本日も走る。15.6K也。
6月から始めたランニング、いつまで続くのだろうと思いつつ、週末は必ず走っている。ただ今日は、いつもよりペースが遅かったのが今ひとつ。走っていても体が重かった。
iPhoneのNike+を10月から使い出し、走りの記録を取っている。それまでは気ままなペースと言うか、速く走ることは眼中になく、「朝は涼しくて気持ちいいなぁ」とか、「1時間走り続けられたから今度は1時間半か」と、走ること自体を楽しんでいた。この時分はよかったなぁ・・・。これがNike+で記録を取り出すと、困った。ペースと距離が気にかかってくる。前に走ったときよりも多少速いペースで走らなければ、とか、一ヶ月で100K以上は走らねば、とか、自分へのプレッシャーが克つようになってしまった。
使う前からそうなることはおおよそ分かってはいたが、まあしょーがないねぇ。嫌だったら使わずに以前のように気ままに走ればよいだけだ。が、知ってしまったからには使うわな。走ったコースがビジュアルに見られるし、ペースの記録が取れ、累計の距離も伸びていくんだから。走った後で、コースとそのときのペースをレビューして思い出すのは割合楽しく、充実感もある。
ところで、若い時と55才のオヤジの今の大きな違いが分かった。Nike+で記録を取れば、こりゃいいわと、若いときは間違いなくペースを速めることに熱中するだろう。少しでも前より速く走ろうとするし、目標ペース達成を求めて鍛錬していくことであろう。これがですな・・・、年を取った今、元空手家の俺の場合は、少し調子がよくて速いペースで走れた日にゃ、それはそれで充実感があるんだけど、次にはそれ以上のペースで走らねばならなくなる憂鬱感がほぼ同時にやってくる。かなり苦しいのを頑張って走ったけど、次はさらに苦しいことを覚悟しなければならんのか、うぇ~、となる。どうも昔から楽しんでスポーツするというよりは、即競技とか己との闘いのように捉えてしまうようだ。
とは言え、伸びていく時代と保守の時代の姿勢の違いがある。若いときは少しでも伸びよう、上へ行こうとして頑張る。その頑張る過程自体を愉しんでいるというか、チャレンジングな生活そのものである。自分が何者になっていくのか、己の力がどこまで通用するのか、その試み自体が面白さであり熱中してしまう。ところが年を取ると結果を維持しようと思ってしまうんだな。多少マシな結果を出すと、今度はそこから落ちることを先回りして心配する。困ったもんだ。
と、分析したからには、熟年の思慮深さで以って熟考し、無理やりにでも、若いときの感覚を呼び戻そうではないかと思ってはいるが・・・、はてさて。
今から35年前の学生時代。空手道部時代。パンチパーマをあてて試合に出たことがあった。何せ伝統的に強豪である私大の連中は、長ランにボンタンに角刈りの集団。ド迫力、見ているだけで大変恐い。試合に勝つためには相手をビビらせることも必要じゃ、できることはなんでもすると考えての、パンチパーマ。身長183の小生がかけると自分で見ても迫力はあった。それが功を奏したとは思いたくないが、勝ち進み、現役時代で最もよい成績をあげた。これも保守ではない、何でもやってやろうの話だね。笑い話かもしれないが多少の効果はあっただろうとは思う。まず己の覚悟がはっきりした。ヤクザのようなパンチパーマ、間違いなく若いからできたことだわな。
とすると熟年になってもチャレンジするには、まず格好から?いやいやまずは気持ちです。
0 件のコメント:
コメントを投稿