒さを解消する為には、非常に効果的な方法だと思うが。

 その後事務所に戻り、インターネットで調べる、殊の外大災害である。宮城県沖を震源にM8.8の観測史上最大の地震であった。今現在、死者、行方不明者を合わせると1100人を超え、さらに拡大する見込みである。10Mくらいの津波が起き、津波で壊滅状態になっている街のいくつかをTVで映している。2,3のコンクリートの建物を除き、瓦礫と水のみの風景である。これは被害規模において1995年の阪神大地震以来の大災害だ。

 津波が迫る前を車が走っていた映像もあった。巻き込まれたに違いなく、まだ不明者にもカウントされていないことであろう。命を想う。合掌。

 昨夕、普段は1時間余で帰れる道を、3時間かけて帰る。いずこも車の大渋滞であった。我が家は一切被害なし。電気ガス水道もOK。隣町では停電していた。いまだ、青森、宮城、福島の全域は停電中だ。携帯電話も通じず、ライフラインの切れた中で、被災地は一夜を過ごした。

 都内の電車は、昨夜ほぼ動かず。都内から帰れぬ人々が2,3万人いたそうである。現在は大方電車は動き始めた。無論ダイヤ通りではない。

 昨夕は息子が学校から帰れなくなり、また義兄が近くに仕事で来ていたが電車が動かず駅で立ち往生の為、妻が二人を迎えに行った。たまたま隣り合わせた駅にいるとのこと。夜11時過ぎ、無事2人とも妻の車で家にたどり着く。

 関東のこの地は今日平静である。東北で起きた大惨事に関わらず。義兄は朝、家に帰るべく発った。ニュースは昨夜からずっと地震状況を伝えている。俺はいつもの休みと変わらず昼間のビールを飲んだ後、散髪に行こうと考えている。これでよいのだろうか、と思わずにはいられないが、さりとて普段と異なる何をする訳でもない。福島にいる先輩に連絡を何度か取ろうと試みたが、電話は混み合って通じず、メールの返答も返ってこない。停電故PC動かないであろうから当然だ。福島の先輩は携帯を持たない主義である。

 昨夜10時半頃、北陸の実家に電話をし、無事を知らせる。神奈川県に住んでいる甥っ子も連絡が取れ無事だとのこと。まあ、東京、埼玉、神奈川は、震度5前後であったがほとんど被害は出ていない。倒れてきた壁や落下物による死者が2,3名。ショックを受けた老人の死者もいた。しかし、かなりの揺れであったにも拘らず、建物倒壊や火災の被害のレポートはない。ある意味、阪神大震災の教訓を経て、耐震強度を満たすように建物の対処をしたから、その効果が出たのであろう。東京に関するニュースは、帰宅困難者に関するものがほとんどであった。

 宮城県の被害が甚大であることをニュースで伝えている。震度7を記録した。それから津波だ。津波被害が凄まじい。ライフラインの切れた中にいる人々の難儀を想う。

 が、俺はこれから普通に散髪に行く。

 (散髪中、散髪中・・・・)

 ビールを飲み午睡をむさぼり、その後散髪に行ってきた。本日の稽古はサボリ。どうも昨日からの疲れがあり、だるい。

 




 

2011年3月11日金曜日

全力サンドバッグ

 いやはや、昼トレでサンドバッグをフルパワーで突き蹴りすると疲れるのなんの。午後の仕事に影響する? 短時間だから全力でやるべし、と決めた。一本一本全力だから、筋力トレーニングにもなる。昼トレでサンドバッグをやる場合の目的は、技の威力を増すこととする。

 V字腹筋50回、背筋30回。うつ伏せに寝て反り返る背筋を始めてしばらく経つが、だいたい30回くらいで気分が悪くなる。腹に圧力をかけるとそうなるのだろうか。その後、スクワット計100回。本日は速くやろうとした。50回が限界。一息入れて30回、さらに20回。100回連続して100秒は持たないね。

 そしてサンドバッグ。順突き、順突きから同じ手でフック、1,2パンチを左右やる。さらに1,2の後フックパンチ。左右中段回し蹴り、20本。腰に乗せ蹴る感覚で。回転面を斜めにして上段を蹴る感覚を試す。まだまだ固くて上手くいかない。まあ、少しずつだ。回転面を斜めにして上段を回し蹴る感覚は、これから何度も試してみよう。地道にやればいい形になって行くことを信じて。

 真向法をやっているうちに午後1時を過ぎ、昼トレ終了。だいたい20分だ。昼飯も食わんといかんから、それ以上長時間はできない。

 サンドバッグを全力でやると決めたのは中々よいことだ。フルパワーでやりつつ脱力するすべも体に覚えこませよう。スピードと極めを意識すれば、脱力しながら非常に威力のある突き蹴りになるはずだ。全力でやってみないとそのような力の使い方を習得できないと分かる。全力をかけているんだが余分な力が抜けていて、突き刺すような突き蹴りになること。スピードと極めだね、やはり。極めは、力と言うより筋肉を締めて破壊力となる力をきちんと伝えること。これを会得すると、スタミナを消費しないから1分程度は間断なく技を出せるに違いない。

2011年3月8日火曜日

腰の柔らかさを求めたいが

 久しぶりにサンドバッグの昼トレ。スクワット100回やるべき日なので、それもやる。相変わらず一息にはできない。70回で小休止。息が上がるのと筋肉疲労と・・・、同じタイミングでへばる。1日おきにやると決めてかれこれ2ヶ月弱は経つのに、中々楽にできるようにはならないもんだ。残りの30回も最後の方はしんどかった。100回のスクワットを高速でやればわずか100秒で終わる。何という効率のよい下半身の鍛錬であろうか。今のところは100秒もたない。

 サンドバッグは、どうせやるならフルパワーでやろうと、今日から決めた。おかげで汗だくだ。突きの単発とコンビネーション、中段回し蹴り左右各20本。まあ、昼休みだから短時間。短時間稽古でモーションチェックやコンビネーションの組み立てを考えてもしょーがない。全力の突き蹴りをやることにより、筋力とスタミナ鍛錬にしていこう。わずか2分でも全力で突き蹴りをすると息は続かない。それを続かせるようにする稽古とする。昼休み後に汗だくになるのは困るが、まあしょーがないね。

 蹴りをするときには、なるべく腰に乗せるというイメージで蹴っている。それが少しずつ板に着いてきた。腰に乗せて、つまり足を折りたたんで腰の脇につけ、腰の回転と多少前にせり出す力でぶちかますように蹴ると威力が出る。これはできてきている。次には上体を少し倒し、腰の回転を水平ではなく斜めの面で行い、上に足を蹴りあげながら回転するという感じで、上段回し蹴りを華麗にできるようになりたいのであるが、まだ上手くできない。体が固いことがあるが、腰の寝かせ方によってはできるはずだ。まだまだ試行中。腰に乗せると言うイメージは、次のその上段蹴りをできるようにする為でもある。腰を寝かせて上に足を放てる斜めの面で回転した時に、そのまま上段を回し蹴れるはずだ。

 何故にまだうまくいかないか。軸足と上半身の使い方に何か秘訣があると思う。俺は体は固いが長年柔軟やり、ストレッチで120度以上は開く。限界開脚は150度まで行っていると思う。120度開いたまま、体を斜めに倒せば足は十分上段に届く。

 年をとって、腰が固くなっていることは感じる。静的ストレッチはピンポイントの柔軟であり、ある態勢で足が開いても、少し上体の角度を変える等、別の態勢になると開かないこともある。柔軟をやっていない角度は固いままになっているということ。この辺を直そうと思い、多少動的ストレッチに感じる真向法を採り入れた。

 腰の柔らかさ、これを伸ばす柔軟はなんだろうか?研究が必要だ。
 

想い出話し 

 本日はいつもの昼トレ。

 V字腹筋60回、寝て反る背筋30回。バタフライ、8‐8‐5回の3セット。懸垂3種、10‐8‐5の3セット。ダンベルショルダープレス、8‐5の2セット。その後、真向法の柔軟。昨日、下半身トレーニングは割合みっちりやったので、スキップ。下半身のトレーニングをやらなくてよいのは気が楽だ。

 以上で20分。その後食事。昼休みであるから飯も食わないといかんので、昼トレは20‐25分。それが毎日の日課だ。上のメニューに下半身ウェイトやスクワットを加えようとすると、間を縮めなければならず、かなりハードになる。そのようにする場合もあるが、その場合は「今日はやるぞ!」と最初から気合を入れないと、中々こなせない。

 今日はまあ、普通だった。気合を入れずに淡々と。

 学生時代、4回生の春、妙に透明で研いだ練習をした時期がある。関西の学生個人選手権が迫っていた。火木土の5時から8時までの部の練習の他に、月水金、道場で自主稽古を1‐2時間ばかりだろうか、行っていた。その自主稽古の中心にしていたのが、八方蹴りである。

 うーーん、熱心にやっていたんだが、今思い出そうとするとあまり定かではない。受けて逆突き、即後ろ足の蹴り、順突き即前足蹴り。この単純な順番だったと思うが。これで四方を2回やるから計八方。廻るときには受けを入れる。

 外受け、内受け、上段受け、下段受けと、受けの種類が変わるが、受けた後の挙動は上記した技を繰り返す。この八方蹴りの本質は、四肢を独立して動かすことである。同じことの繰り返しであるが、それをやりながら四肢を独立して動かす感覚を身につける。

 その後、単発の技、順突き、逆突き、蹴り返し、一歩出て前蹴り、一歩出て順突き等、自分の技をどの程度、瞬時にできるかのチェックをしつつ回数を重ねていた。自主稽古はすべて鏡の前でやっていたので、自分で形やスピードをチェックできた。これが大事だった。皆でやる稽古は、今でこそ道場の正面が鏡張りで自分の技がちゃんと見えるようにしている道場が多いが、俺の学生時代の道場はそうではなかった。鏡が見れるのは一人分。また自分の技を、余裕を持ってチェックするには自主稽古しかなかった。皆との稽古の時はメニューをこなすだけで大変苦しく、余裕なんぞはなかった。余裕を持てるから自らをチェックできるんだが、そういうことが大切であると思う。

 試合が近づく1ヶ月くらい前から、寝床に入ると今で言うイメージトレーニングをした。こう技を繰り出して・・・、そう受けて・・・。かなりリアルに想像して、寝床の中で体がぴくぴく反応していたことも多であった。街を歩くと、すれ違う人にすれ違いざまに想像の中で技を極める。今蹴りで倒した、上段突きの一撃でふっとんだ、とか。物騒なこと、この上もないもんだ。

 試合当日、なぜか早く目が覚めた。朝が弱い寝坊介の俺にとっては、まったくもって稀なことである。目が覚めて全く眠たくない。闘いに臨む気が体に静かに充満していたのである。

 
 O市体育館に現地集合。少し早く着いた俺は、近くの喫茶店を探して入り、モーニングセットを食う。後2、3時間後には試合場のマットにて相手と対している情景がある。いつものことだが、自分ながらにそうなることが信じられないとする、平和な普通の時間である。

 闘いと言うのは別世界である。2,3時間後に試合場に曳かれていくのか、試合場に自ら歩み出て立つのかは大違いで、どっちを想像するのかは、その時の精神の強さにより異なる。

 今日はここまで。
 
 

2011年3月6日日曜日

ジムトレーニング

 いつもと違い、午前中に道場稽古があった。寝坊して参加できず。朝10時スタートは、ちょっと厳しいね・・・、と言って、皆は出ているのであろうから、俺がだらしないということだわな。日曜の朝寝坊を楽しみ、起きたのが9時半だった。

 その代わりとして、午後からジムに行ってトレーニングをした。公営のジムで、使用料が200円なので、時折行く。休みで稽古がない日とか、今日のようにサボってしまった日とか。

 立派な施設である。名称は、S市健康センター。ジムの他に、25Mプールとジャグジーを備えた大浴場に、カラオケができる大座敷、それと多目的スタジオがある。

  • チェストプレス(座って行うベンチプレス)。通常のやり方、脇を開けて握りを広くして、10回4セット。脇を締めて、10回3セット。ただウェイトが不足していて、もっと増やしてくれの投書を2,3回したが、無視されているようだ。まあお役所だし、俺のようにもっと重さを、と言っている人はいないんだろう。だけどなぁ、後20Kばかしウェイトを買ったとしてもそれほど費用はかからないと思うんだが。
  • レッグエクステンション、10回3セット。レッグカール、8回3セット。これは負荷をMAXでやっているが、俺のパワーもMAX必要で、丁度よい。
  • 傾斜腹筋100回、背筋50回、しばらく経って、V字腹筋50回。
  • シーテッドローイング、10回3セット。これもMAX負荷だが、俺もMAX。
  • バタフライ、10回3セット。これは負荷MAXだけど、少々物足りない。
  • 懸垂、10回。梯子があって、その上段にぶら下がってやる。一体何の為の梯子だろうか?あまりやる気もしないので、1セットのみ。
  • スクワット、50回4セットの計200回。上記の種目の間に挟んでやった。やはりスクワットが一番こたえる、気の進まない種目だ。でもやらねばならない重要種目なんでしょうがない。
  • 柔軟。最近試している真向法をやり、その後、さらに限界まで前後、横の股裂きの後、開脚前屈。限界まで広げるのはやはり痛いもんだ。スクワットとこの柔軟が一番汗が出る。柔軟の場合は脂汗だろうが。
  • 最後の仕上げで、前蹴上げ、横蹴上げ、後ろ蹴上げを左右10本1セット。前蹴上げだけは追加2セット。
以上で、1時間半。内容的には十分だろう。ただ負荷がなぁ。不足しているのがあるので、完全な充実感には今一つだよな。負荷が十分ならば、筋肉肥大のトレーニングになり、筋肉が本当に疲労している充実感があるんだが、不足しているので、まあやったよ、という感。今度から上半身ウェイトには、加圧ウェアでやるべきかな。そうすれば負荷が少なくても十分になる。

 公営のジムと書いたが、健康センターなので、老若男女が集う。お年寄り用に、負荷が軽すぎて俺のやらない種目の器具も数種類置いてある。下半身のウェイト器具が多い。何事も下半身が大事であると言うのは、正しい。だから俺は、全く気が進まぬがスクワット100回を少なくとも1日おきには何とかやるようにしている。

 チェストプレスの負荷は100Kである。これがその器具のMAX。俺はこれを割合軽々と4セットまでは10回できる。5セット目はさすがに筋肉疲労して8回くらいで限界。不思議である。寝て持ち上げるベンチプレスでは、85K3セットが限界であった。この違いは、自分の腕の重さであろうか。チェストプレスは座ってやる。ベンチプレスは寝て持ち上げる。当時はベンチプレスの100Kは1,2回はやっとこさできた。今は会社にあるジムからベンチプレスのマシンが壊れて無くなった為、もっぱらバタフライをやっている。ただベンチプレスは、上腕3頭筋や肩の筋肉もある程度同時に鍛えられる為、無いのは困るんだが、しょーがない。

 ウェイトトレーニングで衰えるのはいつ頃だろうか?52歳の今、少なくとも衰えてはいない。ほんのわずかであるが、負荷は増えていると思う。若けりゃもっと増えるんだろうな、とか、1週間ほど出張で休むと少し減るが、随分健闘していると思う。いつ衰えるのであろうか?それが現実となった時に、考えなければいけない。今でも鍛えれば鍛えるほど伸びていくと思っている。鍛えても落ちていく時は、それほど遠い先ではなく、考え方を変えなければいけない重大な時になる。
 

2011年3月4日金曜日

今日は普通

 本日の昼トレは、まあまあいつもの気合の乗ったメニューをこなした。V字腹筋、背筋に、ウェイト5種類。終わりに5分ほど真向法を試した。初めてなのでどの程度力をかけて体を倒せばよいのかよく分からぬが、動的ストレッチのような感じでやった。静的ストレッチほど深く体を曲げたり、開脚の限界までは行かなかったが、これからよく試してみよう。

 時間をかければ静的ストレッチではかなり開脚と体の折り曲げができるようになっているが、空手の上段蹴りのように、必要なのは動的な柔らかさである。呼吸法も入る動的ストレッチの真向法は効くのであろうか? 股関節広げて前屈、閉脚前屈、開脚前屈と、何の変哲もないよくあるストレッチである。これで何でわざわざ真向法と言う名前がつくのか、よく分からぬ。

 ウェイトで大胸筋を鍛えるといかにも逞しくなるようで、よくバタフライをやっているが、ちょっと前に胸だけ盛り上がっていてもどうも格好がよくないことに気が付き、肩を盛り上げるべくダンベルプレス、腕を太くすべく懸垂3種も、ちゃんとやり出した。ウェイトはやればやるだけ筋肉がつくので、懸垂による僧帽筋やダンベルによる肩の筋肉もそれなりに盛り上がった。V字腹筋で腹は絞れているし、スクワットも割合まじめにやっているので太腿の筋肉もついている。

 50過ぎて、今までで最高の筋力を手に入れていると思う。
 後は柔軟性である。柔らかく華麗な上段回し蹴りを。もっとも遠い目標は、飛び後ろ回し蹴りだ

 
 

2011年3月3日木曜日

脛の鍛え方

 フルコン空手をやっている者なら当たり前なんだが、一般人に驚かれることは、弁慶の泣き所である脛が棍棒のようになって、もっとも強力な武器になることだ。バット折りは派手な試割である。

 ある程度脛が固くなってしまえば、バット折りの本数は思い切り蹴りこむスピードで決まる。バットより脛の方が固くなるから、脛が固いバットに当たる痛さというのはほぼ無くなる。が、強い衝撃の場合は脛が多少凹むこともある。

 俺と同じ年代、50前後の奴は、昔「キックの鬼」というキックボクサー沢村忠を描いた漫画で、彼がビール瓶で脛をたたいて鍛えたことを知っていることだろう。

 俺はビール瓶で脛をたたいてみたことは1回くらいしかなく、脛はスパーリングでさんざっぱら痛い目にあいつつ、その内ある程度要領が分かってきたら、街にある標識の鉄柱や金属の足のテーブルなどにコツコツと脛を当てることで鍛えた。脛は、痛いのを我慢して何度も固いものに当てないと鍛えられない。固いものに、痛い!と多少飛び上がるくらい当てると、脛の骨の表面に小さなヒビが入り、そこに骨エキスが流れ込む感じで骨が再生され、より強固になっていく。

 交通標識をよく隠れて蹴っていた。筋肉の打ち身ならばずっと痛いが、骨の場合は数秒で痛くなくなるので、その後また蹴れる。その繰り返しだ。交通標識は細い金属棒であるので、強く蹴ればある程度しなる丁度いい感じだった。これがガードレールの支柱になると太くなり、しなりなぞはないのであまりやりがいがない。木の電柱の表面は金属より柔らかいので、ある程度強く蹴れるのはよかった。ビール瓶で鍛えようとしてやるのではなく、街を歩いているついでに、気がつけばやるということなんで、気軽?である。

 およそ街を歩けば、脛を当てて蹴ってみようというものは色々ある。駅のプラットフォームにある柱も電車の待ち時間に、人気がない場合、隠れてコツコツと脛を当てていた。酔っぱらって帰る遅い時間帯の電車待ちの時間に暇なのでコツコツと。他人が見ると危ない奴と思われることは間違いない。本人は空手の稽古として真面目に脛を鍛えているんだが。

 繰り返すが、脛を当てても数秒で痛みが取れるので、その一瞬の痛みを我慢して何回も気のつく度にやれば確実に固くなり、棍棒のような武器となっていく。日頃の生活の中でちょくちょくやるようにしておけば、回数をこなすことになる。

 50を過ぎると骨がもろくなり、ある時鍛えるつもりで蹴った拍子に折れやしないかと、若干心配なこともある。また昔ほど痛いのを我慢して蹴る気もだんだんなくなってきており、身の回りにある固いものを蹴って鍛える回数はめっきり減った。いい年なんで人目も昔よりは気になるし。

 もし人目を気にしないでよいのならば、空手用のトレーニングなぞはどこでもできる。電車の待ち時間にスクワットをする、道を歩きながら標識や電柱にパンチを叩きこむ、脛蹴りをする、とか。

 まあ、変な世界の住人だ。

本日は昼休みも仕事をする羽目になり、昼トレは無し。
しょーがないからせめて、風呂場で、体洗いスクワット100回、続けて洗髪スクワット50回 をやった。

2011年3月2日水曜日

何の為の空手か? 第2回

 本日の昼休みは軽く流した。会社にある道場に行って、軽いパンチのコンビネーションをサンドバッグに打ち込んだ。

 俺のトレーニング環境は本当に恵まれていると思う。会社にはジムがあり、ウェイトのマシンや柔軟のできる十分広いスペースがある。ランニングマシンや乗馬マシンも置いてあるが、そっちの方は興味なし。マッサージチェアも5,6機置いてある。それ以外に空手部の部室兼道場があり、マットを敷いた30畳くらいの部屋があり、サンドバッグもぶら下がっている。重いバックスキンの上等なサンドバッグだ。平日の昼休み、20分程度であるが、ジムと道場を日替わりで訪れ、トレーニングをしている。

 今日は久しぶりに最も緩いサンドバッグ稽古であった。まあ、どうも気合が乗らず、パンチを軽くサンドバッグに繰り出しながら15分程度で切り上げた。道場で一緒になった道士とくっちゃべりながら。

 「最近また、繰り返しだが・・・、何の為に空手をしているのかと考える。この年になると、普通は健康の為だよね。」
 「そうですよ。それ以外に何かあるんですか?」
 「昔からやっているせいもあり、練習は強くなる為にやると考えてしまう。実際52歳になった今でも、まだ強くなっているような気がしているんだが・・・。ただ昔との大きな違いは、強くならずに衰える地点が明らかに近い将来、来ることだ。もう来ているのかもしれない。強くなっていると思うことは錯覚であって・・・。」
 「・・・・」
 「稽古をするからには、強くなろうと本能的に思ってしまうんだよね。」
 「・・・・」
 一人語りをしてしまったが、彼はよく付き合ってくれた。
 「一昨日、21歳で95Kある強い若者とスパーリングをしたんだけど、まあまあだった。俺もまだまだ互角以上に戦える。ただ明白に言えることは、彼はまだまだ伸びていけるが、俺の方はもう少ししたら衰えるということなんだよね。理屈ではそうだ。自然現象としてもそうだ。ただ、今はまだ衰える気がしないんだよな。でも近い将来現実になる。弱くなるに違いないのに、何を求めてがんばっているんだろうか?と思う」
 「・・・・」
 「やっぱり健康の為にやっているんだよね。」と笑う。彼もそうそうと同意する。

 年をとっての武道はいかにあるべきか?

 年を経るに従い、精神性が養われ、続けてきた修行により立派になっていく・・・というような感じは、まるっきりしない。むしろ学生の時の方が感受性や哲学的思考に冴え、精神性が高かった。今は精神性よりも、より現実的なパワー、腕っぷしや組手の強さにひたすら眼が行く。年をとるにつれ人間性が練れてくると言うのはどうも幻想である。精神の修行という発想自体がなく、既にある人生経験からの考え、既にある様々の物理から離れることはない。

 若い者には負けられぬ、の思いでもよかろう。それをやり続けて、やり続けられないことの肉体的限界を感じつつも悪あがきをして・・・、そのような振る舞いの中に、年をとるほど昇華されない何ものかのえげつない欲望、それを見ることが正しい道なのかもしれない、と最近考える。

 結局、若かろうが年取っていようが、一緒なんだ、と。しかるに非常にがっかりするんだが、年をとることは衰えであり、若いということは伸びである。年寄りはいずれ若い者に負ける。

 この考えの上で、かつてマッカーサーが言った、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」は、確かに真実である。

 

 

 

2011年3月1日火曜日

何の為の空手か? 第1回

 重いタイトルをつけた。
 
 若い10代の頃は、強くなりたくて空手を始めた。

 高校時代、因縁をつけてきたある不良とのサシの喧嘩では勝ったが、その後バックの不良達が出てきてビビってしまい理不尽な脅しに屈したことがある。不良少年の間ではよくあることだ。俺は不良少年ではなく成績優良の生徒であった。バックの奴とケンカしてもし勝てば、またそのバックが出てくることだろうし、そもそもケンカすれば負けて怪我をする確率が非常に高い。不良数名に囲まれながら、俺はそのような世界とは付き合いきれないと思った。こちとら勉強しなければいい大学には入れない。喧嘩の世界にも同時に身を置くことはできない。土下座しろと言われたので、言うとおりに土下座してその世界から離れた。

 ただどうのこうの言っても、男として尻尾を巻いて引き下がってしまったので、悔しくてしょーがなかった。何せ理不尽な脅しに屈した土下座だ。勉強をちゃんとし、大学に入ってから腕っぷしも精神も強くなる為に、空手をしようと決めていた。

 そして大学空手道部。関西の学生大会でも5本の指に入るくらい強くはなった。大学で何をしたのかと問われれば、空手をしていたと答える。勉強そっちのけで空手の稽古に励み、空手を通して強くなることを求めた。精神力を鍛えることも、ある程度為された。なにせ耐えねばならぬ練習がハードだった。我慢強さが養われた。不思議なもので高校時代は目立ちたがり屋であったのだが、空手を始めて腕っぷしに自信をつけるに従い、奥ゆかしく?なった。別段目立って自己主張のようなことをする必要はなく、淡々として己を鍛えればよし、と。きれいな言葉で言うとそういう風になった。

 会社に入って、仕事を空手を同じようなスタイルでやった。そうするともう大変だ。土日の休みの内土曜日は一日中仕事関係の勉強をしていた。そうしないと大学時代空手にかまけて勉強して来なかった俺は仕事で勝てない。そこまで賭けると今度は、不十分な気持ちで仕事をしている奴がだらしなくてしょーがなく思えてくる。必死でやっているとは思えない先輩にも食ってかかり、人間関係を随分悪くしてしまった。

 空手はもちろん己を鍛えることが第一義的であるが、試合等闘いの場では勝負である。そこでは全力をかけねばならぬ。そのように考える自分としては、仕事の世界でも勝つか負けるかになってしまう。勝つには勝つ資格がいる。それは必死の努力であり、その大きな量と質を背負っているから闘いに臨む資格があり、そしてその背負っているものを互いに出し合い、比べて勝ち負けが決まるようなもんだと・・・、空手の試合ではそう思っていた。強いから勝つのではない、勝つから強いのだ、ということだ。勝つときには背負っているものが相手より大きかった。

 俺はよく自分を「2流の上」と称した。1流は、やはり大乗感があり、俺のような小乗的な勝ち負けにこだわる世界ではなく、周りの人をも巻き込んで前に進めるような豊かさがあると、思っている。でもそれは俺の器ではできない、俺は勝ち負けに一喜一憂する2流の上でよいとしていた。それがおもしろい、と。

 しかしながら、2流の上の限界は、チャンピオンになれないことである。トップを目指す努力や闘いをしても、チャンピオンにはなれない。いい所でふと満足してしまう。勝ち負けにこだわるという考えとは相反するようだが、勝ち負けにこだわる故、自分の尺度の上で、ある所まで勝ってしまえばそれで自己満足して終わり、その後に負けても心底の悔しさや自己否定が出てこない。予想よりいいところまで勝ち進んだならば、まあよくやったもんだと思ってしまう。勝ち負けにこだわるということは、そういう相対的な成績みたいなものを是認する。ところがチャンピオンになれる人間は違う。相対的でなく絶対的な所に住む人間である。最初の頃は勝ち負けを気にすることもあったろうと思うが、勝ち続けることを当然のように厳しく課した人間である。その生きざまにおいて大乗的であり、周りを感動させる。あるいはチャンピオンになった後の振る舞いとして、大乗の道を歩む。

 100人のトーナメント大会のチャンピオンはただ一人、負けなかった人間であり、2位以下は負けている。この負けなかった1位と負けた2位とは、1位2位と表彰する以上のはるかに大きな隔たりがある。昔の命のやり取りの闘いにおいては、1位以外の人間は既に死んでいる。

 大乗観の仕事のやり方をその後、色々な失敗も積んでしだいに分かってきた。武道で言うならば、柳生の活人剣である。闘いつつ闘いの中で人を活かすすべである。一緒に働く仲間がいるのならば、高い目標にその仲間の得意技を結集して達成し、喜びを分かち合うことが、活人剣であろう。剣は人を殺す道具である。それを活人剣に転じた柳生は・・・、なんでそのような発想が生まれたのか、まったく不思議であり、またそこに至る凄まじさは如何様なものであったのだろうか。

 小乗の研ぎ澄まされた殺し合いの厳しさ、大乗の慈悲と人を活かす思想。まあ大乗は小乗を含むと言ってしまえなくもないが、正しく仕事をするには両方が必要であろう。

 空手の大乗観の方はまだ分からない。大学時代の殺気あふれる稽古と試合、それは勝ち負けの世界であり、武道として生き死にの世界を、理解をしていると思う内にあった。

 負けた時は死である覚悟の空手。今まで何回死んだか分からぬ敗戦の数。すべて大事なことは敗戦から学んだ。勝ち戦から学んだことは全くない。勝ちは単なる事実であり、負けは多くを深く考えさせた。勝ち負けにこだわる人間は、負けから学ぶ。こだわらぬ人間は、一部の天性の大乗観を持つ人を除いて、学ぶことが少ない。負けから学んでばかりいるから、2流の上であるとも言える。