2011年2月12日土曜日

空手経歴

 大学に入って空手道部に入部して空手を始めた。まさか今に至るまで空手を続けようとは思いもよらなかった。
 高校時代にブルース・リーの「燃えよドラゴン」が大ヒットし、少年マガジンでは「空手バカ一代」が大人気連載中だった。もろにその影響を受けて、大学に入れば空手部に入り強くなるんだ!と意志する青びょうたんの受験生であった。
 無事合格し、クラブのオリエンテーションで空手道部を訪れ、そのまま入部した。同期生はのべ30人近くいたが、4年間の最後まで残ったのは7名であった。
 大学の流派は剛柔流。伝統派空手である。
 小生の空手経歴は、この大学4年間と、その後会社に入り極真空手の同好会1年、それから20年ほどのブランクの後、フルコンタクト系空手を再開しての7年間である。今から思えばブランク期間の何と長いこと。その時は運動という運動はまったくしていなかった。6歳になった息子を近所の空手道場に入れてから、昔を思い出しうずうずし出した故に自分もやり始めたが、本格的に行うフルコンタクトの技の違いが面白くて今に至るまで続いている。その間、息子は早々にリタイヤ。オヤジだけがエッサホイサとやっている。
 空手の帯は流派を変えると白帯からやり直しである。大学で剛柔流初段をとっていたが、最初のフルコン流派は白帯から緑帯までやった。その後転勤もしたのでフルコン流派を代わり、現在の流派も白帯から始め今は初段である。50歳にしてようやく初段をとった。中々その歳で昇段する人はいなく、これはこれでまた大変だったが、その内おいおい振り返ってみよう。

 何といっても学生時代である。勉学と言うより空手道部で青春をおくった。練習もすさまじくハードであった。新入生歓迎合宿と言うのが入部早々4月にあり、1週間大学構内に寝泊まりして朝昼夜と練習するのであるが、それを終えて下宿に戻った時に下宿のおばさんが驚いた。げっそりと頬がこけていたからである。練習の合間を縫って講義に出るべきではあるが、そのような気力なぞは到底なく、その時点から講義をサボるということも覚えた。このやり方が4年間続いたことになる。練習は必ず出るが講義は可能な限りサボる、と。
 練習を必ず出ると言っても、火木土の夜の3時間稽古は、出る直前まで「嗚呼いやだ、出たくねぇ、出たくねぇ」と処刑場に連れられて行く囚人のような気持ちかつ重い足取りで道場に向かう状態だった。出るだけの気力をつけるために授業をサボり、喫茶店で「あしたのジョー」や「空手バカ一代」を読んで気力を奮い立たせていたことも多い。かの漫画は何回読み返したことか。
 昼休みのトレーニングは毎日あったが、それには次第に慣れて来た。基本技を多少やった後で、ランニング3Kに腹筋100回、背筋50回、拳立て50回といった基礎体力をつけるための定番メニューであった。時間にして30分ほど。外でやるから春秋は気持がよかった。当然夏は暑く冬は大変寒い。空手道着を着て裸足で走る為、夏は焦げたアスファルトの上をアチチと跳ねて走るし、冬は冷えたアスファルトに足が吸いついて感覚が無くなっていくのを味わった。どちらも体力を鍛えることには何の関係もなく、足の裏の皮を鍛えるのみである。しばしば足の裏に水膨れができ、痛いものだからそれをかばって変な走り方をすると余計な所に筋肉痛を起こすという、これまた健常な鍛錬とは関係のない修行であった。
 この昼休み練習は1,2回生の2年間行った。昼錬を終え喫茶店に行き、あしたのジョーを読み気力を掻き立たせて5時からの夜錬に備えるという日々を何日やったことか。学生の本分である勉学をおろそかにしていた。
 同輩で豪傑がおり、学生は勉強をし空手をすればよし、他のことはする必要なしとして、もう諦めたようにそれを実行するやつがいた。彼は偉大であり、今は重責を担う役職につき活躍している。小生はそうは行かなかった。空手で苦しい分、授業をサボり休息していた。彼も空手を続けている。50歳を過ぎ空手をそれなりに稽古しているのは、我が同期では彼と小生のみである。空手に入れ込んだ思いの強さが互いにあったようである。

 今日はここまで。

 

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