ニコラス・ぺタス氏の「SAMURAI SPIRIT 空手」を観る。NHK BSでの放映であった為、観たいが観られぬと諦めていた所、YouTubeにアップされているのを発見し嬉々として観た。
大変良い内容であった。
先に言ってしまうとその後に続いた「SAMURAI SPIRIT 相撲」はもっとよかった。やはり日本の国技としての相撲は何かある。その最高位の横綱のオーラのモノ凄さよ。白鵬関、まだ20代だよ!何と言う貫禄、何と言う人間力。相撲取りとして闘うことが人生であることを体現する存在、やはり格闘の神みたいなもの? 相撲は日本古来の神事でもあり、神に奉納する人間の在り様としての格闘であり、あえて言えば「和」としての格闘と言ってもよい。「和」と「闘い」は反対のものであるが、神の目の前では人の営みとして同時に存在する。それを奉納するのが相撲である。人が力一杯生きて存在するすべを神への余興として見せたのであろう。「余興」と表現すると軽いが、何せ神へ捧げるもの。軽いどころの話ではない。「神事」である。
空手について述べて行くが、武道の目的とする平常心、それも完膚なきまでの平常心を横綱に感じた。やはり神事としての相撲の最高峰は違う。
さて話を「SAMURAI SPIRIT 空手」の方に戻す。
ぺタス氏は数見氏を訪れる。氏はフルコンタクト空手修行者にとっては知らぬもののないヒーロー、日本チャンピオンを何回も重ね、世界選手権では最後に試割判定で敗れて世界チャンピオンを逸した人である。
閑話休題。思うにチャンピオンと準優勝者は不公平な程歴史的な扱いが違ってくる。実力紙一重であろうし、数見さんと世界チャンピオンになったフランシスコ・フィリオ氏との格闘は再延長戦でも決着がつかず、最終的な判定は試割の枚数であった。それだけしか違わないのであるがチャンピオンは名を残し輝く。
その数見氏に沖縄空手を見ることを進められてぺタス氏は沖縄へ行く。番組の大部分は沖縄空手の描写である。このSAMURAI SPIRITは沖縄空手とは何か、だ。
空手は本土に渡り、姿三四郎で悪役になりながらも競技人口をそれなりに増やし、大山倍達と「空手バカ一代」の梶原一騎により爆発的に伸び、柔道に続いて大衆化した。K1でエンターティメントにもなった。その後で今、改めて「待てよ?」としての源流回帰である。
大山倍達の「空手バカ一代」世代であり、大学で伝統派空手道部に入り、そこから空手の歴史を学びつつ修行をしてきた小生の時間感覚には、「源流回帰」が現在進行形としてぴったり当てはまる。年を経てからフルコンを始め、熟年になり「で、何で闘うの?」と自問している俺には回答が必要だ。その回答は、昔大学時代にしゃにむにやっていた頃から既に判っていた回答でもある。「何の為の空手か」の回答さえ再発見せざるを得ない程、人は気がつかないもんだ。あるいは昔知っていたことを時間とともに忘却する。若い時は感受性が豊かで、一杯感じて考えたことを年とともに鈍く単調になる生活の中で埋もれさせる。
「平常心」 NHKではこれを述べたが、空手家にとっては「押忍」の心である。「平常心」は記述であり、「押忍」は行動である。押して忍ぶという文字通りの事。その精神性に非常に立派な真理がありそうなんだが、日常では「保守」にならざるを得ない「忍ぶ」という心。世の中を前向きに革新的に変えて行く力ではなく、常に「受ける」側に立ってしまう、力というよりはそう言う存在であれかしという行動倫理が「押忍」である。
今の世は命をやり取りする世ではない。ものすごく起こり得る確率の低くなった命のやり取りというもの。格闘技は元来殺し合いの技である。殺し合いに精神性を入れ「受ける」力となった。「押忍」はそうだし、「柔よく剛を制す」もそうである。
そういう話は次回とする。小生、今それなりに酔っぱらっているので今日はここまで・・・と。
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