2013年11月10日日曜日

誤表示とは

 道場を退会して定期的に空手をすることは無くなったので、このブログのタイトルである「熟年空手家」と名乗れなくなった気がする。それからランニングを始めてしばらく経つが、熟年ランナーとタイトル変更しても内容のほとんどは空手に関するものであるから、しばらく、あるいは面倒なのでこのままで行く。

 ・・・・・

 さて、阪急阪神ホテルがメニューの誤表示を行ったと発表してからは、有名レストランや老舗百貨店もメニュー誤表示をゲロってしまい、業界全体でこういうのが普通だったのかと思える状態になった。メニュー誤表示の内容は、安いナンチャラ海老を芝海老、輸入肉を和牛、もしくは脂肪注入の加工肉を高級そうな牛ステーキとしていたこと等である。

 彼らは誤表示、連絡ミスとか納入業者を信じたとか言っているのであるが、誰が見ても「偽装」と言えるものである。安い材料で仕立てたものを、高く売っていたのである。組織防衛の観点から、その後に来る裁判のために「偽装」と言うと駄目らしい。またサラリーマン経営者としてはその建前を言わざるを得ないのであろう。

 と、見ている我々もそんな論理を妙に納得している所もあるが、こんなことは駄目だよね。「うそをつくな」と子供に教育している大人達が、子供に顔向けできないし、もう言えなくなる。青少年が、「だって大人だって一杯うそをついているじゃないか、だから俺だって」と言ってよろしい世間になる。そりゃごく一部の悪い大人がうそをついたら、「ほらよく見なさい、あんな大人になってはいかんぞ」と言うんだが、そうそうたる大企業の面々が皆一様にうそをつき、記者会見だけを乗り切り平然としているのならば、この日本社会全体がおかしくなってしまう。

 彼らは子供に「うそをつくな」と教育できなくなった。露見した時の経営者として運が悪かったと思っているならば、それも論外である。

 今のメディアは「偽装問題」で白熱しているが、それもいずれ下火になるであろう。挙げられた企業は、行政からの罰や裁判に進んで行くのであろう。その過程で「誤表示」がやはり「偽装」だったとなるかもしれない。

 しかしなぜ「偽装だった、申し訳なかった、今後は二度としないしない」と最初に言えないのか?これは道徳の問題である。そういうことを軽く考え結果的に上手くやれるならば、今後の社会を担う若い人たちに道を誤らせてしまう。

2013年10月25日金曜日

空手を一休み

 若い時はやる事なす事すべては自分の未来のためにあった。年をとり50も半ばになると、さすがに自分の未来のためにがんばるんだぜという強い動機は無くなってきた。それよりも今を楽しむ心。もう少しで会得できそうかね? まだ疑問符。たいして理由もなく走り始めて3ヶ月余り経つ。走ることは自分の体を未来に向けて鍛えることではなく、走ることそのものが今楽しいと、そこはかとなく思えているようだ。だから走ることが続いている。自然を見て美しいと思うこと、人と会話して楽しいと思うこと、本を読んで新しい発見や意見に心を沸き立たせること、そういう今を楽しいと思えるように・・・そろそろなれそうな気がする…? 嗚呼まだまだクエスチョン。

  もうかれこれ8ヶ月が過ぎる、道場を退会して。競技を強く意識する空手をこのまま続けていても無意味に思えて。だからやめた。そりゃ若いときは試合に出て負ければ悔しくて、クソ今に見ておれ今度は勝つぞと、その連続で強くなっていくことができたし、それが自分を将来に向けて鍛錬し成長させることであった。その時は感じる余裕なんぞはなかったけれども、成長の過程そのものを若き生命が楽しんでいたっちゅうわけよ。

 年をとり試合に出て負ければ無論悔しいのではあるが、クソ今に見ておれ次は勝つぞと言う若い時と同じ感覚で行動して、それがどういう価値を持つのかと考えた。次は勝つぞとするならば、ひたすら稽古だね。若かろうが年をとっていようがそれは同じだ。人に勝つにはそれなりの資格がいる。俺のような未熟な道士ではどうしても人に勝つための稽古になってしまうんだよね、正しい姿勢は己に勝つということなんだろうけれども。その、試合や人との闘いに勝つことを望んで、60、70になっても延々と続けることにどういう意味があるのだろうかという疑問、実はここ2、3年頭にあった。キリが無いわな。競技を目指した空手はもうやめよう。

 で、しばらくは休みとする。30年以上も前からやってきたものであるからいずれはまた戻るとは思うが、しばらくは別のことを。

 ランニングと自転車を始めた。なにかこう、どんどん一人でできることになって行くな。空手にしても闘いには相手がいたんだけどな。

2013年10月21日月曜日

ランニングとサイクリングの週末

 9月7日土曜日は早朝9キロラン。朝は気持ちがよい。走る前にバナナを食べてエネルギー補給をし、今日は途中休憩なしでいくことを目指した。いつもならば5Kの中間地点、丁度坂を登り終えたあたりで苦しくなり水飲み休憩をする。休憩をすると息は整えられるが足の疲労はそんなに簡単に回復するわけでなく、再スタートはヘロヘロ引きずるように。そう、そんなことならば休憩なしで走り続けるがよかったと思えるほどじゃ。いつもならば後半部分は足のエネル ギーが無くなるのを感じるので、バナナ一本とは言えエネルギーを入れた。すぐ消化されるわけではないが気持ちパワーが出る。何も食わずにスポーツ飲料だけだと本当に消耗して足が与太る。

  いつも柔軟を行う8Kの地点までノンストップで初めて走ることができた。よーし、上出来だ・・・と確かに思うが、これで今度から8Kノンストップ、約1時間走り続けることが標準になる。今までは30分ノンストップ。30分が1時間、そして2時間と走る時間を長くしていくことが一人前のランナーになるには必要らしいが、さて本当にそこまで求めるべきや否や。

 早朝長距離走るとまだ一日中疲れている。歯医者、禁煙治療の医者とはしごして午後からはのんびりと過ごした。

 次の日の日曜日は リベンジの柴又帝釈天までのサイクリングをした。往復行程75K。今度は一人で行った。これはヒッジョーに疲れた。早朝9Kランの比ではない。家に戻ってからソファーに横になったが、何もしなくても筋肉が疲労でほてるし鈍く痛むように気だるかった。

 柴又帝釈天、寅さん記念館の話をそのうち記すかね…かなりよかった。俺が定年退職した後は寅さん映画をすべて観て、その土地へ寅さんと同じように旅するか。昭和そのもの、昭和は遠くに成りにけれ、だ。

2013年9月24日火曜日

小雨ランニング

 朝小雨。気がつかなかったが気合を入れて起きて外に出たので、これは走るしかないね。秋分の日を過ぎてこれからどんどん暗く寒くもなるだろう。いつもの3Kコースだが途中休憩と足上げ鍛錬は無しにしてノンストップで走った。今までになく速いペース。それでも5分/Kか、やっと。

 昨日の早朝は早起きできずに走りはしなかったんだが、早めに会社へ行き1時間みっちりとウェイトをした。チェストプレスの最大負荷の自己記録が持ち上げられずに不満足。昼にも挑戦し敗退、帰りがけに挑戦してようやく成功。このチェストプレス負荷をやり出して3週間以上になるが持ち上げられたり持ち上げられなかったり、その日の筋肉の疲労や気力の状態により不安定である。安定的に確実に挙げられなければ負荷は増やせんな。後10Kでマシンの最大負荷になる。そこまで行くのが目標なんだが・・・しかし目標達成したと言って何の役にも立たんよね。

 淡々とトレーニングの日々哉。

2013年9月15日日曜日

自転車行、8ー9月

 自転車を手にいれたのが8月18日。7万円するそれなりのクロスバイク。それから毎週末走っているので記録しておく。

 8月18日(日)。手にいれて早速入間川サイクリングロードへ。城西川越高校まで往復。行程30K。面白いのは家内が買い物チャリでつきあった。彼女はたいへんそうだったね。家に戻りサロンパス満杯の女房殿。

8月24日(土)か25日(日)。どちらの日か忘れたが、入間川サイクリングロードを往復した。少し荒川サイクリングロードにも入ったらしい。指扇近辺をウロウロして蕎麦屋で昼飯を食った。行程60K。

8月31日(土)。柴又帝釈天を目指して羽根倉橋からスタート。もうすぐで着くところだったが 、同行者が熱中症でダウン。片道のみ故、行程35K。

9月8日(日)。俺一人でも再チャレンジだとして柴又帝釈天まで往復した。さすがに疲れ切った。行程75K。

9月14日(土)。おそらくこれから定例になるであろう入間川サイクリングロード往復。川越の終点近くを街の方に出てラーメン。この日は朝10Kランニングしているので、帰りに疲れが出て何度か休憩した。自転車は姿勢を固定するので変な疲れ方をする。芝生にギシギシと腰を伸ばした。行程50K。

ランニングとサイクリングの週末 2ー1

 台風が来ているらしい。朝からずっと雨降りだ。こうなると今日のランニングは中止であり一抹の安堵感をおぼえる。ハテ?好きで走っているはずなんだが。またぞろトレーニングノルマとなって来たか・・・。

 朝早起きして走ることにしてもう3ヶ月が経つ。始めた頃はいつまで続くのだろうか、飽きてやめたくなればそれも良いとして気楽にやっていた。平均すると1日おきに走っているくらいであろうか。最初のうちは寝坊して走らなかったり、膝を痛めて1週間程走らなかった時期もあった。年を取りいきなり走り出すとまず膝が痛くなるもんだ。

 そもそも長距離走のどこが楽しいのか、とまだ少し思っている。走るというのははっきり言ってシンドイ。なんでわざわざ苦しい思いをするのか。

 ただ夏の早朝は少し空気が冷んやりして気持ちがよく、まだ汚れていない空気の中で走ると昔懐かしい草の匂いがほんのりとする。悪くない。朝の清々しさのおかげでランニングを続けられている。

 昨日の土曜も10K早朝ラン 。少し距離の伸びたコースをトライしたが長い坂がかなり苦しく途中で水飲み休憩。それでもまずは1時間走り続けた。ゆっくりとしたペースで走り始めた時には 、この調子だと1時間や2時間は楽に続けられると感じるのだが、そうは問屋がおろさず1時間経つとヘロヘロ、足取りもフラフラしそうになるので休憩しないとしょうがない。もう一過性脳虚血発作を起こすわけにもいかんし熱中症で倒れるのも御免だ。

 いつもの通り 、また走り出していつもの公園にてみっちりと柔軟。また走り神社にて参拝。無事朝の勤行を終えた後はビール哉。

2013年9月11日水曜日

トレーニングメニュー

 昨日のトレーニング。

 早朝5:35から、3Kラン。出だしが遅かったのでいつもならば公園で止まるところをノンストップ。ペースを速めた。神社2拝2拍手1拝。三戦型を2回。

 その後会社にて、傾斜腹筋70、背筋60、レッグエクステンション、カール各3セット。

 昼トレは、レッグスワット、サイドレイズ各3セット。柔軟。

 帰りがけに、ダンベルショルダープレス3セット。懸垂は頑張って3種計6セット。

 まあまあ哉。

2013年9月7日土曜日

サイクリング、熱中症に注意

 昨日は自転車で荒川サイクリングロードを走り柴又帝釈天まで行こうとした。その500mほど手前で相棒がダウン。熱中症。
 いきなり来るのではなく、走っている途中からちょくちょく足がつり出したらしい。途中でスピードが落ち何度も休憩をするので 、ちょっと変だぞと思っていた。まさか熱中症だとは。
 ダウンしたのが良観寺というお寺のすぐそば。今から思えばこれは非常に幸いなことであった。軒先の日陰でしばらく休憩。時折立ち上がり歩けるかどうかを試す。コンビニで氷を買ってきて冷やしたりスポーツドリンクや栄養補給のためのエナジードリンクなども食した。かれこれ1時間半も経ったろうか、しかしまだうまく歩けない。意思に反して足の筋肉がピクピク勝手に動きコントロールできないらしい。しかも頻繁に足がつり痛いようだ。
 そろそろどうするか決めなければならない。俺としてはここまで来てゴールの帝釈天にたどり着けないのは残念この上なし。彼と別れて俺だけでもひとまず行ってくるかという考えも頭をかすめるが、かすめるだけで何とかしないとしょーがない。とても自転車に乗って行けそうにないから歩いてどこか泊まれる所を探すか、それとも救急車かタクシーで病院に行くか。しばらくグダグダと相談したが、やはりどうにも動けそうにもない。結局お寺でタクシーを呼んでもらった。自転車も境内に置かせてもらった。感謝すべし、良観寺。
 相棒昔この近所に住んでたこともあり病院のアテはあったので、そこへ向かうこととした。タクシーを降りて何とか歩き出したものの足がつって大変苦痛。病院の玄関に入るやいなや倒れ込んでしまった。症状が悪化している。
 看護師さん困った様子。医者の先生も出てきて「この際ここで点滴をしましょう。まずこれは熱中症です」玄関を入ってくる人は驚くだろうね。入ってすぐ行く手を阻んで彼が横たわっている。足を跨がないと中に入れない。かれこれ30分ばかり玄関に寝そべっていたが、まあ明らかに不自然だわな、少し回復してから上半身を抱え待合室まで引きずっていった。ソファーで点滴を続ける。
 点滴1本を打ち病院を出たのが午後5時。もう1本打ってくれないかと言ったが病院が閉まるので無理。しょうがない。相棒、病院に勧められた経口補水液を近所の薬局で4本買ってひたすらゴクグク。この判断はよし。この後電車に乗り戻ったのであるが、電車から降りる時にも足がつり硬直した足を不自由に動かして歩いていることもあった。経口補水液はどんどん飲むにこしたことはない。飲まなければもっと酷かったであろう。
 車を止めていた河川敷まで戻り、車でとって返して寺に置いていた自転車を回収した。
 病院を出たのが午後5時。河川敷の車に戻ったのが大方7時。それからまた柴又まで車を走らせた。埼玉県から都内のウオーターフロントまではそれなりの距離がある。

 中々に色んなことがあった長い一日だった。
 相棒、無事に自宅に帰り、次の日は近所の人と飲みに行ったとのこと。足が意思に反してではあるが強烈につったため筋肉痛がするとのこと。

 秋にはリベンジサイクリングをしよう。

2013年8月31日土曜日

健康・・・バカ?の一日

 土曜の早朝。3Kランを終えてビール。至福のひと時。俺も安上がりだ。

 朝5時半から走り出す。少しずつ日が短くなっているのがわかる。十分明るいが前はもっと前から明るかった。往路は2K。今日は休みだから急ぐ必要もないのでゆっくりと。昨日は最初から早めのペースにしたが、それをやり出すとまた修行のようになり辛くなる。年を取ると運動、いや身体を動かすというのを如何に楽しむかの観点でないと続かない。とは言いつつも・・・・いつも少しでも強く速くと求めてしまう俺がいるのは判っている。

 今日は緩めのペース。それでも調子が乗ってきて徐々にペースは早くなった。まあ2Kだから。公園に着いてから、柵を持ち前・横・後ろ蹴り上げを左右各20本。その後前蹴りと回し蹴り、今日は側刀蹴りも、各50本やった。いつもは30本だが、まあ休みだから。しかしこれから50本にしてしまうに違いない俺がいるのも判っている。

 帰路はまず1K。神社がある。そこでお参り。太平洋戦争で死んだ地元の人が祀ってある社と本殿があり、各々二拝二拍手一拝。死者は伝説になっているが、戦いたくもないだろうに国家に動員され、死の恐怖に怯えたに違いない普通の人々を想う。それは俺であり、今も変わりない普通の人々だ。

 本殿で家族の安寧を祈るが、戦死者の家族も同じように祈っていたことだろう。祈りなぞは通じない。しかし人は祈ることをやめない。

 神社から家までは200M。最後だからダッシュ。家に着いてから、三戦2回。

 そしてシャワーを浴び、今ビール。

 今日は一休みしてから自転車で走りにいく。80Kくらいになるだろうね。健康・・・バカがつく一日?

2013年8月30日金曜日

久しぶりの記。早朝ラン

 ふむ。随分久しぶりに書く。
 色々なことがあったようで、実はシンプルな一つのこと。
 俺はしばらく空手を休業することとした。考えはおいおい記す。

 トレーニングは前にも増してやってる。早朝ラン、週末自転車、昼間はウェイトトレーニング。技とか道ではなく、ひたすらインフラを鍛えるというか、体を動かすことを愉しむというか・・・、まあそんな状態だ。

 本日朝。3Kラン。途中の公園で、前、横、後ろ蹴り上げ左右各20本。前蹴りと回し蹴り各30本。家の近くにある神社で参拝。家についてから三戦2回。蹴り上げは公園の柵を持って、柔軟と足を持ち上げる筋力を意識して行う。

 ランによる持久力、蹴り上げの柔軟、三戦の呼吸。おまけに神社参拝の信心まで備わった、優れた早朝パッケージトレーニングだな、こりゃ。

ウェイトや自転車については、そのうち記す。

2013年2月23日土曜日

先輩の壮行会→ フルコンとの出会い→ 一撃必殺ということ

 庭先で咲き始めた梅が美しい。

 さて。

 先日、空手の師匠とも思っている人が転勤になり、その壮行稽古と宴席に出てきた。

 新幹線で行ったんだが、痛飲した帰りに新幹線の駅を乗り過ごしてしまい、終点の東京駅でようやく目が覚めた。自宅までの電車はなく、池袋まで戻ってマンガ喫茶で仮眠。日曜の夜明け前に池袋駅に行くと何と多い若人達。土曜ナイトを遊んで過ごした人の多さに驚いた。半分は若い女性だ。日本はなんて平和か。だが、こちとらも、まったく偉そうなことは言えない。

 久しぶりに多くの道士が集まった充実の稽古であった。最後は師匠の総当たり戦。10数人を相手に50も後半にさしかかる男がよくもまあ持つもんだ。改めて敬服した。小生も恩返しとばかりに全力で向ったから・・・、始末の悪い弟子ではある。

 30年の付き合いになる。小生がふと立ち寄ったトレーニングジムで、女の子二人を相手にニコニコしながら空手を教えている師匠を初めて見た。当時はまだ20代の若さだ。大学空手道部で猛稽古を積み、試合でそれなりにブイブイ威張れる実績を積んだ小生から見れば、あんな軟弱な空手稽古があるのだろうかと驚きであった。カセットレコーダで音楽流しながら基本技をやっている。後から聞くとその一人の女の子の発案であったそうな。(ちなみにそれが後年、小生の細君と相成った)。今で言うとボクササイズの空手版であるから、彼女、先見の明あり。こんな空手があるのだろうか、メチャクチャだねと呆れ顔もしつつ、野次馬根性でウェイトトレーニングの合間にチラチラ見ていると、その内師匠がニコニコしながら近寄ってきて、「空手に興味がありますか?」「はい、大学でやっていました」「流派はどこですか?」師匠はずっとニコニコ。「剛柔流です」「おー、そうですか、よければミットでも蹴ってみませんか」

 当然と言えば当然、こんな軟弱空手稽古に本格的な空手を一丁見せてやろうと、小生は師匠の持つミットに向かった。「ローキックをやってみましょう」「えっ、ローキックですか?」30年以上前の伝統派にはローキックはない。まあ今でもないが。回し蹴りさえなく、蹴りは前蹴りと三日月蹴りのみ。試合でポイントとれる蹴り技は前蹴りのみであった。今の伝統派空手は回し蹴りもポイントとれるので、基本稽古にも入っていると思う。

 空手バカ一代の時代に育ち、大学空手道部に入った小生だから、極真フルコンタクトの回し蹴りも遊びで時折やっていたし、ローキックの鬼と言われた盧山初雄もマンガで知っていた。で、師匠の持つキックミットにローキックをバシバシ蹴り込んだ。大きないい音がする。どんなもんだいと言う感じだね。「じゃあ、今度は僕が」と交代して、小生がミットを持ち師匠が蹴り込んだ。なんとも重い!ドシドシと言う鈍い音を立てながらミットが太股に食い込んだ。師匠は小柄である。小生は183センチの大男。それがずりずりと下がる。腿が痛いし押されてもいる。

 極真フルコンタクトの体重を乗せて蹴り込む蹴りを初めて味わった。伝統派は寸止めでスピード重視であるからそのような蹴りはしない。これは根本的に違うと思った。

 空手は元来人を倒す武術であるから、金的・眼潰しが極め技である。大学時代に先輩からそう教わった。突きは眼潰しに、蹴りは本来金的蹴りになる。今でも沖縄剛柔の蹴りは低い所を蹴る。それじゃあ殺し合いに近くなるので、突きは顔面を、蹴りは水月(ミゾオチ)を蹴る。試合ではスピードが大事であり、実戦でもそうであろうから一瞬の突き蹴りを極めることを求め、それを一撃必殺と呼ぶ。

 結局師匠の極真流の稽古に参加するようになるのだが、しばらくして改めて思ったのは、格闘は総合的であるべしと言うことだ。眼潰しか金的を狙うにしても、その前に相手を色々と崩さなければならない。いきなり金的に入るものでもない。出会いがしらの奇襲攻撃ならばそれもありだろうが、よしこれから闘うぞとして相対した場合は、相手も身構えている。

 フルコンタクトをやることで、総合的に相手にダメージを与える組立てが必要であると判り、初めて格闘の戦術を意識した。それが結局強いのではないだろうか、と思った。金的に入れなくても人を倒すことはできる。フルコンでは上段の突きを試合で使えないから、上段突きを使ってよしとすると伝統派とフルコンタクトとどっちが強いかは厳密には不明だが、それでも痛めつける為の総合的技を使う方が闘いの勘所を体験的に知っているので、まあやはり、フルコンに軍配をあげる。

 昔から空手は「一撃必殺」を称してきた。真面目にきちっと考えるとこの言葉は不思議なもんだ。そんなこと、本当かい?と一歩退いて考えてみよう。金的・眼潰しがばっちり入れば、必殺ではないにしろ相手の戦闘力を奪えるが。

 薩摩の示現流は一の太刀にすべてを賭ける。それを敵として相対する沖縄空手は?

 フーム・・・。沖縄空手の一撃必殺とはいかなるものか。そもそも古来の沖縄空手は「一撃必殺」と述べていたのかどうかは知らぬ。型は受け返しの連続で続く。そこには闘いのシミュレーションがある訳だ。一撃必殺だとシミュレーションは不要になってしまう・・・のだが。

 征服者である薩摩武士と支配された沖縄の民。剣を奪われた沖縄の武人が練り続けた空手。それはやはり太刀を持つ薩摩示現流とどう闘うかを想定したことであろう。示現流対空手。どう考えても剣の初太刀が先に来る。徒手で身を守るには、まずその一の太刀をはずしてから反撃せざるを得ない。この時に一撃で相手の戦闘能力を奪わねば自分が殺される。なるほど一撃必殺は確かに必要だ。しかしもしそれができなかったとしても何とかしなければならない。二の太刀、三の太刀をいなしながら相手の戦闘能力を奪っていく過程が「型」なのであろう。「型」はすべて受けから始まる。剣を相手にすると最初は受けざるを得ない。

 基本の突きには引き手があり、引き手とは相手を掴んで引くことであると、古伝空手の人は言う。なるほど、剣をかわして相手を掴んで引きながら突きを放てば破壊力は増す。だがもっと大事なことは、掴んでしまい、もはや剣の間合いを取らせないことにあったのではなかろうか。

 空手に先手なしと言われ、精神的支柱にもなっている。だが事の始まりはこのように生々しいことのような気がする。先手なしではなく、先手ができないのであり、できれば一触の後で必殺を狙う。それができなかった場合、緻密に作られた格闘の体捌きの中で必殺の機会を何度も捉える。それが「型」であろう。従って型は一連の格闘ストーリーではあるが、起承転結ではない。受けと攻撃の1セット毎に完結していると見た方がよい。最初のセットで倒せなければ2セット目で倒す。セット間は居着かずに動くこと肝要であり、そうしなければやられることになる。

 
        ・・・・・

 本日はここまでで缶ビール4本。史実を特段見ず、己の思索(妄想?)の中でグダグダ述べた。元に戻って、先輩の変わらぬ元気に乾杯! このまま飲みつぶれたいのがやまやまだが、夕刻からの宴席に出ないといけない。ここで打ち止めとしよう。

 

2013年2月6日水曜日

道場稽古行かずに時が経った

 ここ2カ月ばかり道場に行っていない。ああー、イカンなぁ。会社の昼休みのトレーニングも毎日やっていた以前に比べればサボリが目立つ。タバコを吸いだしたのがイカン。昼休みになるとまず一服となり、貴重な時間が失われている。

 とは言え、そこそこはやっており、ウェイトの負荷重量は減ってはいない。典型的な昼休みメニューは、
  • まず傾斜腹筋70-80回。回数をこなすと腹よりも腰が凝ってくるのを感じるのでその回数で打ち止め。背中を丸めて腹に神経を集中し、腹筋で起き上がるようにはしているんだが、それでも腰にくるんだろうね。20-30代の若い頃には無かったことだ。
  • 背筋60-70回。去年は80回やっていたので、これはサボリの為落ちたんだろう。もっとやろうと思えば+20回くらいはできると思うが、この段階で歯を食いしばってやると嫌気がさしそうで、ほどほどで止めることにしている。
  • チェストプレス110Kを1セット目、何とか5回。2セット目は3回で上がらなくなる。3セット目は同じ重量だと上がる気がしないので、100Kに落とし何とか5回。8回2セット+3セット目が4-5回できることが目標。8回2セットをクリヤーできれば、俺の場合次回から重量を上げる。しかし今の頻度では伸びないだろうね。
  • レッグエクステンション105Kを8回3セット。これがマシンの最大負荷であり、後は回数を増やすしかない。レッグカールの方は56Kを8→6→5回くらいが今までの所。これも8回2セットできれば負荷を増やす。レッグカールは今までやっていなかったのでエクステンションに比べればかなり負荷の差がある。新しいマシンが入ってやっとできるようになったのでやってはいるんだが、レッグカールが一番しんどい。「ウー・・・」とうめき声を上げながらやっている。
  • 懸垂を広い順手で8回、逆手で8回、狭い順手で6回くらいでできなくなる。すいすいと8回3セットできるとよいのだが、すぐ負荷をあげるマシントレーニングに比べ、この懸垂はここ何年も同じレベル。時折1種目、例えば広い順手で可能な限り、今だと16回くらいやり、それで終わりとする場合もある。負荷を増やすと伸びるんだが、自分の体重は85K前後でそう変わらないもんね。バーベルを腰に巻きつけてやっている人もいるんだが、そこまでするのも面倒だからやってはいない。でも時折やってみるのもよいかもしれんね。パターンを変えないと退屈する。
  • 真向法の柔軟。
  • トレーニングに割ける限られた昼休みの時間、約20分強。昨年は上の種目の間隔を短くして、ヒンジースクワット100回か、ダンベルのショルダープレスを3セットのどちらかをやっていたが、ヒーヒー言いながらやるのも堪えるので、スクワット系と肩のウェイトは次の日のパターンにしている。が、スクワット系は非常に辛い為、次の日やらず、も多い。

 ウェイトはそこそこ続けているんだが、肝心の空手が御無沙汰なんだよねぇ。

 黒帯になり指導員的な役責で、皆の前に立ってやるようになってからどうも道場に行っても楽しくなくなった。これは俺の性格かもしれん。自分で学び修行するのなら、楽しいとまでは言わないがやっているかいがある、皆の練習に加われなくなり見て指導することが主となると、特段楽しくはない。人を育成することが大事であるのは分かり切っているんだが・・・。しかし元々サラリーマンとして道場に通うのは、自らの技を伸ばすことが第一である。そうでなくては面白くはなかろう。

 黒帯で何を甘えたことを言っているのか。指導をし育成する中で学びや気づきもあるし、自分の稽古はそれ以外でやればよい、と言うお叱りはごもっとも。それが空手家の門に立ったことでありこれからが本当の長い修行だ、というのも分かる。

 しかしねぇ、俺はやはりサラリーマン空手家だ。考え方として中々その地点に立てない。限られた時間の中では自分の技の修練で目一杯であろう。そしてもっと学びたい。

 道場に足が向かないもう一つの理由がある。先日俺は試合で後悔ばかりの負け方をした。落とし前をつけるべくより空手に励むか、それとももう年だし、この年になってもあくまで勝ち負けにこだわるのもなんだかなぁ、と言う思いもあり、どうすべきかの結論が出ていない、ずーっと考えてはいるんだが。

 空手は人生を通して修行である。そんなことは頭ではよく分かっている。修行として猛練習でもして次に勝ちに行くのか、落とし前をつけるのか、そんな感覚ではたしてよいのだろうか、である。頭でっかちになっているサラリーマン空手家の思索だ。武道家としては闘いの勝ち負けも人生の中の修行の一場面であるだけであり特に気にする必要はないのだろうが、小人としての俺は、その吹っ切れ迄にまだ行かず、先日の敗戦に忸怩たるものを感じてしょーがない。落とし前をつけるぞとは思わずに、単に修行が足りなかったとして日々継続的に稽古に励むことが元より正解だ。エエーッイ、そんなことは分かっているわい。

 俺はもう54歳になった。この年でそのようなことを考えているのは、むしろ若いと評する人もいるかもしれん。18歳、大学一年から体育会の伝統派空手部に入り、その後ブランクがあるがフルコンタクト空手を始めて通算で20年間くらいは空手をやっている。武の修練を持って心を修めることは大変難しいようで・・・今に至る。

 心が整わなければ一歩が出ない。心を整える場が道場であるから何も考えず行って稽古すべきである。それは・・・・頭で分かっているんだが・・・心がまだなお分かっていないんだろうね。

2013年1月21日月曜日

無題

 1年に3,4回、どうも空手に気が乗らず、道場へ通わない時期がある。会費を払っているのでもったいない限りではあるが、感謝の心で寄付している? いやいや道場は修練の場であるから寄付したって師範は喜ばないね。通って稽古することが肝要である。が、最近行っていない。

 毎日の昼休みトレーニングは続けている。先日チェストプレスの新しいマシンが入ったので気も入る。負荷は110Kにして、6回→4回、さすがに3セット目は1回もできなくなるので100Kに落としてかろうじて4回と言う所か。俺の体格だともう少し腕の間隔を幅広にしたいんだが、そういう調整はできない。そうすればもっと回数が伸びるであろうに。少々窮屈感を感じつつも、何と言ってもウェイトの華であるからやりがいはある。150Kがマックス負荷だからまだ十分すぎるほど先がある。

 35年ぶりに五木寛之の「青春の門」を読む。昔はどこまで読んだか不明だが、まあ続きであろうと、「再起編」から読み出して「挑戦編」の途中だ。アマゾンのKindleは全く便利で、1クリックで買え、電子書籍としてダウンロードできる。読み出して続きを読みたいとなれば即座に手に入る。今日は、だから「青春の門」三昧であった。

 主人公の伊吹信介は今だ25歳で年を取らず、今だに自分探しをしている。平成20年代の若者の多くは自分探ししているとどこかで読んだが、1960年に25歳の若者が自分探しをしている。俺はと言えば40を越えて自分探しの旅に入り、10数年が経つ。そういう訳だな、皆がいつの時代も自分を探しているんだと納得して思いきや、最も年をとり「天命を知る」歳になっている俺が最も始末に悪い。こんな年寄りが「自分探し」と言う言葉を使うのも少々気持ちが悪い。むしろ諦観と言うべきもの? 諦観したいんだがし切れないから何やらごそごそしている、ということか。

 1960年代の始まりは・・・安保闘争だね、やっぱり。国家として悩んでおり行く道を探している時であったと言えば、信介と同調する。その後、経済の道と決め日本は歩み出した。陰鬱ではなく汗をかきだした。

 朝からビールを断続的に飲み出し、本日はもう9,10本目の缶ビールか。止めていたタバコも吸いだし二箱目も終わる。さあ、明日からはせめても禁煙だ。俺も汗をかきだすとよい、この年でも。

 となると、また毎日のウェイト? うーーん、今日は笑い話で終わりたいんだが、どうも五木寛之氏のニヒリズムにあてられたみたいだ。笑い話かニヒリズムか。

2013年1月9日水曜日

12月31日 高野山に参る


 2012年12月31日、大晦日なり。伊勢市のホテルで朝早く目を覚まし、一路高野山へ向かう。三重県の伊勢市から和歌山県高野山へは結構時間がかかるもんだ。調べた時には驚いた。紀伊半島は思いのほか広い。約4時間の行程である。

■2012年12月31日 (2,990円)
07:36 伊勢市 近鉄山田線急行・近鉄名古屋行
08:03 伊勢中川 近鉄大阪線急行・大阪上本町行 (1,410円)
09:23 大和高田 徒歩
09:51 高田(奈良県) JR和歌山線・和歌山行 (650円)
10:47 橋本(和歌山県) 南海特急こうや5号 (430円)
11:21 極楽橋


 
 途中の大和高田から高田駅まで歩いたんだが、標識なし、人気なしで、iPhoneのMAP機能がなければ間違いなく迷子であった。この日は天気はよいが寒風強し。広々とした高田駅前のロータリーには、タバコを吸っている若者が唯一人。大げさに言えばゴーストタウンのような感じだった。
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 極楽橋からケーブルカーで高野山駅にやっとこさ到着する。俺は田舎への帰省の寄り道旅なんで、土産物が一杯入ったスーツケースを引いていた。これをどこかにあずけねば・・・、そんな所があるのだろうかと不安だったんだが、駅に500円の大型ロッカーあり。何とか成るもんだねぇ。はて、小銭がない。売店でビールを買ってくずす。

 駅前でビールを立ち飲みしているとバスが出るとの放送があり、こりゃ急がねばと「大門」行きのバスに飛び乗り、車内でやれやれとビール続く。同時に出た「奥の院」行きのバスに乗った方が実はよかったんだけどね。「大門」行きバスを、「金剛峯寺前」で降り、参拝もほどほどに、歩いて「奥の院」に向かった。この日の夕刻、大阪駅で旧友と待ち合わせしている為に高野山滞在は約3時間で切り上げねばならなかった。急ぐ、早足、手がかじかむほどに寒いから丁度よい。

 1992年に初めて高野山へ行った。当時の俺は心理的にボロボロだった。アルコール依存症に近かったようだとも思う。何度も飲んだくれてクダをまき、頻繁に二日酔い出社。仕事仲間から大顰蹙だ。それでも酒を止めずに酒に飲まれる日々。素面になると目一杯落ち込んでいた。これからどうなるんだろうかとアナタ任せの気持ち。休暇を取り、京都の友のもとに1週間程、何をするでもなくやっかいになっていた。朝、仕事に行く友を見送った後は、週日アパートで無気力ゴロゴロ生活。高野山に詣でて懺悔でもしてから仏の力にすがるか、という気分になったのはゴロゴロ生活の最終日くらいかね。で、高野山へ行った。歴史上と現世の有名どころの大きな墓が連なる道を歩いたことを覚えている。その後、お堂に上がり和尚の説法を聞いた。すがるような気持ちで聞いた感覚も覚えている。

 あれから20年。結婚、子供、仕事もちゃんとあり、それなりに普通の生活を営んでいる。破滅志向のごとく酒を飲むことはもはや無い。・・・んだが、なにせ好きなものでいまだに365日飲んではいる。酒に飲まれることは、1年に1回くらいだろうか、大変少なくなった、ハハハハ・・・。

 今回の旅に高野山を入れたのは、20年前の自分と再会したかった、と言うとキザに過ぎるであろうか、まあそんな所だ。

 20年前は何にも考えてなくてただ単に高野山に行った。その時歩いた道が「奥の院」への道であることが、「金剛峯寺前」に着き、駐車場に掲げてある観光客用の地図を見てやっと、フムフムと判明した次第である。そりゃ行かにゃあイカンわな。

 身を切るような寒さ、町中を早足で歩く歩く。やがて奥の院への参道に着いた。ここを歩けば、昔見たのと同じ光景を見られる。昔は消え入りそうな心で歩いた。今はそれを慈しむ気持ちで歩ける。やっとこさだ。つまるところ、感傷旅行なるものなんだろうが、人生はそんなもんだ。昔行った所を再訪するのは、昔の自分に会う為であり、来し方を想う為であろう。

 いい参道である。墓が並び、巨木が並び、完結した空間がある。時代を経て朽ちかけそうな古い墓も多いが、不思議なことに死者の臭いがしない。観光地の散歩道としてあるからだろうか、それとも墓を並べりゃそんなもんか。無機質の石は死を閉じ込めた墓標として在るのみ。墓を建てることできっちりと供養しているから、怨念のヒトダマなんぞは出ないよね。忌み嫌い、怖れ慄くような死の空間は・・・、無いわなぁ。

 おごそかな静寂の、何故か気持ちの休まる、墓と木々の道を歩いた。道は所々凍っており、用心しないと滑った。


 本当かいな?と思う、石田三成公の墓。明智光秀公の墓もあった。我がオヤジは高野山を評して、眷族・成功人の墓が立ち並ぶのが気に食わんと生前言っていたが、歴史上の逆賊と言える面々を、その死の直後から法要しているのならば喝采である。さてどうだろうか。

 歩いていて、20年前に見た風景と違うと感じていた。20年前は明るい光の中に成功者の大きな墓碑が連なっていた記憶がある。今、大きな墓はあるんだが古びているし、空間全体がしっとりと薄暗い。20年前の心があまりに暗かった故に、周りが明るく見えたのだろうか。歩いている道は木々の陰影の下に、厳粛に続いている。

 奥の院に着いた。本堂に参り、参拝順路のままに本堂の裏手に廻り、弘法大師の墓に合掌、さらに地下の「契り」を成就するという祭壇も一応拝んだ。はて?20年前は本堂の畳に上がり、和尚の話を聞いたと思うのだが、そのようなことはできそうにない。うーん、記憶違いか、それとも寺側の変化か。まあ、しょーがない。戻るか。俺の頭には、助けを求める気持ちで座っている20年前の自分の情景がある。20年経ってまあまあの今があるから、もうよいよな。


 無縁仏のピラミッド。名もなく忘れ去られた人々を供養してこその仏教。どことなく整然たる秩序を感じるのは大本山観光地ならでは?と、斜に構えてはみたが綺麗に俗気なく張り詰めているのもまたよい哉。

 復路は、近くのバス停までの道を辿ったが、どうやらその道が昔歩いた道のようだ。木々から少し離れている。だから太陽が昇れば明るい空間に大きな墓標が並ぶことになる。もう俺の感傷は過ぎており、そのように客観的に結論づけることができた。

 寺は死者の鎮魂。昔の印度発の生々しい仏教は違うんだろうが、日本の仏教はそれだ。死から視る生の教え。科学的には死は永遠の無である。が、死者の魂があると信ずるのは生者の特権だ。俺は亡き父に会いたいし、じーさんにもばーさんにも会いたい。多くの死者の魂が居る、この山に合掌。

 高野山駅で性懲りもなく、寒い中またビール。さあ、友の待つ大阪へ向かおう。そして我が故郷に戻ろう。





 
 
 

2013年1月5日土曜日

12月30日 お伊勢詣り

 2013年が明けた。

 若い頃のように志をアップデートして、目標を立てることは無くなったなぁ。50半ばに差し掛かる歳のせいではある。仕事では当然目標を立てるが、我が人生のものとなると、よしやるぞの格闘よりは安穏を求める。

 小春日和の中、ビールを相変わらず飲みつつ悠長に・・・なんだが、ちゃんと書いておかねばならんとして年末の小旅行を振り返る。

 12月30日に伊勢神宮へ行った。初めてだ。神社仏閣は数多く行ってはいるが、大学時代に橿原神宮へ行った時のことは特別に記憶に残っている。白砂利の中、現役の空手選手であった俺は、「敷島の 大和男児(おのこ)の行く道は 赤き着物か白き着物か」の歌が腹に落ちた。白砂利は塵一つなく美しく、周りはピシッと気が張っていた。こういう神気の、美しい場所で切腹と言うのは有りかもしれん、と、生と死の交差点のような空間を感じた。当時、三島由紀夫の小説にもはまっていたからね。

 伊勢神宮。よーし、全国の神社の総元締めであるからには、もうどれ程気が張るかは分からぬであろう、と期待して行った訳よ。

 雨、大雨。雨にぬれた玉砂利は白ではなく、石の色をしていた。濡れる、寒い、ただひたすらに道を急いだ。正月明ければ多くの初詣客でごった返すに違いない神殿への道は、閑散としている。参拝の薦め通りにまずは外宮へ。思いの外広くなくてすぐ本殿に着いた。ここは食物を司る神であるトヨウケビメを祀っている。別宮と言われる3つの宮もそそくさと参った。うーんまあ、どおって事はない。内宮はと言うと、バスで行かねばならない距離らしい。直通バスに乗る。

 内宮前に着いて、そう言えば今日はビール飲んでないなと思い出し、お神酒の替わりにバス停まん前の食堂で、中ジョッキ一杯。旨し。

 相変わらずの冷たい雨。まだ夕刻には遠いのに薄暗い。天照大神の元へ登る人々。地に溶け、空に溶け、雨に溶ける。俺はそう言えば酒にもよく溶けた。

 
 本殿を撮影するのは禁止である故、写真はない。本殿は茅葺き屋根の質素な小さな平屋であったが、その周りに神気が漂っている気配を感じたような・・・、それは神々しいものではなく、どこにでもあるような柔らかい気配。しかし純たるもの。田んぼの中にでもあればお吸い物の香りでも漂ってきてもよい。そういうものだ。さすがに味噌汁程までには俗ではないなぁ。我らは我らの古の神を誇りに思ってもよいかもしれない。それはカトリックの威圧するような教会建築でなく、仏教の大伽藍でもない、ただそこに在る佇まいであった。八百万の神は身近に居る。出雲大社はかなり大きかった記憶があるが、天照は優しく小さい。小さいがほんのりと広がり、そこかしこに居ることを感じさせる社殿である。ここで俺は家族の安寧を祈った。昔は、これから俺のやることを御照覧あれ、だったね。今は違う。しつこく言うが50も半ばだからな。

 参拝の後、まばらな人の波に乗って門前町?いや神前町を下る。土産物屋もあるが食い物屋の方が圧倒的に多く、軒を連ねる。神の札は社の中にあったし、人は神さんに会った後は腹ごしらえの方ということか。なにせ寒い雨、人気もそれ程なく、来るべき新年は大変賑やぐのであろうが、年末の午後3,4時頃は休憩の時間なんだろう、商売気がないのかお上品なのか、開いているのか閉まっているのかもよく分からぬ。そう言えば昼飯も食っていなかったことを思い出し、一軒ののれんをくぐったが片づけものをしているらしく、邪魔をするのもはばかられるようで踵を返した。そぞろ歩いているうちにナントカ横丁に入り、そこはオープンな飯屋が集まっていた。中々よろしい雰囲気。ビールと伊勢うどんを食す。

 伸びたうどん?いや元々こんなものか、初めて食す故分からないが、麺は柔らかくこしがなかった。しかし結構旨い。ビールにも合う。昔の人はうどんにこしが必要とかは考えなかったのであろう。小麦粉を腹に入れれば栄養だし、汁は貴重な塩分だ。ちなみに濃い醤油の色をした汁はそれ程辛くはない。その汁も全部飲むように、それがおいしい伊勢うどんの食べ方と店に書いてあり、その通りにした。

 本日はここまで。既にビール、350缶を5本。十分じゃ。次は、次の日の大晦日に行った高野山を書いておこう。