2013年2月23日土曜日

先輩の壮行会→ フルコンとの出会い→ 一撃必殺ということ

 庭先で咲き始めた梅が美しい。

 さて。

 先日、空手の師匠とも思っている人が転勤になり、その壮行稽古と宴席に出てきた。

 新幹線で行ったんだが、痛飲した帰りに新幹線の駅を乗り過ごしてしまい、終点の東京駅でようやく目が覚めた。自宅までの電車はなく、池袋まで戻ってマンガ喫茶で仮眠。日曜の夜明け前に池袋駅に行くと何と多い若人達。土曜ナイトを遊んで過ごした人の多さに驚いた。半分は若い女性だ。日本はなんて平和か。だが、こちとらも、まったく偉そうなことは言えない。

 久しぶりに多くの道士が集まった充実の稽古であった。最後は師匠の総当たり戦。10数人を相手に50も後半にさしかかる男がよくもまあ持つもんだ。改めて敬服した。小生も恩返しとばかりに全力で向ったから・・・、始末の悪い弟子ではある。

 30年の付き合いになる。小生がふと立ち寄ったトレーニングジムで、女の子二人を相手にニコニコしながら空手を教えている師匠を初めて見た。当時はまだ20代の若さだ。大学空手道部で猛稽古を積み、試合でそれなりにブイブイ威張れる実績を積んだ小生から見れば、あんな軟弱な空手稽古があるのだろうかと驚きであった。カセットレコーダで音楽流しながら基本技をやっている。後から聞くとその一人の女の子の発案であったそうな。(ちなみにそれが後年、小生の細君と相成った)。今で言うとボクササイズの空手版であるから、彼女、先見の明あり。こんな空手があるのだろうか、メチャクチャだねと呆れ顔もしつつ、野次馬根性でウェイトトレーニングの合間にチラチラ見ていると、その内師匠がニコニコしながら近寄ってきて、「空手に興味がありますか?」「はい、大学でやっていました」「流派はどこですか?」師匠はずっとニコニコ。「剛柔流です」「おー、そうですか、よければミットでも蹴ってみませんか」

 当然と言えば当然、こんな軟弱空手稽古に本格的な空手を一丁見せてやろうと、小生は師匠の持つミットに向かった。「ローキックをやってみましょう」「えっ、ローキックですか?」30年以上前の伝統派にはローキックはない。まあ今でもないが。回し蹴りさえなく、蹴りは前蹴りと三日月蹴りのみ。試合でポイントとれる蹴り技は前蹴りのみであった。今の伝統派空手は回し蹴りもポイントとれるので、基本稽古にも入っていると思う。

 空手バカ一代の時代に育ち、大学空手道部に入った小生だから、極真フルコンタクトの回し蹴りも遊びで時折やっていたし、ローキックの鬼と言われた盧山初雄もマンガで知っていた。で、師匠の持つキックミットにローキックをバシバシ蹴り込んだ。大きないい音がする。どんなもんだいと言う感じだね。「じゃあ、今度は僕が」と交代して、小生がミットを持ち師匠が蹴り込んだ。なんとも重い!ドシドシと言う鈍い音を立てながらミットが太股に食い込んだ。師匠は小柄である。小生は183センチの大男。それがずりずりと下がる。腿が痛いし押されてもいる。

 極真フルコンタクトの体重を乗せて蹴り込む蹴りを初めて味わった。伝統派は寸止めでスピード重視であるからそのような蹴りはしない。これは根本的に違うと思った。

 空手は元来人を倒す武術であるから、金的・眼潰しが極め技である。大学時代に先輩からそう教わった。突きは眼潰しに、蹴りは本来金的蹴りになる。今でも沖縄剛柔の蹴りは低い所を蹴る。それじゃあ殺し合いに近くなるので、突きは顔面を、蹴りは水月(ミゾオチ)を蹴る。試合ではスピードが大事であり、実戦でもそうであろうから一瞬の突き蹴りを極めることを求め、それを一撃必殺と呼ぶ。

 結局師匠の極真流の稽古に参加するようになるのだが、しばらくして改めて思ったのは、格闘は総合的であるべしと言うことだ。眼潰しか金的を狙うにしても、その前に相手を色々と崩さなければならない。いきなり金的に入るものでもない。出会いがしらの奇襲攻撃ならばそれもありだろうが、よしこれから闘うぞとして相対した場合は、相手も身構えている。

 フルコンタクトをやることで、総合的に相手にダメージを与える組立てが必要であると判り、初めて格闘の戦術を意識した。それが結局強いのではないだろうか、と思った。金的に入れなくても人を倒すことはできる。フルコンでは上段の突きを試合で使えないから、上段突きを使ってよしとすると伝統派とフルコンタクトとどっちが強いかは厳密には不明だが、それでも痛めつける為の総合的技を使う方が闘いの勘所を体験的に知っているので、まあやはり、フルコンに軍配をあげる。

 昔から空手は「一撃必殺」を称してきた。真面目にきちっと考えるとこの言葉は不思議なもんだ。そんなこと、本当かい?と一歩退いて考えてみよう。金的・眼潰しがばっちり入れば、必殺ではないにしろ相手の戦闘力を奪えるが。

 薩摩の示現流は一の太刀にすべてを賭ける。それを敵として相対する沖縄空手は?

 フーム・・・。沖縄空手の一撃必殺とはいかなるものか。そもそも古来の沖縄空手は「一撃必殺」と述べていたのかどうかは知らぬ。型は受け返しの連続で続く。そこには闘いのシミュレーションがある訳だ。一撃必殺だとシミュレーションは不要になってしまう・・・のだが。

 征服者である薩摩武士と支配された沖縄の民。剣を奪われた沖縄の武人が練り続けた空手。それはやはり太刀を持つ薩摩示現流とどう闘うかを想定したことであろう。示現流対空手。どう考えても剣の初太刀が先に来る。徒手で身を守るには、まずその一の太刀をはずしてから反撃せざるを得ない。この時に一撃で相手の戦闘能力を奪わねば自分が殺される。なるほど一撃必殺は確かに必要だ。しかしもしそれができなかったとしても何とかしなければならない。二の太刀、三の太刀をいなしながら相手の戦闘能力を奪っていく過程が「型」なのであろう。「型」はすべて受けから始まる。剣を相手にすると最初は受けざるを得ない。

 基本の突きには引き手があり、引き手とは相手を掴んで引くことであると、古伝空手の人は言う。なるほど、剣をかわして相手を掴んで引きながら突きを放てば破壊力は増す。だがもっと大事なことは、掴んでしまい、もはや剣の間合いを取らせないことにあったのではなかろうか。

 空手に先手なしと言われ、精神的支柱にもなっている。だが事の始まりはこのように生々しいことのような気がする。先手なしではなく、先手ができないのであり、できれば一触の後で必殺を狙う。それができなかった場合、緻密に作られた格闘の体捌きの中で必殺の機会を何度も捉える。それが「型」であろう。従って型は一連の格闘ストーリーではあるが、起承転結ではない。受けと攻撃の1セット毎に完結していると見た方がよい。最初のセットで倒せなければ2セット目で倒す。セット間は居着かずに動くこと肝要であり、そうしなければやられることになる。

 
        ・・・・・

 本日はここまでで缶ビール4本。史実を特段見ず、己の思索(妄想?)の中でグダグダ述べた。元に戻って、先輩の変わらぬ元気に乾杯! このまま飲みつぶれたいのがやまやまだが、夕刻からの宴席に出ないといけない。ここで打ち止めとしよう。

 

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