昨日はルーチンの昼休みトレーニングと、帰りがけにダンベルを持って下突きをちょちょいとやっただけで終わり。今日は道場に行きハード稽古。少し先に試合を控えているのでミット中心の息上げトレーニングだった。53歳の身体には堪えている。帰ってきて一切食欲なしなので晩飯は食わず。とは言えビールは飲めるので、旨い旨いと350ml缶4本飲んで寝た。
今日の話題は、藤原新也氏。
氏の「東京漂流」を読んで衝撃を受け、それ以来熱烈ファンになった。「インド放浪」とか「メメント・モリ」だとか、発刊されるやいなや読んでいる。「CAT‐WALK」という氏のブログサイト(有料、1ヶ月1000円)もちょくちょく見る。ブログの記事を読むといつも、氏の思想は一貫しているということを深く感じる。一貫とはなんぞや?何を一貫しているのかは、実は俺の力では説明できない。読んで初めて「ああそうなんだ。その通り」と同意する自分がいるだけである。今時の言葉で言えば完全なフォロワーであり、師の教えを頂戴しているわけだ。氏の考えに触れて、静かに確かに同意、教えられて腹に落ちる。
その「CAT-WALK」には、氏の著作のほとんどが読める状態になっている。FlashPlayerで作成されているサイト故に、PCでは見られるがiPhoneではダメだなと思っていた所、ブログの本体は読めないが、著作展示サイトは見られることを発見した。そこからPDFで各著作を読める!これはメチャクチャ嬉しい。「全東洋街道」も「インド放浪」も全部読めるんだぜぃ!
無論、PCでは読めるんだがiPhoneでいつでもどこでも、寝る前にベッドの上で読書とかできる機動性がよい。元々文庫本とはそういうもんだ。iPADにもBookmarkしよう。庭で飲みながら読める。
これからもう一度読み直せる、ルンルンルン♪という気分だ。
1980年代中頃、氏の「インド放浪」を読み、激しく感動して俺もインドへ行ってしまった。が、既にサラリーマンだったから、若者としての放浪はできず、1週間の滞在中に腹を下さないようにホテルのレストランか街中のマトモな中華料理屋で飯を食いつつ、まあ観光しただけなんだが、インドはやはり強烈だった。
デリーの空港からホテルへ向かうバス中見たのが、道路の歩道にズラーと寝ている人々。インドとは言え年末の冬だから、内陸部のデリーは寒い。黒っぽい毛布かマントにくるまって本当にズラーっと列を成して皆さん寝ていた。ホテルに着くと、通路にある日本航空の部屋から怒号が聞こえた。タクシーに乗った所、変な所を色々連れまわされて高額の料金も請求されたようで、もう帰りたい、帰せと怒っている若者の、ある意味悲痛な叫びだった。嗚呼気の毒にと思うのと、そんなことならインドに来るな、とも思う意地悪な俺もいた。一人だったから恐かったんだよな、本当に。
インド人の、こう言っちゃマトモなインドの人は一言あるだろうが、無茶苦茶さはその後の滞在で味わった。なんて言うんだっけ忘れたがオート3輪の運転手に名所を案内してもらった所、観光地で待っていてもらう度にメーターの料金がおかしいほど跳ね上がるのである。戻ってきて跳ね上がった料金を見て文句を言っても、運転手殿は飄々としている。文句を言いつつも規則を守る日本人の俺は、結局支払う。インドに居るのにインド的ではないよね。同化する時間にはまったく足りない。
バラナシ(ガンジスの最高聖地)の川べりをブラブラしているとひっきりなしに民族衣装であるサリーの押売りがやってきた。正しい断り方の英語である「No,Thank You」と言っていてもキリがないので、いつしか「No!!」と厳しい顔をして答えるようになった。それが正しい。藤原新也氏も見た川辺の火葬。近づいて見ていたんだが、遺族の人だろうか、俺に「あっち行け」と静かな怒りの表情をもってやってきた。これは俺が悪いのだろう、明るい昼間にガンジスの岸で死体を焼いている光景を物珍しげに近寄って見ようとする観光客の姿。「インド放浪」の白眉が生死渾然としたガンジスの風景だ。だから見ようとしたんだが、死者に礼をとっているわけではない。今さらながら合掌。
ヒンドゥ教徒はこの最高の聖地で一生に一度だけでも沐浴をしたいと願う。片足が大きく腫れあがった男がいた。きっと彼は、この地の沐浴によってその病気が治ると信じているはずだ。多くの人の淡々とした沐浴の「気」の中で俺も沐浴をしたいと一瞬考えた。
白ける記述になるが、沐浴をしなくて本当によかった。聖地の河は病原体で一杯に違いない。信心の恍惚で沐浴する人もいれば、病気が治ると信じて河に入る人も多かろう。灰色に濁った河は病原体の巣窟だ。だけど皆、嬉々として入り頭から水をかぶり・・・大丈夫かぃ。救われる聖地の水は病気を起こす水でもあるに違いないと思う。
しつこくつきまとうサリー売りのニイチャンの一人に、試しにマリファナ持ってるかと同行の連れが尋ねた所、工面するとの返答。俺の同行の連れは米国留学した時にハッパをやった経験があるアナーキーな奴であった。ニイチャンの後について家に行ったら本当に工面してきた。恐るべきインド。俺も少し試してみたが効かない。連れはケラケラと笑い出し上機嫌。ニイチャンの家は土間と寝起きのできるスペースのある20畳くらいのワンスペースの家だった。母親がいた。また変な奴を連れてきたという感じで無関係に何やら手仕事をしていた。ニイチャンは、日本人の女性とその家で一緒に写っている写真と彼女からの葉書を見せ、日本に戻ったら連絡をくれるように彼女に頼んでくれないかと頼んできた。手紙を送っても無しのつぶてとのこと。その女性もインドを旅したのであろう、そしてしばし彼の家に厄介になったようだ。真剣に頼むので「分かった、そうする」と返答した。その葉書を渡された。
日本に戻ってから連絡をつけようと考えたんだが、連れは「やめておけ」と言う。女とは言え旅人であり、本人から連絡をしなかったんだからそれはそれまでよ、と。「お前、ハッパもらって吸ったんだからせめてそのお返し位やったって」と考える生真面目な日本人の俺がいた。でも結局連絡はしなかった。確かに突然見も知らぬ俺から、「あなたがインドで暮らしたニイチャンがまた会いたがっている」と言ったってなぁ・・・。葉書を封筒に入れ書いてあった住所に送ったのみ。ゴメン、ニイチャン。
ガンジスのほとり、最初はサリーを売りに来たニイチャン、その粗末な家、写真と葉書、彼の日に焼けた真摯な顔は、会った時から別れまでのストーリーと情景と共に、今でも覚えている。
わずか一週間のインド滞在だったが、それ以外にもいろいろあった。インドは無茶苦茶な割には「禁酒禁欲」の国である。アナーキーな所がそこかしこにあったんだろうが、我々の目にはあまり止まらなかった。何せせっかく来たのだからと悪所を探すかとしたんだが、やっと探し当てたストリップ劇場は、大仏様が踊っていた。客にはネクタイを締めた紳士が何人も。こんな所に来れるのはそれなりに金を持っている人達だったんだろう。でも大仏様だったなぁ。ほとんど脱がないんだが、一応ストリップ劇場と言うような所だった。
デリーのホテルで大みそかから新年を迎える夜、せっかくだから最高級ホテルへ行って過ごそうとして行ったんだが、そこは別世界。おそらく今だにインドの支配層であるターバンを巻いた紳士達とアラビアが原産地の美女が行き交っていた。見ほれるほどのパンジャビ・ドレスを来た美女が目の前を通った記憶は今でも鮮明だ。東洋の幻想的世界ここにあり、と一人の美女を見ただけで思った。絶世の美女のオーラあり。
タージマハールにも行った。まあここは立派な観光地。
あるお城のある観光地に行った時には、埃まみれの子供達に囲まれてお金をせがまれた。しかし皆とてもかわいらしい顔をしていた。
公園で休んでいた時、バラモン僧かもしれないが、髪と髭が伸び放題で半裸の男の写真を撮ったら、向こうさん気がついて寄ってきて金を請求された。気の弱い俺はちゃんと小銭を支払った。
帰りの飛行機に間に合うようにデリーまで列車で帰ろうとした所、満席でチケット売れないとのこと。乗れないと日本に帰れないことになる。こうなりゃチケットなくても、とプラットフォームに行き列車に乗り込んだ。何のことはない、ガラガラだった。座席に座り廻ってきた車掌からすんなりと切符買った。日本のような正確な予約システムなどは元々ないんだよね、改めて考えれば。
藤原新也氏のような、旅をして生きつつ、様々な感覚、思念、死生観を皮膚感覚で味わうことなぞ元より到底できはしない。サラリーマンの休暇のインド旅行はかくの如くだった。
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