庭先で咲き始めた梅が美しい。
さて。
先日、空手の師匠とも思っている人が転勤になり、その壮行稽古と宴席に出てきた。
新幹線で行ったんだが、痛飲した帰りに新幹線の駅を乗り過ごしてしまい、終点の東京駅でようやく目が覚めた。自宅までの電車はなく、池袋まで戻ってマンガ喫茶で仮眠。日曜の夜明け前に池袋駅に行くと何と多い若人達。土曜ナイトを遊んで過ごした人の多さに驚いた。半分は若い女性だ。日本はなんて平和か。だが、こちとらも、まったく偉そうなことは言えない。
久しぶりに多くの道士が集まった充実の稽古であった。最後は師匠の総当たり戦。10数人を相手に50も後半にさしかかる男がよくもまあ持つもんだ。改めて敬服した。小生も恩返しとばかりに全力で向ったから・・・、始末の悪い弟子ではある。
30年の付き合いになる。小生がふと立ち寄ったトレーニングジムで、女の子二人を相手にニコニコしながら空手を教えている師匠を初めて見た。当時はまだ20代の若さだ。大学空手道部で猛稽古を積み、試合でそれなりにブイブイ威張れる実績を積んだ小生から見れば、あんな軟弱な空手稽古があるのだろうかと驚きであった。カセットレコーダで音楽流しながら基本技をやっている。後から聞くとその一人の女の子の発案であったそうな。(ちなみにそれが後年、小生の細君と相成った)。今で言うとボクササイズの空手版であるから、彼女、先見の明あり。こんな空手があるのだろうか、メチャクチャだねと呆れ顔もしつつ、野次馬根性でウェイトトレーニングの合間にチラチラ見ていると、その内師匠がニコニコしながら近寄ってきて、「空手に興味がありますか?」「はい、大学でやっていました」「流派はどこですか?」師匠はずっとニコニコ。「剛柔流です」「おー、そうですか、よければミットでも蹴ってみませんか」
当然と言えば当然、こんな軟弱空手稽古に本格的な空手を一丁見せてやろうと、小生は師匠の持つミットに向かった。「ローキックをやってみましょう」「えっ、ローキックですか?」30年以上前の伝統派にはローキックはない。まあ今でもないが。回し蹴りさえなく、蹴りは前蹴りと三日月蹴りのみ。試合でポイントとれる蹴り技は前蹴りのみであった。今の伝統派空手は回し蹴りもポイントとれるので、基本稽古にも入っていると思う。
空手バカ一代の時代に育ち、大学空手道部に入った小生だから、極真フルコンタクトの回し蹴りも遊びで時折やっていたし、ローキックの鬼と言われた盧山初雄もマンガで知っていた。で、師匠の持つキックミットにローキックをバシバシ蹴り込んだ。大きないい音がする。どんなもんだいと言う感じだね。「じゃあ、今度は僕が」と交代して、小生がミットを持ち師匠が蹴り込んだ。なんとも重い!ドシドシと言う鈍い音を立てながらミットが太股に食い込んだ。師匠は小柄である。小生は183センチの大男。それがずりずりと下がる。腿が痛いし押されてもいる。
極真フルコンタクトの体重を乗せて蹴り込む蹴りを初めて味わった。伝統派は寸止めでスピード重視であるからそのような蹴りはしない。これは根本的に違うと思った。
空手は元来人を倒す武術であるから、金的・眼潰しが極め技である。大学時代に先輩からそう教わった。突きは眼潰しに、蹴りは本来金的蹴りになる。今でも沖縄剛柔の蹴りは低い所を蹴る。それじゃあ殺し合いに近くなるので、突きは顔面を、蹴りは水月(ミゾオチ)を蹴る。試合ではスピードが大事であり、実戦でもそうであろうから一瞬の突き蹴りを極めることを求め、それを一撃必殺と呼ぶ。
結局師匠の極真流の稽古に参加するようになるのだが、しばらくして改めて思ったのは、格闘は総合的であるべしと言うことだ。眼潰しか金的を狙うにしても、その前に相手を色々と崩さなければならない。いきなり金的に入るものでもない。出会いがしらの奇襲攻撃ならばそれもありだろうが、よしこれから闘うぞとして相対した場合は、相手も身構えている。
フルコンタクトをやることで、総合的に相手にダメージを与える組立てが必要であると判り、初めて格闘の戦術を意識した。それが結局強いのではないだろうか、と思った。金的に入れなくても人を倒すことはできる。フルコンでは上段の突きを試合で使えないから、上段突きを使ってよしとすると伝統派とフルコンタクトとどっちが強いかは厳密には不明だが、それでも痛めつける為の総合的技を使う方が闘いの勘所を体験的に知っているので、まあやはり、フルコンに軍配をあげる。
昔から空手は「一撃必殺」を称してきた。真面目にきちっと考えるとこの言葉は不思議なもんだ。そんなこと、本当かい?と一歩退いて考えてみよう。金的・眼潰しがばっちり入れば、必殺ではないにしろ相手の戦闘力を奪えるが。
薩摩の示現流は一の太刀にすべてを賭ける。それを敵として相対する沖縄空手は?
フーム・・・。沖縄空手の一撃必殺とはいかなるものか。そもそも古来の沖縄空手は「一撃必殺」と述べていたのかどうかは知らぬ。型は受け返しの連続で続く。そこには闘いのシミュレーションがある訳だ。一撃必殺だとシミュレーションは不要になってしまう・・・のだが。
征服者である薩摩武士と支配された沖縄の民。剣を奪われた沖縄の武人が練り続けた空手。それはやはり太刀を持つ薩摩示現流とどう闘うかを想定したことであろう。示現流対空手。どう考えても剣の初太刀が先に来る。徒手で身を守るには、まずその一の太刀をはずしてから反撃せざるを得ない。この時に一撃で相手の戦闘能力を奪わねば自分が殺される。なるほど一撃必殺は確かに必要だ。しかしもしそれができなかったとしても何とかしなければならない。二の太刀、三の太刀をいなしながら相手の戦闘能力を奪っていく過程が「型」なのであろう。「型」はすべて受けから始まる。剣を相手にすると最初は受けざるを得ない。
基本の突きには引き手があり、引き手とは相手を掴んで引くことであると、古伝空手の人は言う。なるほど、剣をかわして相手を掴んで引きながら突きを放てば破壊力は増す。だがもっと大事なことは、掴んでしまい、もはや剣の間合いを取らせないことにあったのではなかろうか。
空手に先手なしと言われ、精神的支柱にもなっている。だが事の始まりはこのように生々しいことのような気がする。先手なしではなく、先手ができないのであり、できれば一触の後で必殺を狙う。それができなかった場合、緻密に作られた格闘の体捌きの中で必殺の機会を何度も捉える。それが「型」であろう。従って型は一連の格闘ストーリーではあるが、起承転結ではない。受けと攻撃の1セット毎に完結していると見た方がよい。最初のセットで倒せなければ2セット目で倒す。セット間は居着かずに動くこと肝要であり、そうしなければやられることになる。
・・・・・
本日はここまでで缶ビール4本。史実を特段見ず、己の思索(妄想?)の中でグダグダ述べた。元に戻って、先輩の変わらぬ元気に乾杯! このまま飲みつぶれたいのがやまやまだが、夕刻からの宴席に出ないといけない。ここで打ち止めとしよう。
2013年2月23日土曜日
2013年2月6日水曜日
道場稽古行かずに時が経った
ここ2カ月ばかり道場に行っていない。ああー、イカンなぁ。会社の昼休みのトレーニングも毎日やっていた以前に比べればサボリが目立つ。タバコを吸いだしたのがイカン。昼休みになるとまず一服となり、貴重な時間が失われている。
とは言え、そこそこはやっており、ウェイトの負荷重量は減ってはいない。典型的な昼休みメニューは、
ウェイトはそこそこ続けているんだが、肝心の空手が御無沙汰なんだよねぇ。
黒帯になり指導員的な役責で、皆の前に立ってやるようになってからどうも道場に行っても楽しくなくなった。これは俺の性格かもしれん。自分で学び修行するのなら、楽しいとまでは言わないがやっているかいがある、皆の練習に加われなくなり見て指導することが主となると、特段楽しくはない。人を育成することが大事であるのは分かり切っているんだが・・・。しかし元々サラリーマンとして道場に通うのは、自らの技を伸ばすことが第一である。そうでなくては面白くはなかろう。
黒帯で何を甘えたことを言っているのか。指導をし育成する中で学びや気づきもあるし、自分の稽古はそれ以外でやればよい、と言うお叱りはごもっとも。それが空手家の門に立ったことでありこれからが本当の長い修行だ、というのも分かる。
しかしねぇ、俺はやはりサラリーマン空手家だ。考え方として中々その地点に立てない。限られた時間の中では自分の技の修練で目一杯であろう。そしてもっと学びたい。
道場に足が向かないもう一つの理由がある。先日俺は試合で後悔ばかりの負け方をした。落とし前をつけるべくより空手に励むか、それとももう年だし、この年になってもあくまで勝ち負けにこだわるのもなんだかなぁ、と言う思いもあり、どうすべきかの結論が出ていない、ずーっと考えてはいるんだが。
空手は人生を通して修行である。そんなことは頭ではよく分かっている。修行として猛練習でもして次に勝ちに行くのか、落とし前をつけるのか、そんな感覚ではたしてよいのだろうか、である。頭でっかちになっているサラリーマン空手家の思索だ。武道家としては闘いの勝ち負けも人生の中の修行の一場面であるだけであり特に気にする必要はないのだろうが、小人としての俺は、その吹っ切れ迄にまだ行かず、先日の敗戦に忸怩たるものを感じてしょーがない。落とし前をつけるぞとは思わずに、単に修行が足りなかったとして日々継続的に稽古に励むことが元より正解だ。エエーッイ、そんなことは分かっているわい。
俺はもう54歳になった。この年でそのようなことを考えているのは、むしろ若いと評する人もいるかもしれん。18歳、大学一年から体育会の伝統派空手部に入り、その後ブランクがあるがフルコンタクト空手を始めて通算で20年間くらいは空手をやっている。武の修練を持って心を修めることは大変難しいようで・・・今に至る。
心が整わなければ一歩が出ない。心を整える場が道場であるから何も考えず行って稽古すべきである。それは・・・・頭で分かっているんだが・・・心がまだなお分かっていないんだろうね。
とは言え、そこそこはやっており、ウェイトの負荷重量は減ってはいない。典型的な昼休みメニューは、
- まず傾斜腹筋70-80回。回数をこなすと腹よりも腰が凝ってくるのを感じるのでその回数で打ち止め。背中を丸めて腹に神経を集中し、腹筋で起き上がるようにはしているんだが、それでも腰にくるんだろうね。20-30代の若い頃には無かったことだ。
- 背筋60-70回。去年は80回やっていたので、これはサボリの為落ちたんだろう。もっとやろうと思えば+20回くらいはできると思うが、この段階で歯を食いしばってやると嫌気がさしそうで、ほどほどで止めることにしている。
- チェストプレス110Kを1セット目、何とか5回。2セット目は3回で上がらなくなる。3セット目は同じ重量だと上がる気がしないので、100Kに落とし何とか5回。8回2セット+3セット目が4-5回できることが目標。8回2セットをクリヤーできれば、俺の場合次回から重量を上げる。しかし今の頻度では伸びないだろうね。
- レッグエクステンション105Kを8回3セット。これがマシンの最大負荷であり、後は回数を増やすしかない。レッグカールの方は56Kを8→6→5回くらいが今までの所。これも8回2セットできれば負荷を増やす。レッグカールは今までやっていなかったのでエクステンションに比べればかなり負荷の差がある。新しいマシンが入ってやっとできるようになったのでやってはいるんだが、レッグカールが一番しんどい。「ウー・・・」とうめき声を上げながらやっている。
- 懸垂を広い順手で8回、逆手で8回、狭い順手で6回くらいでできなくなる。すいすいと8回3セットできるとよいのだが、すぐ負荷をあげるマシントレーニングに比べ、この懸垂はここ何年も同じレベル。時折1種目、例えば広い順手で可能な限り、今だと16回くらいやり、それで終わりとする場合もある。負荷を増やすと伸びるんだが、自分の体重は85K前後でそう変わらないもんね。バーベルを腰に巻きつけてやっている人もいるんだが、そこまでするのも面倒だからやってはいない。でも時折やってみるのもよいかもしれんね。パターンを変えないと退屈する。
- 真向法の柔軟。
- トレーニングに割ける限られた昼休みの時間、約20分強。昨年は上の種目の間隔を短くして、ヒンジースクワット100回か、ダンベルのショルダープレスを3セットのどちらかをやっていたが、ヒーヒー言いながらやるのも堪えるので、スクワット系と肩のウェイトは次の日のパターンにしている。が、スクワット系は非常に辛い為、次の日やらず、も多い。
ウェイトはそこそこ続けているんだが、肝心の空手が御無沙汰なんだよねぇ。
黒帯になり指導員的な役責で、皆の前に立ってやるようになってからどうも道場に行っても楽しくなくなった。これは俺の性格かもしれん。自分で学び修行するのなら、楽しいとまでは言わないがやっているかいがある、皆の練習に加われなくなり見て指導することが主となると、特段楽しくはない。人を育成することが大事であるのは分かり切っているんだが・・・。しかし元々サラリーマンとして道場に通うのは、自らの技を伸ばすことが第一である。そうでなくては面白くはなかろう。
黒帯で何を甘えたことを言っているのか。指導をし育成する中で学びや気づきもあるし、自分の稽古はそれ以外でやればよい、と言うお叱りはごもっとも。それが空手家の門に立ったことでありこれからが本当の長い修行だ、というのも分かる。
しかしねぇ、俺はやはりサラリーマン空手家だ。考え方として中々その地点に立てない。限られた時間の中では自分の技の修練で目一杯であろう。そしてもっと学びたい。
道場に足が向かないもう一つの理由がある。先日俺は試合で後悔ばかりの負け方をした。落とし前をつけるべくより空手に励むか、それとももう年だし、この年になってもあくまで勝ち負けにこだわるのもなんだかなぁ、と言う思いもあり、どうすべきかの結論が出ていない、ずーっと考えてはいるんだが。
空手は人生を通して修行である。そんなことは頭ではよく分かっている。修行として猛練習でもして次に勝ちに行くのか、落とし前をつけるのか、そんな感覚ではたしてよいのだろうか、である。頭でっかちになっているサラリーマン空手家の思索だ。武道家としては闘いの勝ち負けも人生の中の修行の一場面であるだけであり特に気にする必要はないのだろうが、小人としての俺は、その吹っ切れ迄にまだ行かず、先日の敗戦に忸怩たるものを感じてしょーがない。落とし前をつけるぞとは思わずに、単に修行が足りなかったとして日々継続的に稽古に励むことが元より正解だ。エエーッイ、そんなことは分かっているわい。
俺はもう54歳になった。この年でそのようなことを考えているのは、むしろ若いと評する人もいるかもしれん。18歳、大学一年から体育会の伝統派空手部に入り、その後ブランクがあるがフルコンタクト空手を始めて通算で20年間くらいは空手をやっている。武の修練を持って心を修めることは大変難しいようで・・・今に至る。
心が整わなければ一歩が出ない。心を整える場が道場であるから何も考えず行って稽古すべきである。それは・・・・頭で分かっているんだが・・・心がまだなお分かっていないんだろうね。
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