1年に3,4回、どうも空手に気が乗らず、道場へ通わない時期がある。会費を払っているのでもったいない限りではあるが、感謝の心で寄付している? いやいや道場は修練の場であるから寄付したって師範は喜ばないね。通って稽古することが肝要である。が、最近行っていない。
毎日の昼休みトレーニングは続けている。先日チェストプレスの新しいマシンが入ったので気も入る。負荷は110Kにして、6回→4回、さすがに3セット目は1回もできなくなるので100Kに落としてかろうじて4回と言う所か。俺の体格だともう少し腕の間隔を幅広にしたいんだが、そういう調整はできない。そうすればもっと回数が伸びるであろうに。少々窮屈感を感じつつも、何と言ってもウェイトの華であるからやりがいはある。150Kがマックス負荷だからまだ十分すぎるほど先がある。
35年ぶりに五木寛之の「青春の門」を読む。昔はどこまで読んだか不明だが、まあ続きであろうと、「再起編」から読み出して「挑戦編」の途中だ。アマゾンのKindleは全く便利で、1クリックで買え、電子書籍としてダウンロードできる。読み出して続きを読みたいとなれば即座に手に入る。今日は、だから「青春の門」三昧であった。
主人公の伊吹信介は今だ25歳で年を取らず、今だに自分探しをしている。平成20年代の若者の多くは自分探ししているとどこかで読んだが、1960年に25歳の若者が自分探しをしている。俺はと言えば40を越えて自分探しの旅に入り、10数年が経つ。そういう訳だな、皆がいつの時代も自分を探しているんだと納得して思いきや、最も年をとり「天命を知る」歳になっている俺が最も始末に悪い。こんな年寄りが「自分探し」と言う言葉を使うのも少々気持ちが悪い。むしろ諦観と言うべきもの? 諦観したいんだがし切れないから何やらごそごそしている、ということか。
1960年代の始まりは・・・安保闘争だね、やっぱり。国家として悩んでおり行く道を探している時であったと言えば、信介と同調する。その後、経済の道と決め日本は歩み出した。陰鬱ではなく汗をかきだした。
朝からビールを断続的に飲み出し、本日はもう9,10本目の缶ビールか。止めていたタバコも吸いだし二箱目も終わる。さあ、明日からはせめても禁煙だ。俺も汗をかきだすとよい、この年でも。
となると、また毎日のウェイト? うーーん、今日は笑い話で終わりたいんだが、どうも五木寛之氏のニヒリズムにあてられたみたいだ。笑い話かニヒリズムか。
2013年1月9日水曜日
12月31日 高野山に参る
2012年12月31日、大晦日なり。伊勢市のホテルで朝早く目を覚まし、一路高野山へ向かう。三重県の伊勢市から和歌山県高野山へは結構時間がかかるもんだ。調べた時には驚いた。紀伊半島は思いのほか広い。約4時間の行程である。
■2012年12月31日 (2,990円)
07:36 伊勢市 近鉄山田線急行・近鉄名古屋行
08:03 伊勢中川 近鉄大阪線急行・大阪上本町行 (1,410円)
09:23 大和高田 徒歩
09:51 高田(奈良県) JR和歌山線・和歌山行 (650円)
10:47 橋本(和歌山県) 南海特急こうや5号 (430円)
11:21 極楽橋
途中の大和高田から高田駅まで歩いたんだが、標識なし、人気なしで、iPhoneのMAP機能がなければ間違いなく迷子であった。この日は天気はよいが寒風強し。広々とした高田駅前のロータリーには、タバコを吸っている若者が唯一人。大げさに言えばゴーストタウンのような感じだった。
極楽橋からケーブルカーで高野山駅にやっとこさ到着する。俺は田舎への帰省の寄り道旅なんで、土産物が一杯入ったスーツケースを引いていた。これをどこかにあずけねば・・・、そんな所があるのだろうかと不安だったんだが、駅に500円の大型ロッカーあり。何とか成るもんだねぇ。はて、小銭がない。売店でビールを買ってくずす。
駅前でビールを立ち飲みしているとバスが出るとの放送があり、こりゃ急がねばと「大門」行きのバスに飛び乗り、車内でやれやれとビール続く。同時に出た「奥の院」行きのバスに乗った方が実はよかったんだけどね。「大門」行きバスを、「金剛峯寺前」で降り、参拝もほどほどに、歩いて「奥の院」に向かった。この日の夕刻、大阪駅で旧友と待ち合わせしている為に高野山滞在は約3時間で切り上げねばならなかった。急ぐ、早足、手がかじかむほどに寒いから丁度よい。
1992年に初めて高野山へ行った。当時の俺は心理的にボロボロだった。アルコール依存症に近かったようだとも思う。何度も飲んだくれてクダをまき、頻繁に二日酔い出社。仕事仲間から大顰蹙だ。それでも酒を止めずに酒に飲まれる日々。素面になると目一杯落ち込んでいた。これからどうなるんだろうかとアナタ任せの気持ち。休暇を取り、京都の友のもとに1週間程、何をするでもなくやっかいになっていた。朝、仕事に行く友を見送った後は、週日アパートで無気力ゴロゴロ生活。高野山に詣でて懺悔でもしてから仏の力にすがるか、という気分になったのはゴロゴロ生活の最終日くらいかね。で、高野山へ行った。歴史上と現世の有名どころの大きな墓が連なる道を歩いたことを覚えている。その後、お堂に上がり和尚の説法を聞いた。すがるような気持ちで聞いた感覚も覚えている。
あれから20年。結婚、子供、仕事もちゃんとあり、それなりに普通の生活を営んでいる。破滅志向のごとく酒を飲むことはもはや無い。・・・んだが、なにせ好きなものでいまだに365日飲んではいる。酒に飲まれることは、1年に1回くらいだろうか、大変少なくなった、ハハハハ・・・。
今回の旅に高野山を入れたのは、20年前の自分と再会したかった、と言うとキザに過ぎるであろうか、まあそんな所だ。
20年前は何にも考えてなくてただ単に高野山に行った。その時歩いた道が「奥の院」への道であることが、「金剛峯寺前」に着き、駐車場に掲げてある観光客用の地図を見てやっと、フムフムと判明した次第である。そりゃ行かにゃあイカンわな。
身を切るような寒さ、町中を早足で歩く歩く。やがて奥の院への参道に着いた。ここを歩けば、昔見たのと同じ光景を見られる。昔は消え入りそうな心で歩いた。今はそれを慈しむ気持ちで歩ける。やっとこさだ。つまるところ、感傷旅行なるものなんだろうが、人生はそんなもんだ。昔行った所を再訪するのは、昔の自分に会う為であり、来し方を想う為であろう。
いい参道である。墓が並び、巨木が並び、完結した空間がある。時代を経て朽ちかけそうな古い墓も多いが、不思議なことに死者の臭いがしない。観光地の散歩道としてあるからだろうか、それとも墓を並べりゃそんなもんか。無機質の石は死を閉じ込めた墓標として在るのみ。墓を建てることできっちりと供養しているから、怨念のヒトダマなんぞは出ないよね。忌み嫌い、怖れ慄くような死の空間は・・・、無いわなぁ。
おごそかな静寂の、何故か気持ちの休まる、墓と木々の道を歩いた。道は所々凍っており、用心しないと滑った。
本当かいな?と思う、石田三成公の墓。明智光秀公の墓もあった。我がオヤジは高野山を評して、眷族・成功人の墓が立ち並ぶのが気に食わんと生前言っていたが、歴史上の逆賊と言える面々を、その死の直後から法要しているのならば喝采である。さてどうだろうか。
歩いていて、20年前に見た風景と違うと感じていた。20年前は明るい光の中に成功者の大きな墓碑が連なっていた記憶がある。今、大きな墓はあるんだが古びているし、空間全体がしっとりと薄暗い。20年前の心があまりに暗かった故に、周りが明るく見えたのだろうか。歩いている道は木々の陰影の下に、厳粛に続いている。
奥の院に着いた。本堂に参り、参拝順路のままに本堂の裏手に廻り、弘法大師の墓に合掌、さらに地下の「契り」を成就するという祭壇も一応拝んだ。はて?20年前は本堂の畳に上がり、和尚の話を聞いたと思うのだが、そのようなことはできそうにない。うーん、記憶違いか、それとも寺側の変化か。まあ、しょーがない。戻るか。俺の頭には、助けを求める気持ちで座っている20年前の自分の情景がある。20年経ってまあまあの今があるから、もうよいよな。
無縁仏のピラミッド。名もなく忘れ去られた人々を供養してこその仏教。どことなく整然たる秩序を感じるのは大本山観光地ならでは?と、斜に構えてはみたが綺麗に俗気なく張り詰めているのもまたよい哉。
復路は、近くのバス停までの道を辿ったが、どうやらその道が昔歩いた道のようだ。木々から少し離れている。だから太陽が昇れば明るい空間に大きな墓標が並ぶことになる。もう俺の感傷は過ぎており、そのように客観的に結論づけることができた。
寺は死者の鎮魂。昔の印度発の生々しい仏教は違うんだろうが、日本の仏教はそれだ。死から視る生の教え。科学的には死は永遠の無である。が、死者の魂があると信ずるのは生者の特権だ。俺は亡き父に会いたいし、じーさんにもばーさんにも会いたい。多くの死者の魂が居る、この山に合掌。
高野山駅で性懲りもなく、寒い中またビール。さあ、友の待つ大阪へ向かおう。そして我が故郷に戻ろう。
2013年1月5日土曜日
12月30日 お伊勢詣り
2013年が明けた。
若い頃のように志をアップデートして、目標を立てることは無くなったなぁ。50半ばに差し掛かる歳のせいではある。仕事では当然目標を立てるが、我が人生のものとなると、よしやるぞの格闘よりは安穏を求める。
小春日和の中、ビールを相変わらず飲みつつ悠長に・・・なんだが、ちゃんと書いておかねばならんとして年末の小旅行を振り返る。
12月30日に伊勢神宮へ行った。初めてだ。神社仏閣は数多く行ってはいるが、大学時代に橿原神宮へ行った時のことは特別に記憶に残っている。白砂利の中、現役の空手選手であった俺は、「敷島の 大和男児(おのこ)の行く道は 赤き着物か白き着物か」の歌が腹に落ちた。白砂利は塵一つなく美しく、周りはピシッと気が張っていた。こういう神気の、美しい場所で切腹と言うのは有りかもしれん、と、生と死の交差点のような空間を感じた。当時、三島由紀夫の小説にもはまっていたからね。
伊勢神宮。よーし、全国の神社の総元締めであるからには、もうどれ程気が張るかは分からぬであろう、と期待して行った訳よ。
雨、大雨。雨にぬれた玉砂利は白ではなく、石の色をしていた。濡れる、寒い、ただひたすらに道を急いだ。正月明ければ多くの初詣客でごった返すに違いない神殿への道は、閑散としている。参拝の薦め通りにまずは外宮へ。思いの外広くなくてすぐ本殿に着いた。ここは食物を司る神であるトヨウケビメを祀っている。別宮と言われる3つの宮もそそくさと参った。うーんまあ、どおって事はない。内宮はと言うと、バスで行かねばならない距離らしい。直通バスに乗る。
内宮前に着いて、そう言えば今日はビール飲んでないなと思い出し、お神酒の替わりにバス停まん前の食堂で、中ジョッキ一杯。旨し。
相変わらずの冷たい雨。まだ夕刻には遠いのに薄暗い。天照大神の元へ登る人々。地に溶け、空に溶け、雨に溶ける。俺はそう言えば酒にもよく溶けた。
本殿を撮影するのは禁止である故、写真はない。本殿は茅葺き屋根の質素な小さな平屋であったが、その周りに神気が漂っている気配を感じたような・・・、それは神々しいものではなく、どこにでもあるような柔らかい気配。しかし純たるもの。田んぼの中にでもあればお吸い物の香りでも漂ってきてもよい。そういうものだ。さすがに味噌汁程までには俗ではないなぁ。我らは我らの古の神を誇りに思ってもよいかもしれない。それはカトリックの威圧するような教会建築でなく、仏教の大伽藍でもない、ただそこに在る佇まいであった。八百万の神は身近に居る。出雲大社はかなり大きかった記憶があるが、天照は優しく小さい。小さいがほんのりと広がり、そこかしこに居ることを感じさせる社殿である。ここで俺は家族の安寧を祈った。昔は、これから俺のやることを御照覧あれ、だったね。今は違う。しつこく言うが50も半ばだからな。
参拝の後、まばらな人の波に乗って門前町?いや神前町を下る。土産物屋もあるが食い物屋の方が圧倒的に多く、軒を連ねる。神の札は社の中にあったし、人は神さんに会った後は腹ごしらえの方ということか。なにせ寒い雨、人気もそれ程なく、来るべき新年は大変賑やぐのであろうが、年末の午後3,4時頃は休憩の時間なんだろう、商売気がないのかお上品なのか、開いているのか閉まっているのかもよく分からぬ。そう言えば昼飯も食っていなかったことを思い出し、一軒ののれんをくぐったが片づけものをしているらしく、邪魔をするのもはばかられるようで踵を返した。そぞろ歩いているうちにナントカ横丁に入り、そこはオープンな飯屋が集まっていた。中々よろしい雰囲気。ビールと伊勢うどんを食す。
伸びたうどん?いや元々こんなものか、初めて食す故分からないが、麺は柔らかくこしがなかった。しかし結構旨い。ビールにも合う。昔の人はうどんにこしが必要とかは考えなかったのであろう。小麦粉を腹に入れれば栄養だし、汁は貴重な塩分だ。ちなみに濃い醤油の色をした汁はそれ程辛くはない。その汁も全部飲むように、それがおいしい伊勢うどんの食べ方と店に書いてあり、その通りにした。
本日はここまで。既にビール、350缶を5本。十分じゃ。次は、次の日の大晦日に行った高野山を書いておこう。
若い頃のように志をアップデートして、目標を立てることは無くなったなぁ。50半ばに差し掛かる歳のせいではある。仕事では当然目標を立てるが、我が人生のものとなると、よしやるぞの格闘よりは安穏を求める。
小春日和の中、ビールを相変わらず飲みつつ悠長に・・・なんだが、ちゃんと書いておかねばならんとして年末の小旅行を振り返る。
12月30日に伊勢神宮へ行った。初めてだ。神社仏閣は数多く行ってはいるが、大学時代に橿原神宮へ行った時のことは特別に記憶に残っている。白砂利の中、現役の空手選手であった俺は、「敷島の 大和男児(おのこ)の行く道は 赤き着物か白き着物か」の歌が腹に落ちた。白砂利は塵一つなく美しく、周りはピシッと気が張っていた。こういう神気の、美しい場所で切腹と言うのは有りかもしれん、と、生と死の交差点のような空間を感じた。当時、三島由紀夫の小説にもはまっていたからね。
伊勢神宮。よーし、全国の神社の総元締めであるからには、もうどれ程気が張るかは分からぬであろう、と期待して行った訳よ。
雨、大雨。雨にぬれた玉砂利は白ではなく、石の色をしていた。濡れる、寒い、ただひたすらに道を急いだ。正月明ければ多くの初詣客でごった返すに違いない神殿への道は、閑散としている。参拝の薦め通りにまずは外宮へ。思いの外広くなくてすぐ本殿に着いた。ここは食物を司る神であるトヨウケビメを祀っている。別宮と言われる3つの宮もそそくさと参った。うーんまあ、どおって事はない。内宮はと言うと、バスで行かねばならない距離らしい。直通バスに乗る。
相変わらずの冷たい雨。まだ夕刻には遠いのに薄暗い。天照大神の元へ登る人々。地に溶け、空に溶け、雨に溶ける。俺はそう言えば酒にもよく溶けた。
本殿を撮影するのは禁止である故、写真はない。本殿は茅葺き屋根の質素な小さな平屋であったが、その周りに神気が漂っている気配を感じたような・・・、それは神々しいものではなく、どこにでもあるような柔らかい気配。しかし純たるもの。田んぼの中にでもあればお吸い物の香りでも漂ってきてもよい。そういうものだ。さすがに味噌汁程までには俗ではないなぁ。我らは我らの古の神を誇りに思ってもよいかもしれない。それはカトリックの威圧するような教会建築でなく、仏教の大伽藍でもない、ただそこに在る佇まいであった。八百万の神は身近に居る。出雲大社はかなり大きかった記憶があるが、天照は優しく小さい。小さいがほんのりと広がり、そこかしこに居ることを感じさせる社殿である。ここで俺は家族の安寧を祈った。昔は、これから俺のやることを御照覧あれ、だったね。今は違う。しつこく言うが50も半ばだからな。
伸びたうどん?いや元々こんなものか、初めて食す故分からないが、麺は柔らかくこしがなかった。しかし結構旨い。ビールにも合う。昔の人はうどんにこしが必要とかは考えなかったのであろう。小麦粉を腹に入れれば栄養だし、汁は貴重な塩分だ。ちなみに濃い醤油の色をした汁はそれ程辛くはない。その汁も全部飲むように、それがおいしい伊勢うどんの食べ方と店に書いてあり、その通りにした。
本日はここまで。既にビール、350缶を5本。十分じゃ。次は、次の日の大晦日に行った高野山を書いておこう。
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