真樹日佐夫氏の、「ああ五十年 身に余る」を読む。副題が「真樹日佐夫ワル自伝」である。ちょっとやそっとじゃ、感想は書けませんね。まあ、感想としてまとめることの器を我は持たぬ、と言うことか。
少年マガジン連載の「空手バカ一代」の漫画で育った50代前後の世代には知っている人も多いだろう。それより先行した氏の原作である「ワル」―これも少年マガジン連載なんだが―となるとさらに古く、少年誌連載なのに大人の世界のような気がしましたね。当時小生は中学生になったばかり、高校生はなんて大人なんだろうと感じ入っていた記憶がある。
「ワル」は、1970‐72年に少年マガジン連載。その後続編が別の雑誌で続く。ともかく大変昔。「空手バカ一代」は、1971‐77年に少年マガジン連載。こちらは氏の兄である梶原一騎原作であり、真樹日佐夫氏の方は空手家として登場人物の一人となっている。
「ああ五十年 身に余る」の題名がおもしろいですね。何が「身に余る」んだ?と尋ねたい所です。氏は頭がよく空手が強いのに、まったくいったい何がどういう具合に「身に余る」のか。身になんぞ余らないだろう、好き勝手に己の成したいことに邁進したのではないか、と思うよね。氏の吐いた不思議な言葉です。
真樹日佐夫氏は1940年(昭和15年)6月16日生まれで、 2012年(平成24年)1月2日に亡くなった。享年71歳であった。「ああ五十年」の50年とは?この本を書いた時は2011年。読めば分かるが、氏が年上のある女性と契りを成し、結婚はしなかったんだが人生の同志?伴侶として生きた日々であろうと思うんだが、ヒジョーに分かりにくい。50年とは、氏が梶原兄と文筆で生きて行くことを決めた時期とも一致するし、空手の道に入った時期もそう違わないだろう。「身に余る」の言葉を何故発したのかが分からない。氏が生前この本を出し、そのきっかけが50年来の女性の死であったことを考えれば、その女性に命を賭けて愛されたことを「身に余る」と言うのであろうか?
氏は梶原兄とのこと、極真空手、そして大山総裁のこと、自身の仕事や空手の事、様々に述べている。そのすべてのことに感謝したいから「身に余る」なんだろうか? 一代の不良がそんなに素直じゃないよね。まあ、感謝はすれど己の腕っぷしで渡ってきた事実と自尊がある。登場人物が小生の尺度で見れば無茶苦茶濃い。その濃い人々との交わりに氏は感謝したのだろうか?「身に余る」と言うのは、不良としてケンカして生き続けたが、終わりがないほど一杯好敵手がいたぞ、という意味もあるんだろうか? 女と男、一体どっちに感謝するんだと氏を問いただしたい所ではある。
男どもの濃い中の生、年上の女性への下にも置かぬ思い、「ああ五十年 身に余る」はどっちだか小生には分らぬ。どっちもだと言ってくれるより、小市民の小生としてはなぜかしらはっきりしたい所なんだよ。一に女、二に梶原兄、三に極真の大山総裁。そう解釈した。
ともかくも、不良少年から不良オヤジではあるんだが、空手、文筆、生半可ではなくやってきた・・・やはり大きな不良オヤジですね、年少の小生から見れば。
前にも書いたが、小生の時代は、真樹日佐夫氏の兄上である梶原一騎氏に創られたような時代である。何ともはや・・・の偉大なる兄弟だ・・・・。でも不良なんだよね。まあ、アウトロー万歳、小生もその時代の一片である。しかし小生の場合は、そう影響されて思ってきたこと、彼等兄弟は実践し表したこと、嗚呼凄いねぇと、全く大きな違いにため息をついている。
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