2013年10月25日金曜日

空手を一休み

 若い時はやる事なす事すべては自分の未来のためにあった。年をとり50も半ばになると、さすがに自分の未来のためにがんばるんだぜという強い動機は無くなってきた。それよりも今を楽しむ心。もう少しで会得できそうかね? まだ疑問符。たいして理由もなく走り始めて3ヶ月余り経つ。走ることは自分の体を未来に向けて鍛えることではなく、走ることそのものが今楽しいと、そこはかとなく思えているようだ。だから走ることが続いている。自然を見て美しいと思うこと、人と会話して楽しいと思うこと、本を読んで新しい発見や意見に心を沸き立たせること、そういう今を楽しいと思えるように・・・そろそろなれそうな気がする…? 嗚呼まだまだクエスチョン。

  もうかれこれ8ヶ月が過ぎる、道場を退会して。競技を強く意識する空手をこのまま続けていても無意味に思えて。だからやめた。そりゃ若いときは試合に出て負ければ悔しくて、クソ今に見ておれ今度は勝つぞと、その連続で強くなっていくことができたし、それが自分を将来に向けて鍛錬し成長させることであった。その時は感じる余裕なんぞはなかったけれども、成長の過程そのものを若き生命が楽しんでいたっちゅうわけよ。

 年をとり試合に出て負ければ無論悔しいのではあるが、クソ今に見ておれ次は勝つぞと言う若い時と同じ感覚で行動して、それがどういう価値を持つのかと考えた。次は勝つぞとするならば、ひたすら稽古だね。若かろうが年をとっていようがそれは同じだ。人に勝つにはそれなりの資格がいる。俺のような未熟な道士ではどうしても人に勝つための稽古になってしまうんだよね、正しい姿勢は己に勝つということなんだろうけれども。その、試合や人との闘いに勝つことを望んで、60、70になっても延々と続けることにどういう意味があるのだろうかという疑問、実はここ2、3年頭にあった。キリが無いわな。競技を目指した空手はもうやめよう。

 で、しばらくは休みとする。30年以上も前からやってきたものであるからいずれはまた戻るとは思うが、しばらくは別のことを。

 ランニングと自転車を始めた。なにかこう、どんどん一人でできることになって行くな。空手にしても闘いには相手がいたんだけどな。

2013年10月21日月曜日

ランニングとサイクリングの週末

 9月7日土曜日は早朝9キロラン。朝は気持ちがよい。走る前にバナナを食べてエネルギー補給をし、今日は途中休憩なしでいくことを目指した。いつもならば5Kの中間地点、丁度坂を登り終えたあたりで苦しくなり水飲み休憩をする。休憩をすると息は整えられるが足の疲労はそんなに簡単に回復するわけでなく、再スタートはヘロヘロ引きずるように。そう、そんなことならば休憩なしで走り続けるがよかったと思えるほどじゃ。いつもならば後半部分は足のエネル ギーが無くなるのを感じるので、バナナ一本とは言えエネルギーを入れた。すぐ消化されるわけではないが気持ちパワーが出る。何も食わずにスポーツ飲料だけだと本当に消耗して足が与太る。

  いつも柔軟を行う8Kの地点までノンストップで初めて走ることができた。よーし、上出来だ・・・と確かに思うが、これで今度から8Kノンストップ、約1時間走り続けることが標準になる。今までは30分ノンストップ。30分が1時間、そして2時間と走る時間を長くしていくことが一人前のランナーになるには必要らしいが、さて本当にそこまで求めるべきや否や。

 早朝長距離走るとまだ一日中疲れている。歯医者、禁煙治療の医者とはしごして午後からはのんびりと過ごした。

 次の日の日曜日は リベンジの柴又帝釈天までのサイクリングをした。往復行程75K。今度は一人で行った。これはヒッジョーに疲れた。早朝9Kランの比ではない。家に戻ってからソファーに横になったが、何もしなくても筋肉が疲労でほてるし鈍く痛むように気だるかった。

 柴又帝釈天、寅さん記念館の話をそのうち記すかね…かなりよかった。俺が定年退職した後は寅さん映画をすべて観て、その土地へ寅さんと同じように旅するか。昭和そのもの、昭和は遠くに成りにけれ、だ。