2012年10月1日月曜日

勝ち負けと制圧と言うこと

昨日、一昨日稽古をサボり、日がなビールを飲んで過ごす。ああ~~、よくない。
昔書いた文章の推敲をし、投稿する。せめて。


使わない為の空手修行。常に「平常心」を持つべく武術として習得する。一旦攻撃を受けても鍛えし受けで敵を制圧する。そういうことが空手の目的ではある。制圧という言葉は何か大仰ではあるが、制圧とは相手が自分に害をなさない状態に持っていくことである。だからまあ結果的に押さえ込んだ状態になることは多い。しかし相手を自分の意のままに動かす支配ではない。空手に先手なしと言うのも、非常の攻撃を受けた時にあくまで受けて敵を制圧することである。相手が害をなさない限りは、何もする必要はない。

この点、スポーツと武道の違う所としてあるようだ。スポーツの場合は競技として勝ち負けを決する故に、「攻撃は最大の防御なり」のように相手に勝つ為、倒す為の技を身につける。制圧ではなく勝負、もし格闘ならば最後にどちらが生き残るかを、定められたルールの上でゲームとして決める。

うーーん、ここまで書いて間違っていることに気がついた。レスリングを見よ。肩をつけたから勝ちと言うのは制圧だ。柔道を見ろ、寝技で抑え込み続けると言うのは制圧だ。どちらも相手の反撃を無くしている。彼の競技の人々は武道の心を持っている。意識するしないに拘わらず、武道における闘いと言うのは相手を害すること、殺すことではなく、無力化することであるということ。

空手やキックボクシングのような打撃系は・・・・しょーがないねぇ・・・。俺もその一人。

ところがではある。

空手流派の中で試合をしない流派もある。それは制圧することと、勝ち負けを決する勝負とは異なるというような考えに基づくものであろう。芦原空手は試合形式の競技を認めなかった。それに反対したのは芦原空手最大の功労者である二宮城光氏であり、結局彼は芦原英幸氏の生前から分派して円心空手を創る。試合は勝ち負けを決めてしまうのでよくない、しかし試合でもしなければ技の試しができない。そういうことから円心空手は「サバキチャレンジ」という大会を行っている。

昔琉球空手で、公には認められていなかったかけ試しというのがある。古い琉球空手は実際の組手すら認めなかったと言う。単に型稽古で強くなったのか?そうだ、と冨名腰義珍大先生は言う。

小生は学生時代に伝統派空手の体育会空手道部に入り、試合ではそれなりの戦績を残した。自分でも強かったと思う。しかし自分がもしケンカを売られて闘いに巻き込まれた時にどの程度強いかどうかははっきりとは分からなかった。試合では強かった、では「実戦」ではどうか。普段寸止めしている上段突きを止めずにやったときにどの程度の破壊力を生むのか。そんな血を見る闘いはしたくない。ではどのように受けて相手を制圧するのか?学生のスポーツ空手ではそのようなことは教わらなかった。制圧する為の技の体系がある。芦原空手はそれを目指していると言う。そういう考えがない場合、殺されない為に全力の攻撃を仕掛けるしかないだろう、突きも蹴りも相手を倒す為に総動員することだろう。

フルコン空手をやって、自分の技の破壊力が相手にどのように効くのかが多少分かってきた。相手の技が自分に効くのかはまだよく分からぬ。自分より圧倒的に強い人間と闘い打ちのめされたことがない故に。静止したサンドバッグには自分でも満足のいく突き蹴りが入るのに、動く相手にそのままの破壊力で入れ込めることが非常に難しいことも分かった。組手で思い切りやっても、相手はまず倒れないのである。この平和な時代、相手を倒すことに意義はない。また武道の究極は活人剣であると昔から思っている。

倒す倒されるのではなく、制圧する技、その理論体系を学び修練したいと思う。活人剣はそのはるか先だ。

あっち飛びこっち飛びの文章になったが、レスリングと柔道は、制圧することを競技の中に入れている。それは武道というものを判っていると言ってよい。殴り殴られ倒し倒されというのは、武道ではなく単なる競技である。「あしたのジョー」はそんな世界なんだが・・・・、しかし、これがまた凄い。周りを活かす「活人剣」なんだよなぁー、これが梶原先生の深さ。結局命を賭けて闘ってみないとさぁ、判んないよね、と言う氏の言葉が聞こえてきそうな。

俺が上で述べた様々の理屈は何だったのか、とマッチポンプのような結論とする。

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